105.その蒼い炎は、世界で一番優しい色をしていた
外の城庭へ消えたはずの二つの影が、再び轟音と共に大広間の壁をぶち破って帰還した。
いや――帰還したのではない。押し込まれたのだ。
地響きのような衝撃と共に、カグツチの巨躯が大理石の床を何メートルも激しく滑り、柱を粉砕してようやく止まる。
「ガハッ……! くそ……なんて、力だよ……っ」
カグツチが血の混じった息を吐き出し、膝を突きながらも必死に顔を上げる。
先ほどまでの優勢が嘘のように、その全身には無数の打撃痕が刻まれていた。炎を封じ、相手を殺さぬよう手加減を強いられているカグツチに対し、一切の迷いなく最短距離で急所を狙い続ける壊れた竜の戦闘精度は、あまりにも分が悪すぎた。
もうもうと立ち込める粉塵の中から、瓦礫の山を蹴立て、灰色の死神が音もなく肉薄する。
思考が追いつくより先に、灰色の質量が視界から消えた。
瞬間、大気を破る衝撃音。
立ち上がろうとしたカグツチの身体が再びくの字に折れ、背後の石壁まで吹き飛ばされる。
「カグツチ!!」
私が叫ぶのと、カグツチが瓦礫を跳ね除けて立ち上がるのは同時だった。
しかし、デッドアッシュは追撃の手を緩めない。
そこにあるのは主を脅かす不純物を排除するためだけに最適化された、無慈悲なまでの筋力と速度。
(……なぜ、これほどまでに速く、重いのです)
ゼファレスの命令だから? 違う。それだけで、あのアシュレイすら星を焼くと評したカグツチを圧倒できるはずがない。
あの異常なまでの強さは、攻撃ではない。背後の主を絶対に守るという防衛本能が、極限の暴力として出力されているだけだ。
私を背に庇って一歩も引かない、目の前のカグツチと――全く同じように。
灰色の残像が広間を縦横無尽に駆け抜け、防戦一方のカグツチへ全方位から重い拳が叩き込まれる。
「っ……!」
カグツチは私を背後に庇ったまま、その一撃を腕で受け止める。
激しい衝撃波が広間を駆け抜け、残っていたシャンデリアが悲鳴を上げて落下した。カグツチの足元の石畳が、その質量に耐えかねて蜘蛛の巣状に砕け散る。
「カグツチ!」
「平気だ……ルシアは、下がってて……!」
苦悶の声を上げながらも、カグツチは一歩も引かない。
しかし、防戦一方だ。デッドアッシュは容赦なく次の一撃を叩き込み、カグツチの防壁を削り取っていく。
このままでは押し切られる。視線の先、ゼファレスの消えた隠し扉は、無慈悲にその輪郭を閉ざしたままだ。
(このままでは、逃げられる……でも、作戦が瓦解した以上デッドアッシュを放置してゼファレスを追いかけることは不可能……)
焦燥が、私の喉を焼く。
目の前のデッドアッシュは、もはやゼファレスの命令を忠実に実行するだけの殺戮機械だ。その虚ろな瞳には、何の情も宿っていない。
なら――盤面を動かすのは、私しかいない。
「カグツチ! 私を前に出しなさい!」
「……っ、何、言ってんの――」
「デッドアッシュは、メスを攻撃できない! 私を盾にすれば、彼の動きは止まるはず。その隙に彼を抑えて――」
私という駒を、デッドアッシュの防戦機構の脆弱性を突くための欠陥として利用する策。
デッドアッシュは恐らくメスであれば攻撃はしてこない。その証拠に先程から私に当たらないよう気にしながら戦っている。
カグツチは血を吐き捨てた。しかしその僅かな瞬間でさえデッドアッシュの非情な拳が容赦なく削り取っていく。炎を封じられ、かつ殺さないという枷を負ったカグツチに対し、物理的な暴力の化身となった父竜の速度はあまりにも速すぎた。
カグツチは私を振り返ると、悲痛なまでに顔を歪めて叫んだ。
「――絶対に、嫌だ!!」
デッドアッシュは猛攻を止めることなく、打撃を繰り返している。
非情な拳がカグツチの肩を砕き、鈍い音が響いた。もし、その一撃が角に当たれば一溜まりもないだろう。
「カグツチ! このままではあなたが死にます!」
「――そうやってまた、自分を便利な駒みたいに扱うなッ!!」
血を吐き出しながらも、彼は私を背後に庇い、決して一歩も退こうとしない。
私の指の包帯を見た時でさえ、必死に飲み込んでくれたはずの彼の我慢が、ついに限界を迎えて暴発したのだ。
「なんで君は、いつだってそうやって自分を使い潰そうとするんだよ……っ!」
カグツチは悲痛なまでに歪んだ声で叫んだ。
その大きな背中から伝わる明確な感情――この私へ向けられた怒りだった。
「……ふざけんな! オレがどれだけ君を大事に思ってるか、知りもしないで……っ! 盤面だの囮だの、自分を道具みたいに扱うなよッ!!」
