106.ひび割れた角と、足りない言葉 Sideアシュレイ
大広間から続く回廊は、鼓膜を裂くような貴族たちの悲鳴と狂乱の波に呑み込まれていた。
「止まるな! 盾を構え、そのまま外へ向かえ!」
俺は衛兵たちに指示を飛ばしながら、ノエルたちを囲む陣形を先導して走った。
豪奢なドレスの裾を破り捨て、靴を脱ぎ捨てて逃げ惑う貴族たち。つい先刻まで、ゼファレスの威光にひれ伏し、媚びへつらっていた有象無象の惨めな姿がそこにあった。
その混乱の渦中――逃げ惑う人々の波に逆らい、大広間へと向かって足を引きずる黒い影とすれ違った。
四肢を包帯でぐるぐる巻きにされた、ロボだった。
立っているのもやっとの重傷のはずだが、彼は俺たちに目もくれず、血走った瞳でただ真っ直ぐに、崩壊音の響く広間――相棒である灰色の竜がいる死地を目指して進んでいく。
安全な外回廊まで辿り着いたところで、俺は足を止めた。
「……俺は残る。お前たちはこのまま彼女たちを城外へ避難させろ」
「アシュレイ殿下! しかし……っ」
「行けッ!!」
衛兵たちを怒鳴りつけ、背中を押す。
ノエルが心配そうにこちらを振り返ったが、俺は無言で頷き、彼女たちから踵を返した。
心の一部が、彼女と共に安全な場所へと叫んでいたが、知性がそれを冷徹に切り捨てる。今この混乱を掌握しなければ、ルシア嬢が命懸けで作った密室が瓦解し、盤面そのものがひっくり返りかねない。
「アシュレイ殿下!!」
再び地獄と化した本城の中心へと踵を返そうとしたその時、血相を変えた王都警備隊の隊長が、外側から部下を引き連れて駆け寄ってきた。
「ゼファレス殿下のお姿がございません……! 隠し通路を通って退避なされたようですが、大広間では未だデッドアッシュとアグレストのドラグマキナが――」
「――待て」
俺は低く、よく通る声で隊長の歩みを止めた。
「広間のあの異常な熱量を感じないか。あれはただのドラグマキナではない。デッドアッシュも暴走している。お前たち人間の兵が何百人踏み込んだところで、一瞬で灰にされるだけだ」
「し、しかし! このままでは次期王たるゼファレス殿下が!」
俺はわざとらしく眉をひそめ、悲痛な決断を下すように目を伏せてみせた。
「……アレの狙いはゼファレスだ。ゼファレスの事だ。うまく逃げおおせているに違いない。これ以上の被害を出せば、国そのものが火の海に沈む。王族として、民とこの国を無駄死にさせるわけにはいかない」
「そ、それでは……」
顔面を蒼白にする隊長に向け、俺は懐から王家の紋章が刻まれた短剣を引き抜き、高らかに掲げた。
「緊急事態だ。王位継承権第二位、アシュレイ・ファ・ヴォルシュタインの名において命じる。これより、本城の全指揮権は私が掌握する!」
「は、ハッ……!」
「直ちに大広間へ続くすべての通路を封鎖しろ。誰も近づけるな。避難が優先だ。逃げ遅れた来賓たちを城の外へ。我々から刺激しない限り、こちらへ火の粉が飛んでくることはないはずだ。――作戦室を開く。精鋭部隊及びドラグマキナのみ選出し、食堂に集めておけ。残る兵は全て来賓方の退避に全投入だ」
「――承知いたしました!!」
兵士たちは俺の命令に一糸乱れぬ敬礼を返し、蜘蛛の子を散らすように各通路の封鎖へと走っていく。
それを見送りながら、俺は心の中で冷たく嗤った。
彼らは気づいていない。俺のこの命令が、「ゼファレスを救うため」ではなく、ゼファレスを完全に孤立させ、確実に殺させるための密室作りであることに。
(……これで、誰一人としてあの空間の邪魔はできないぞ、ルシア嬢)
◆ ◆ ◆
重い足取りで、大広間へと戻ってくる。
視界を塞いでいた土埃が引いたその隙間に――あの化物じみた少女と、彼女の剣たる火竜の姿が、ちょうど隠し通路の暗闇へと姿を消していくところだった。
俺は声をかけることなく、その背中を静かに見送った。
広間の隅に残されたのは、崩れた柱の影にうずくまる黒い塊。眠る灰色の竜を抱きかかえるロボの姿だけだ。
分厚いレンズを中指で押し上げる。
盤面は、あの化物の宣言通りに動いている。
来賓を安全に退避させた後、事が済んだ頃合いを図ってゼファレス救出部隊を率いて彼女の前に姿を見せる。
その時が来たら俺は永久に玉座に縛り付けられる事になるが――それでも、ノエルが巻き込まれる杞憂はこの世から消え去る。
俺の弟は、人間を資産と呼び、使い潰すことで自らを盤面の支配者だと信じて疑わなかった。
だが、あいつは決定的な見立て違いをしていたのだ。
ルシア・ヴァレット。
あの令嬢は、目的のためならば、自らの人間性も、尊厳も、そして命すらも平然と天秤の砂として投げ捨てる。
愛のために狂い、泥を啜り、人の皮を被った本物の化物へと成り果てた女。
あんな底知れぬ魔王を前にして、人間の知略など通用するはずがないのだ。
ゼファレス――。
お前は今頃、あの閉ざされた空間で、自分が本当に怒らせてはいけなかったものの正体に気づき、絶望している頃だろうか。
誰もいなくなった大広間に、瓦礫の崩れる音と俺の靴音だけが響いた。
玉座の隅――そこに、ロボの腕の中で眠り続けるデッドアッシュの姿を一度だけ無言で見下ろし、立ち止まる。
