幕間.砕けることのない石は永久の輝き
この世界に存在する、最も硬く、透き通った美しい鉱石の名――それが、私の名だった。
母よりこの名を付けられてから、もう九百年の時が経っている。
だが、その華やかな名と見た目の美しさに見合う竜ではなかった。
致命的なまでに口下手であり、そして何より――絶望的に鈍感である、と最近ようやく気付いた。
とにかく会話と言うものが苦手だった。竜種に会話は許されていないが、主に来客に愛想を振りまけと言われるとその都度困っていた。
無愛想、朴念仁と罵られても全くその通りだったので頷いた。その代わり決闘で負けることはなかったし、負けろと言われればそのように従った。
私はただ、家を着飾るための宝石であることになんの疑問も抱かなかった。
今から三百年前。
私は主の命で、王都から遠く離れた人類の生存圏外、辺境の地にある女王の巣へ連れてこられた。
竜種のメスは極めて希少だ。
彼女たちは王家の庇護下で手厚く保護され、次代の竜を産むためだけにその場所で暮らしている。
オスは貴族の家格を上げるため、血統という道具を残すためにそこへ派遣され、メスに選ばれるのを待つ。
それが女王の巣。
我が家がこの巣に呼ばれるのは数百年ぶりだ。
主からは「何がなんでもメスに選ばれてこい」と厳命されたが、出立の際、主の目には明らかな諦めが混じっていた。
無愛想で気の利かない私では、女王の相手など到底務まらないと分かっていたからだ。私自身もその客観的評価に同意していた。私には、他のオスのように美辞麗句でメスを飾る機能がない。
案内された豪華な部屋には、一匹のメスがいた。
美しい竜だった。透き通るような銀の髪に、まるでダイヤモンドのように光を乱反射する見事な角。
しかし彼女は出窓に腰を下ろし、片膝を抱えて窓の外を眺めていた。
「それ以上部屋に足を踏み入れたらその角を粉々にしてやるから」
私が部屋に入った瞬間、彼女はこちらに一瞥をくれることもなく、威嚇するように言った。
大のオス嫌い。それが、竜の巣を訪れて最初に聞いた、他の竜からの彼女の評判だった。
ここへ来るまでに、何十匹というオスが彼女の機嫌を取ろうと貢物をし、美しい言葉を並べ、そして全員が拒絶されて追い出されたそうだ。
「わかった」
私は、彼女のテリトリーの境界線である扉のすぐ横に腰を下ろした。
ここならば殺されず、かつ彼女からの要求を完全に満たせる。
「……何をしているの」
「座っている」
「見れば分かるわよ。……主の命令でしょう? 期限は三ヶ月でしょう? 私のご機嫌をとって、選ばれようとはしないの?」
「しない」
嘘を吐く機能はない。私には機嫌を取るという高度なコミュニケーション能力は備わっていないのだから、事実を述べるしかない。
「……あなた、自分って言うものがないのね。あぁ嫌だ嫌だ。これたからオスは嫌いなのよ。怒りがないから主体性がない。どいつもこいつも似たような面で美辞麗句並べて、鱗押し付けてきて。いらないっつーの……気持ち悪い」
出窓に座る彼女の姿は、私がこれまで見てきたどの竜種よりも、極めて精緻で高い完成度を誇る個体だった。
光を反射する角も、銀の髪も、ただ美しいという客観的事実としてそこに存在していた。
私には、彼女をどうこうしたいという欲求はない。
ただ、メスには従うという本能と、主からの命令。その二つに従って、期限が来るまでこの最適な座標で待機し続けるだけだ。
私はただ、彼女の部屋の扉の前に座り続けた。食事の時も、夜も。彼女のテリトリーには決して踏み込まず、ただ岩のようにそこで呼吸をしていた。
最初は警戒していた彼女も、私が本当に何もしないとわかると、少しずつその強張りを解いていった。
一週間が経った頃、彼女の方から少しだけ距離を縮めてきた。
「……あなたの名前は?」
短く、名だけを告げた。それはこの世界で最も硬く、透き通った鉱石の名だった。
私が名を告げた瞬間――彼女は両膝を自分の胸元へ寄せ、ひどく自嘲するように、悲しげに笑った。
「……そう。やっぱり、あなたが私の運命なのね」
私は黙って首を傾げた。
「ええ。この間、スピカが教えてくれたわ。私の本当の名前はカリナン。……この世界にはない言葉だけれど、別の世界で一番大きなダイヤを意味するんですって」
なぜ、急に彼女は自分の名前を明かしたのか理解が追いつかず、固まる。
「でも、番ではないわ。残念だったわね、完全な個になれなくて……まぁ、その無欲な瞳が怒りを欲しているとは思えないけれど」