それは、彼が初めて私にぶつけた、彼自身の痛切な感情だった。
盤面だの、囮だの。
私が復讐のために冷徹に計算し、切り捨てようとした私自身の価値を、彼は血まみれになって必死に拾い集め、守ろうとしている。
彼が命を懸けて守ろうとしているのは、私の命だけではない。
いま、私が蔑ろにした私そのものだ。
「君をそんな風にさせる世界なら全部壊したっていい! でも――約束したから……オレはルシアの綺麗な剣になるって。誰も、殺さないって……っ」
彼は砕けた腕を無理やり動かし、私を突き飛ばすようにして背後へ遠ざけた。
一度だけ振り返ったその金色の瞳に宿っていたのは、殺意ではない。
私との約束を違えることも、私を傷つけることも、そのどちらも拒絶するという一匹の竜の、傲慢なまでの、狂気にも似た――。
「だからルシアは、そこで見てて。……オレは、ルシアも、約束も、どっちも捨てない……!!」
――瞬間。
それは、言葉を失うほどの焔だった。
地鳴りとともに、カグツチの全身から紅蓮の業火が噴き上がる。
しかし――相手を灰にするための鋭い殺意はない。
その炎はやがて色を変える。
目を奪われるような蒼色。
それはデッドアッシュを焼き殺すための炎ではなく、これ以上一歩も踏み込ませないための、荒れ狂う威嚇の壁だった。
誰も殺さないという約束と、私を絶対に守るというエゴ。その二つを力任せに成立させるために彼が顕現させた、極限の防衛陣。
背後の私を外に出さず、同時に外からの脅威を一切寄せ付けない、分厚い檻のような絶対の蒼の結界。
世界で一番優しい色をした炎が、私だけを焼かないように静かに包み込んでいた。
広間の空気が一瞬で発火点を超え、周囲のカーテンが、絨毯が、一気に炭化していく。
「やめろ。……その子に、お前の炎が、触れる」
近付くことすら許さない圧倒的な熱波に前進を阻まれ、一歩後退するデッドアッシュが掠れた声で呻いた。
「……オレの炎は、ルシアを焼かねぇよ。あんたに言われるまでもねぇ。これ以上近付くなよ……あんたを殺したら約束破ることになる」
――彼を拒絶するために燃え上がった、その蒼い焔をデッドアッシュが真っ直ぐに見つめた瞬間の事だった。
「……ほの、お」
ゆっくりと歩みを進めていたデッドアッシュの身体が、不自然なほど急激に停止した。
「……っ?」
カグツチの放つ蒼い焔に照らされたデッドアッシュのその顔を見て、私は息を呑んだ。
先ほどまで虚無に濁っていた彼の黄金の瞳が、今は見たこともないほど激しく揺れている。
まるで、壊れた器の中に残る僅かな記憶に縋るように。
やがて、デッドアッシュの掲げられていた凶器の腕が、力なく下ろされた。
そして。
彼は戦う意志を完全に放棄したかのように、よろよろとした足取りで、カグツチの方へと歩み寄る。
「……えっ、なに?」
カグツチも困惑を隠せず、蒼い炎を纏ったまま身構える。
しかし、デッドアッシュに攻撃の気配は微塵もなかった。
彼は震える両腕を広げると、熱波に焼かれるのも厭わずに歩みを進め――驚愕に固まるカグツチの巨躯を、慈しむように、不器用に抱きしめたのだ。
「――っ!?」
カグツチは弾かれたように我に返り、慌てて全身の蒼い焔をかき消した。
いくら殺意のない結界だとはいえ、無防備に縋り付いてきた相手を焼き続けることは、彼の誓いが許さなかった。
「…………よう、やく、みつけた」
その言葉は予想すらしなかったものだった。
熱を失ったカグツチの肩に顔を埋めるデッドアッシュの横顔は、長すぎる悪夢からようやく目覚めたかのように、痛々しいほどの安堵に満ちていた。
「……え?」
カグツチは消し忘れた種火のように、戸惑ったまま空中で両手を泳がせる。
やがてデッドアッシュは、カグツチの耳元で何か囁いた。
それを受けたカグツチの瞳が、衝撃を受けたように大きく見開かれる。
デッドアッシュの身体から、急速に力が抜け落ちていくのが分かった。
彼はそのまま、カグツチの腕の中へ静かに身体を預けた。
いまの私には、デッドアッシュの行動原理が何一つとして理解出来なかった。
カグツチの腕の中で静かに目を閉じたデッドアッシュの姿は、この残酷な盤面において、唯一そこだけが救われているように見えた。
嵐が去った後のような、不自然な静寂が大広間を支配していた。
カグツチの腕の中、あれほどまでに無慈悲な死を撒き散らしていた灰色の竜が、今は赤ん坊のように穏やかな寝息を立て、まるで長い夢の続きを見ているかのようだった。
「……な、なにが起こったのですか?」
私は呆然と、その安らかな横顔を見つめていた。
