107.あなたが私の剣である理由
ゼファレスの逃げ込んだ隠し扉の先は、石造りの階段を下った後、王城の奥へと真っ直ぐに伸びるひどく冷たくて暗い通路だった。
先程までの喧騒が嘘のように、今はただ、カグツチと私の足音だけが規則的に反響している。
「……痛みますか」
暗闇の中、私の半歩前を歩く広い背中に向かって、ぽつりと問いかけた。
デッドアッシュの凶撃を受け止めたカグツチの腕は、ひどく内出血を起こし、服の袖も破れかけている。
「ん? ああ、これくらい平気。ルシアの指に比べたら、かすり傷みたいなもんだよ……指、ほんとにもう痛くない?」
そう言ってカグツチは悲しげに私の包帯の巻かれた左手の薬指と小指を見やり、心配そうな顔を見せた。
「えぇ、本当にもう痛みませんよ」
「よかった」
安堵のため息をつくカグツチに、私は小さく息を吐き出す。
「……全く。盤面をひっくり返すための最も合理的で確実な手を、力技で握り潰すなんて」
「合理性とか、盤面とか、そういうのはわかんないけどさ。……ルシアが自分を差し出して得る勝利なんて、オレは絶対に認めないって決めたから。そういうのは、オレが全部燃やしてやるんだ」
暗闇の中でも、彼の金色の瞳が力強く光っているのが分かった。
私は、自分の手のひらをそっと見つめる。
先ほど大広間で、彼が私を守るために放った星をも焼き尽くさんばかりのあの蒼い炎は、私の髪の毛一本だって焼いていない。
「……ええ。本当に、温かくて優しい炎でしたよ」
私の言葉に、カグツチが驚いたように足を止めた。私もその隣に立ち止まる。
彼を見上げ、かつて未来へは勝手に連れて行くと言った竜に対し、偽りのない本音を告げた。
「あの炎に包まれた時、私は初めて、自分は守られるべき存在なのだと自覚しました。……ありがとう、カグツチ。あなたが私の剣で、本当に良かったです」
私が微笑むと、カグツチは目を丸くした後、暗がりでも分かるくらいに顔を綻ばせていた。
次の瞬間、ふわりと身体が浮いた。
カグツチが私の背中と膝裏に腕を回し、軽々と抱き上げたのだ。
彼はそのまま私を落とさないようにお姫様抱っこの体勢で、壊れ物にでも触れるかのように――けれど二度と離さないと誓うように、自身の分厚い胸へとぎゅっと力強く抱き寄せた。
「そうだよ、ルシアは守られるべき存在なんだよ」
ゼファレスを確実に殺す盤面を組み立てるためなら、自ら指を折り、心を殺し、竜種の身体だから死なないと自分の身体さえも駒として使い潰す覚悟だった。
復讐を果たす者としてそれは唯一の冷徹な正解のはずだった。
けれどそれは、晴れを証明するための者としては正しい行いではなかった。
彼は、私が私自身を蔑ろにするその自己犠牲の計算式を、絶対に許さないと真っ向から否定してくれたのだ。
私自身が真っ先に捨てようとした私の価値を、彼だけが傷だらけになって拾い集め、本気で怒ってくれた。
それだけで、心の中が晴れた気分だった。
「……もう、間違えないように気をつけますね」
「何度間違えたっていいよ。オレは何度だって怒るから」
耳元に落ちた甘く熱い吐息に、心臓が大きく跳ねる。
彼は私を腕の中にすっぽりと閉じ込めたまま、前を向いて力強く地面を蹴った。
抱き上げられた腕から伝わる体温は、先ほどの業火と同じように温かかった。
ここが世界で一番安全な私だけの場所だと、その熱が教えてくれる。
「――カグツチ、お願いがあります」
私の真剣な物言いに、カグツチは茶化すこと無く「うん」と続きを促した。
「どうか、これから先に何が待っていても――その怒りを燃やさないでください」
無茶な事を言っているのは自分でも分かっている。
カグツチの足が一瞬止まりかけるが、すぐにまた走り出す。
「復讐は私のものです。あなたの怒りを使ってはいけません」
彼の肩にそっと触れる。
「あの男をこの手で終わらせることが……私の明日は晴れるのだ、と証明する最後の糸なのですから」
その言葉の奥にある、私の痛ましい執着に気づいたのだろう。
カグツチは一瞬だけ、泣きそうな、ひどく悲しげな目を伏せて、応えるように檻のような腕をよりきつく締めた。
「うん。……分かってるよ。ルシアのそれを、オレが奪ったりしない。ゼファレスを終わらせるのは、ルシアだ。――それに、ルシアと約束したからね」
「お願いの件ですね。……一体なにをお願いされるのでしょう。少し怖くもありますが」
珍しく、私の方から茶化して見せると、その言葉に応えるように、彼の腕の力がほんの少しだけ優しくなった。
見上げると、暗がりの中でも、彼が泣き出しそうなほど嬉しそうに微笑んだのが分かった。
(ああ……そうか)
私が復讐の終わった後の話をしたことが、彼はこれほどまでに嬉しいのだ。
これまでの私なら、約束を果たす前にこの命を盤面に投げ出す前提で動いていただろう。
カグツチはそれをずっと恐れていたのだと、今なら分かる。
彼の胸に耳を当てると、力強く、けれどとても穏やかな鼓動が聞こえた。
「では、終わらせに行きましょうか――私の、傲慢で、独りよがりな復讐譚を」
やがて私たちは、暗い通路の奥へと歩みを進める。
この直線の突き当たり――竜継の間へと繋がる隠し扉を目指して。
もはや迷いも恐れも存在しない。
この腕の温もりは、運命すらも焼き尽くす、世界で一番優しい最強の竜のものだから。