そう言って彼女は私の瞳をまっすぐに見据えた。
「……馬鹿みたい。最初から、私が死ぬことは避けられないように決められてるのね」
彼女の声は、必死に強がっているようでいて、酷く震えていた。
「ねぇ、あなたは自分の原初の夢を覚えてる?」
私は黙って首を横に振った。
「私はまだ若いから、はっきりと覚えているの。……何が運命の定まるとき、よ」
彼女は両膝に顔を埋めたまま、ぽつりとこぼした。
「私は、星すら焼くような……燃える卵を産むの。その卵を産んだせいで、私は内側から焼かれて――それでも愛しそうに卵を抱きしめて、名前を与えて死ぬの」
それは彼女にとって恐怖だったのだろう。いつも気丈に振る舞っていた肩が僅かに震えていた。
「……逃げられない行く末を見せられて、それでも子どものために喜んで死ねるほど、私は立派な生き物じゃないわ。それが私の因果の定まる瞬間だなんて、冗談じゃない」
だから、彼女はオスを拒絶していたのだ。
種の保存という本能よりも、明確な死への恐怖が勝っていた。
黄金の瞳が、私を射抜く。威嚇の奥に隠された、縋るような絶望の色。
「オスは嫌いよ。何を言っても怒らないでヘラヘラして、私の機嫌を伺って媚びへつらって。結局は本能に従って、私を殺す卵を産ませようとするんだから。……あなたも、交配のためにここへ来たのでしょう?」
「そうだが」
「なら……」
「しない」
私が短く告げると、彼女は目を丸くした。
「……え?」
「交配は、しない」
「……は? 何を言っているの? 命令なんでしょう?」
「いや……別にいい。メスに不快な事はしてはいけない」
そう言って私は部屋を出て扉を閉め、そのまま扉の前に座り込んだ。
カリナによってすぐに扉が開かれた。
「話が通じてないわよ! ここに座って、どうするつもりなの!?」
彼女が苛立ったように声を荒げる。
どう言えば伝わるのか。私は自分の語彙を探し、事実だけを口にした。
「原初の夢がそうだったとしても、それは今じゃない。他のオスが来たら、追い返す。……そうすれば、君は死なない」
彼女は、ぽかんと口を開けた。
私がただ命令を放棄するだけでなく、この部屋の扉を塞ぎ、彼女が死ぬ原因をすべて物理的に排除すると言っているのだと、ようやく理解したようだった。
「……そ、そんなことしたら、あなたは主の役に立たないって怒られるんじゃないの!?」
「平気だ」
「何が平気なのよ!」
「私は誰にも壊せない」
「……そりゃ、あんたの名前の因果なら壊されることはないでしょうけど」
「処分されても、砕けない。一番硬い石だからな。……君の部屋の扉を塞ぐただの重石には、丁度いい」
私の名――■■■■■■。
この世界で最も硬く、最も輝く石の名前。
それを私は、ただの物理的な頑丈な扉の先へ通さないための重石として使うと宣言したのだ。
私のあまりにも不器用で、言葉足らずで、ロマンチックの欠片もない答えに。
彼女は呆然とした後――泣きながら、声を出して笑い始めた。
「あははっ……ばかみたい……っ。なによそれ、重石って……ふふっ、あははははっ!」
涙を拭いながら、彼女は心の底から可笑しそうに笑っていた。
それが、何もなかった私の胸の奥に、言葉にできない何かが温かく灯った、最初の瞬間だった。
◆ ◆ ◆
それからの女王の巣での日々は、静かだった。
私は宣言通り、彼女の部屋の扉の前に座り続けた。
他のオスが近づけば無言で立ち塞がり、すべて追い返した。
中には、酷く厄介なオスもいた。
白銀の鱗を持つその竜は、種の多様性だの存続だのと、尤もらしい理屈を並べ立てて彼女の部屋へ押し入ろうとした。
「彼女の胎をたった一匹のオスに独占させるのは合理的ではありません。私の優秀な胤も宿していただくのが、種としての正しい振る舞いです」
白銀の竜――シロクマは、さも正しいことをしているかのような顔でそう言った。
その言葉の奥に、カリナの恐怖や意志への配慮は微塵も存在していなかった。
私はどう言い返せばいいか分からず、少しだけ己の語彙を探したが――結局、何も見つからなかった。
だから、彼が喋り終えるより早く、私は己の右腕を水平に掲げた。
ピキ、と。
骨が軋むような音とともに、皮膚を覆う柔らかな人肌を、光を透過し、虹色の輝きを放つ、決して割れることのない鉱石結晶体が包み込む。
私の意思に従い、その右腕は瞬時にして、あらゆる物質を塵へと変える、巨大な刃物へと形状を変化させる。