「……わかんない。ただ――」
隣に立つカグツチも、まだ困惑から抜け出せない様子で、自分の肩に預けられた重みを確かめるように微かに腕を動かす。
「君が生まれてくるのを、母さんは誰よりも楽しみにしていた――って……」
その言葉を聞いた瞬間、私の視界が、熱い何かで歪みそうになった。
カグツチは知らない。彼自身が、産まれた瞬間に母親を殺してしまったことを。
例えその命が親殺しの因果から始まったものだとしても、彼は決して呪われてなどいなかったのだ。
(――もしもあなたが、愛され、望まれて産まれたのだとしたら。私にとってこれ以上の幸福はありません)
私は、カグツチの肩に預けられた灰色の竜の、あまりにも穏やかな寝顔を静かに見つめた。
今、この瞬間、父の腕の中で彼が感じている救済だけは、本物だと信じたかった。
もぬけの殻となった大広間には、踏み潰された丸眼鏡の破片と、主を失った王冠だけが寂しく転がっていた。
ノエルとアシュレイも無事に逃げたようだ。逃げ惑う貴族たちの悲鳴も、今は遠い回廊の向こう側だ。
――ガラッ、と。
大広間の入口付近で礫が崩れる鈍い音が響いた。
「――おい! いつまで突っ立ってやがんだ、ボケッとしてんじゃねェ!!」
静寂を切り裂いたのは、瓦礫の上で身体を引きずりながら現れたロボだった。
包帯だらけの四肢は痛々しく、足取りは覚束ない。それでも彼は、ギラギラとした金色の瞳でこちらを射抜いていた。
「ロボ……? どうしてここに。ノエルさんやアシュレイは……」
「あいつらは無事だ。回廊ですれ違った時にアシュレイが言ってたぜ。兵を下がらせて、完全にここから奥の空間を封鎖し、ゼファレス救出部隊を編成するってな」
祝賀会の最中に毒殺するという私の緻密な盤面は、先の混乱で完全に瓦解してしまった。しかし――。
(……この状況下で即座に盤面を再構築してみせたのですか、アシュレイ)
私は、あの有能な駒の機転に内心で感嘆を禁じ得なかった。
兵を遠ざけることで、私たちがゼファレスを確実に殺すための完全な密室を作り上げてくれたのだ。
そして、後から踏み込んでくる救出部隊という名の観客を招き入れることで、私が王殺しの大罪人――魔王として名乗りを上げるための、最悪の御披露目舞台をも同時に整えてくれたというわけだ。
ならば、その優秀な駒が用意してくれた新しい盤面に、乗らない手はない。
観客が扉をこじ開ける前に、舞台の主役である王には死んでおいてもらわなければならない。
「ゼファレスを今すぐ追いかけないと、立て直されます」
ロボの言葉とアシュレイの作ってくれた時限式の盤面に、私の思考が急速に熱を取り戻す。
ロボはカグツチの腕の中で眠るデッドアッシュを一瞥すると、鼻を鳴らして顎をしゃくった。
「……そいつは、俺が見といてやる。お前らは行けよ」
「ですが、いつまた目覚めて攻撃してくるかも」
「……これ以上、こいつに自分の子を殴らせるわけにはいかねェんだよ」
乱暴な言い方の中に滲む、彼なりの気遣い。
カグツチは驚いたように目を見開き、やがて静かに、大切な物を手渡すようにデッドアッシュの身体をロボへと預けた。
因果の回収は、まだ道半ば。
私は、ゼファレスが消えた隠し扉の奥――暗い闇が口を開ける通路へと視線を投げた。
「ロボ、この隠し通路は、どこへ繋がっているのですか?」
私の問いに、ロボは重い身体を石壁に預けながら、記憶を辿るように目を細めた。
「隠し通路は、この先で二手に分かれている……。一つは、反逆者を幽閉するための地下牢。そして、もう一つは――」
ロボが言葉を切り、忌々しげにその名を口にする。
「――代々の貴族が竜との契約を更新する場所。最奥の、竜継の間だ」
「……っ!!」
その言葉が耳に届いた瞬間、心臓が爆ぜるような衝撃が走った。
脳裏に、かつて見たあの光景が思い浮かぶ。
灰色の空。崩れ落ちた城。
瓦礫の山となった広間の中心に、静かに残された一つの玉座。
足元に転がる無残な肉塊と、私を魔王と呼んで射抜く、無数の兵士たちの憎悪。
――あそこだ。
あの日、アルトがカグツチと因果を結び、そして、狂ったゼファレスが私たちのすべてを奪うきっかけとなった、あの呪わしい玉座。
あの場所こそが、悪夢の始まりであり、終わりの場所。
「……地下牢ではありません。ゼファレスは、あそこに向かいました」
確信があった。
私は、カグツチの手を強く握りしめる。
「行きましょう、カグツチ。……竜継の間へ。すべての因果に、引導を渡しに」
剥き出しになった私の瞳が、逃げ場のない決意を宿して、暗がりの通路の先を見据えた。