先ほどの戦いで何が起こったのか、俺は見ていたわけじゃない。だから何が起こったのか理解出来なかった。
カグツチがデッドアッシュにとどめをさしたようには見えなかった。
しかし、彼が横になって眠った姿など――デッドアッシュと改名されたあの瞬間から、俺は見たことがなかった。
「……デッドアッシュは眠っているのか?」
俺の問い掛けに、ロボは僅かに頷いた。
「あぁ……こんな穏やかな寝顔、初めて見た気がするぜ」
そう零したロボの表情もまた穏やかで――この時間が僅かでも続けばいい。
そう思った瞬間だった。
――ピシッ。
不意に、硬質なガラスがひび割れるような、ひどく澄んだ音が響いた。
俺の身体が、凍りついたように止まる。
「……」
デッドアッシュを支えていたロボが、弾かれたように目を見開いた。
レンズの奥で目を凝らすと、デッドアッシュの頭部に生える太い鈍色の角に、稲妻のような亀裂が走っている。その亀裂から、灰色の欠片がボロボロとこぼれ落ちて行く。
それはまるで炎が燃えた後に舞い上がる灰のようで、静かに身体の熱ごと思考を奪っていく。
「…………ア、……シュ……レイ……様」
角が砕ける音と共に、掠れた声が響く。
ゆっくりと開かれた瞼。そこに虚無の濁りはなく、澄み渡った金色の瞳がまっすぐに俺を見据えていた。
「……大きくなられましたね、アシュレイ様」
デッドアッシュは微かに口角を上げた。
それはかつて、俺に祖父の武勇伝を語っていた頃の、見覚えのある笑みだった。
「お前――正気に……」
デッドアッシュを支えていたロボの瞳が僅かに揺らいでいるような気がした。
なぜだろうか。俺は無言でレンズを押し上げた。眼鏡越しの視界は、いつもより少しだけ歪んで見えた。
やがて彼はロボの制止を振り切るようにして、崩れそうな巨躯を無理やり立ち上がらせる。
「おいッ!! やめとけ! 角が割れ始めてるんだぞ、もう限界だ!」
「……ロボ、頼む、私を、あの方の元へ」
デッドアッシュは自らの震える両腕を、痛ましげに見つめていた。
「……行かなければ、ならない」
デッドアッシュの視線はゼファレスが通っていった隠し通路だけを射抜いていた。
「もういいだろ、ゼファレスなんて……お前、自分が何されたかわかってねェのか!? お前はあの日、あいつに無理矢理改名されて、そっから十三年も強制的に従わされて――!」
「――違う!」
デッドアッシュが声を荒らげるところなど、初めて見た。
「……違う。全ては私の言葉が足りなかったせいだ」
「ゼファレスの野郎に強制的に改名されたせいで、原初の夢を強制ループさせられてたんじゃねェのかよ……?」
「原初の、夢――」
デッドアッシュが、ひどく懐かしむようにぽつりと呟く。
その言葉は、彼の脳裏に永い永い記憶を――始まりの因果を呼び覚ましているようだった。
「……遅すぎる。もう何もかも手遅れだと分かっている。……しかし、あの方はまだ、暗い孤独の中にいる」
デッドアッシュは、おぼつかない足取りのまま、それでも立ち上がる。
すぐにバランスを崩しよろけてしまうが、ロボがデッドアッシュの腕に肩を通した。
「……なんだよ、ずっとテメェの意思であいつを守ってたってのかよ……」
「彼を一人にしてしまった。……だから、伝えに行かなければならない――私が終わる、その前に」
デッドアッシュの言葉に、俺は無言でレンズを押し上げた。
ゼファレスの命令で動いていたのなら、角が割れた時点で彼はただの死骸に戻っていたはずだ。
だが、彼は己の意思で立ち上がった。愛する者を守るために自らを怪物に変えたルシア・ヴァレットと同じように、彼もまた、ゼファレスを救うという意思だけで、死に体の自分を無理やりこの世に繋ぎ止めている。
愛や情という不可解な概念は、時にどんな呪いよりも深く、命を縛り付けるらしい。
「……ロボ。肩を貸してやれ」
「へいへい……ったく、俺だって重傷なんだかんな。めちゃくちゃ痛ェんぞ。ッケ」
「俺は部隊を再編した後、ゼファレスを追う。奴はどっちに逃げた――地下牢か?」
「竜継の間だってルシアは言ってたぜ。……だからたぶん、竜継の間だろ」
俺が頷くより早く、デッドアッシュはロボに半ば身を預けたまま、焦る心を隠そうともせず、隠し通路へ向かって無理やり一歩を踏み出した。
その自重を脚が支えきれず、巨躯が大きくよろける。ロボが慌てて全体重をかけてその身体を支え込んだ。
「っと危ねェ! おい、少しは加減しろ!」
無言のまま、ただひたすらに前だけを見つめて不格好に足を引きずる灰色の竜に、ロボは呆れたように怒鳴り声を上げた。
「つーかありがとうくらい言えねェのかよ! 王の権威だの盤面の支配だのって理屈はペラペラ喋るくせによォ……自分の気持ちになると途端にだんまりかよ。昔っから、一番肝心なとこで言葉が足りてねェんだよ、テメェはよ!!」
ロボは口いっぱいに悪態をつきながらも、決してその背中から腕を離すことはなく、ボロボロの相棒の歩調にしっかりと歩幅を合わせた。
「――おいアシュレイ。……ちゃんと王になれよ」
ロボは振り返ることなく、背を向けたまま言った。
「……あぁ」
俺は暗い地下通路の奥へと吸い込まれていく二つの影から視線を外し、今度こそ、崩壊する王国の整地へと歩み出した。