相手は、貴族遊戯で無敗を誇る優秀な個体だ。
一度戦ったことはあるが、命令により負けるよう指示されていたので本気は出さなかった。
シロクマ、と言う名前が何を指すのか分からないが――この世界で一番硬い鉱石を刃物のように変質させた私の腕に切れないものはない。
私は彼の全身を容赦なく切り刻み、砕き、力ずくで彼女のテリトリーから排除した。
血まみれになって這いずって去っていく白銀の竜を見て、部屋の中からカリナが「やりすぎよ」と呆れながらも、少しだけ嬉しそうに笑ってくれたのを覚えている。
そうして私は、彼女の運命を先延ばしにするだけの重石になった。
時折、彼女は出窓から降りてきて、私の隣に座った。
そして人間が書いた甘味の作り方の本を読み聞かせてくれたり、窓の外の雪景色の話をしたりした。私が相槌を打つだけでも、彼女は「あなた、何も考えてなさそうに見えてちゃんと私の話を聞いてくれるのね」と笑った。
そんな穏やかな時間が、ニカ月続いた。
ある日、彼女は唐突に言った。
「ねぇ。もし私が燃える卵を産んだら……やっぱり貴族の元へ貰われていくのよね。竜種の父と子の繋がりは薄いもの……あなたは、この子が自分の子かも?って気付いたことはある?」
私の隣で、真剣な眼差しを向けた。
威嚇も、死への恐怖も、そこにはもう無かった。
だからこそ、その質問の意図はよくわからなかった。
私は、己の手のひらを見つめて答える。
「……いや、私にはその機能はないと思う。そもそも実証したことがないから分からない」
「実証って。まどろっこしいから簡潔に言ってよ」
「私は子を成せたことはない。数百年前に女王の巣に呼ばれた時もつまらない無能と烙印を押されて即帰還させられた」
私が己の機能の欠落を客観的な事実として述べると、彼女は一瞬ぽかんと口を開け――やがて、腹を抱えて笑い出した。
緊張していたはずの彼女がなぜ急に笑っているのか理解できず、私は首を傾げた。面白いことを言ったつもりはなかったのだが、彼女が自分の言葉に笑ってくれたことがなぜか胸の奥に染み渡る。
「あははっ……! なによそれ。ふーん、そっかぁ。あなた、私以外のメスを全っ然知らないのね」
彼女はどこか得意げな、子どもっぽい優越感を隠そうともしなかった。
「そうね、あなたは気の利いた言葉一つ言ってくれない。贈り物の一つ見つけてくる頭がない。宣言通り繁殖目的でここにいるオスがここに入ってこないように部屋の入り口で立っているだけだものね」
自分が今までメスに見向きもされない理由を明確に並べ立てられる。なるほど、どうやらそれではいけなかったらしい。
「因果と言うにはあまりにも――あなたに振り回されたこのニカ月は、私にとって特別だったわ」
それは、彼女が運命からの逃亡をやめた瞬間だった。
なぜ彼女が心変わりしたのか、私には分からない。
けれど、彼女は私を見て、静かに微笑んだ。
「……ねぇ、私のこと好き?」
「私はただの重石で、君は」
「そういう事を聞いてんじゃないわよ。好きなの? 家の責務なの?」
怒涛の勢いで問い詰めてくる彼女に、私は言葉を失った。
私の回路の中に、その二つを天秤にかける機能は備わっていない。主の命令であれば責務であり、彼女を守りたいと思うこの不可解な熱が、彼女の言う好きなのだとしたら、その境界はどこにあるというのか。
「……お世辞を言う機能は、私には備わっていない。だが、客観的な事実としてなら言える」
私は、隣に座る彼女の姿を、六百年の記憶と照らし合わせながら見つめた。
「君ほどきれいな生きものを、私は知らない」
それは、私にとっての限界だった。
私の拙すぎる報告のような言葉に、カリナは毒気を抜かれたように立ち尽くした。
そして、ひどく悲しそうに、けれど慈しむように私の頬に手を伸ばした。
「――因果は変えられない、か」
彼女は私の手を引いて、部屋の中へ招き入れる。
「……いいわ。よく分かった。あなたは、言葉じゃ動かない。義務と、役割と、目の前の真実だけでできている……本当に、救いようのないほど完成された鉱石なのね」
彼女の声が、震える熱を持って私の手に染み込む。
「逃げ続けるのにも、飽きてしまったの。……どうせ死ぬなら、あなたの子がいいわ」
「……でもそれは、君が望まないものだ」
「気が変わったのよ。……いいえ。決めたの」
カリナは私の頬に、爪を立てるように強く触れた。その瞳には、先ほどまでの少女のような揺らぎはなく、一匹の女王としての苛烈な意思が宿っていた。
「……約束して、■■■■■■。この子が生まれたとき、私はもういない。でも、あなたは生き残る。これから何百年も……私のいない世界で、あなたはまた、平気な顔をしてきれいなものを探しながら生きていく。……そんなの、絶対に許さない」
彼女の指が、私の肌を抉るように強まる。
「だから、あなたが見つけて。この子を、私だと思って死ぬまで守りなさい。誰が何を言おうと、あなたが私を守ってくれたみたいに――一生、この子に私の影を見続けなさい」
「わかった。それが君の願いなら、そうしよう」
「願い? 違うわ。自分に心があることすら気づかないあなたに、永遠に私を刻み込むための――私の呪いよ」
感情を持たないはずの私の胸の奥が、かつてないほど激しく軋んだ。
「この子に伝えなさい。『あなたが生まれてくるのを、母さんは誰よりも楽しみにしていた』と。……不器用で、嘘をつけないあなたが、その言葉を生まれてくるこの子に届けるまで。あなたは私の呪縛から解放されない。……いいわね?」
だからこそ彼女は、ただ命令に従うだけの私の存在理由に、自分という決して消えない責務を深く刻み込んだのだ。
この世界で竜は貴族の道具だ。会話することも許されない。その制約の中で、名前も知らないたったひとりを探し出すこと――それは、雪の中から水を探せと言っているようなものだった。
果たされぬ誓約がある限り、私は永遠に、彼女という存在を反芻し続けることになる。
「……あぁ。約束しよう」
そんな無理な注文に、私は迷うことなく頷いた。
そこに、私の人生における最初で最後の、主の命令ではない私の意志になると確信を見たからだ。
私たちが結ばれ、彼女がその身に命を宿したと人間たちが知った翌日。王家の手によって、強制的に女王の巣からの退去を命じられた。
種付けの終わったオスは用済みであり、産卵と言う神聖で危険な儀式に、ただの道具であるオスが立ち入ることは許されていなかった。
「……さようなら、■■■■■■」
城を去る私に、彼女は背を向けたままそう言った。
振り返らないのは、きっと、私に情けない顔を見せたくなかったからだ。
私は、彼女のその背中に何か声を掛けなければと思った。だけど、何も浮かばない。
私の口から気の利いた言葉は一つも出なかった。
数ヶ月後。
主の元へ戻され、薄暗い倉庫の隅で待機を命じられていた時のことだった。
突然、私の胸の奥で、何かが激しく軋むような痛みが走った。
私の内側で、あの時繋がった因果が、悲鳴を上げている。
彼女が燃える卵を産み落としたのだと、本能が理解した。
極大の熱が彼女を焼き、彼女の命が削られていくのを、遠く離れた場所で、ただ因果の繋がりだけで感じ取っていた。
彼女は番ではない。
番でなければ因果が交わることは決してない。
それなのに――分かってしまった。
(……あぁ…………)
私を繋いでいた細い糸が、燃え尽きて、千切れる感覚。
腹の底から湧き上がるこの巨大な喪失を、どうやって外へ吐き出せばいいのか分からなかった。
怒りという器官を持たない私には、その理不尽を焼き殺すことも、咆哮を上げることもできない。
私にはこの痛みを理解する機能などないはずなのに。なぜこんなにも胸が空洞になったように痛むのか、その正体を処理することができなかった。
ただ、自分の胸ぐらを掴み、ひたすらにうずくまることしかできなかった。
そこから、私はこの感情の処理の仕方がわからないまま生きていた。
貴族の道具として生きていくことですり減らすものは何もなかった。
倒せと命じられれば砕けることのない刃を向け、負けろと命じられればそのようにする。
ただ、無性にシロクマを見ると切り刻まずにはいられなかった。もちろん、主に言われた通り最後にはわざと負けるのだが。
主は私に愛想は求めなくなった。ただ、道具としてあるだけの日常。
カリナと言う輝きを失った虚無の日々。
砕けることのない石は、ただあるだけで輝き続ける。
その中身に、もう何も残っていないとしても。
あの日彼女から刻まれた言葉を届けるという呪い。空洞になった私をこの世界に繋ぎ止める、唯一の楔――それを、どうすればいいか分からず手に持て余していた。
まさかこれより先、ゼファリオン・ファ・ヴォルシュタインと言う男に出会ったことで全てが変わってしまうとは――この時の私は知らなかった。




