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造花の魔王  作者: 黒しろんぬ
五章 崩落の戴冠式 -砕けぬ石と蒼い炎-
107/124

104.君には敵わない

 逃げ惑う人々を背に、デッドアッシュが静かにこちらに向かって歩いてくる。

 感情の一切を削ぎ落とした黄金の瞳。彼の中に、ゼファレスの命令を実行することへの躊躇いなど微塵も存在しないはずだった。


 灰色の竜が大理石の床を踏み締めると、蜘蛛の巣状のひびがその足元に広がる。

 デッドアッシュが放たれれば最後、その規格外の質量と速度による突進は、カグツチだけでなく、直線上にいる私まで間違いなく巻き込んで粉砕するだろう。

 カグツチが私を庇うように一歩前へ踏み出した。


「デッドアッシュ、止まりなさい!」


 私の声はデッドアッシュにはまるで聞こえていないようだった。

 本能的に優先されるメスの命令よりも、ゼファレスの絶対的な殺害命令が優先される――それが決定づけられた。


 瞬間、デッドアッシュの姿がブレた。

 音を置き去りにした、死の直線。

 私の鼻先をかすめるような回避不能な突進――その激突を覚悟し、目を瞑りかけた刹那。


 ――カッ、と。

 大理石が砕け散る。私という座標を強引に避けるためだけに、彼は物理法則を無視した直角に近い旋回を見せ、私の脇をすり抜けてカグツチの側面へと肉薄した。


 一切の言葉も、警告もない。

 ただ、殺そうとする命令と、傷つけられないという本能が、彼を壊れた弾丸のように歪に加速させていた。


「――チッ!」


 カグツチが両腕を交差させて構えた直後、デッドアッシュの重厚な回し蹴りが叩き込まれた。

 刹那、遅れて聞こえてきた爆発のような轟音。

 カグツチの巨体が数メートル横滑りし、踏ん張った足に抉り取られた大理石の床が、めくれ上がって粉々に砕け散った。


 ただ限界まで圧縮された筋力と質量がぶつかり合う、純粋な物理的暴力。

 それが皮肉にも、どんな魔術よりも圧倒的な破壊を大広間にもたらしていた。


 カグツチが体勢を立て直すより早く、デッドアッシュは身を翻した反動を利用し、太い丸太のような灰色の尻尾を横薙ぎに振り抜いた。

 空気が悲鳴を上げる。

 カグツチが間一髪で身を沈めて躱すと、空を切った尻尾は背後にあった大理石の太い柱に直撃した。

 まるで飴細工でも叩き割ったかのように、柱がへし折れ、莫大な石の塊となって吹き飛ぶ。

 壁面に激突した残骸が、豪華絢爛なタペストリーごと石壁をぐちゃぐちゃに粉砕し、広間全体が悲鳴を上げて大きく揺れた。


 デッドアッシュは無表情のまま、次々とカグツチへ打撃を繰り出していく。

 岩盤を砕くような前蹴り、空気を割る膝蹴り、そして鞭のようにしなる重い尻尾の連撃。

 そのすべてが最短距離でカグツチの急所を狙い――同時に、飛び散る瓦礫が私のいる場所へ向かわないよう、恐ろしいほどの精度で攻撃のベクトルが計算されていた。


 彼の中の『メスを傷つけない』という己に課したルール。

 それが、ただでさえ恐るべき灰色の竜の戦闘精度を、さらに機械的で冷酷なものへと引き上げている。私を巻き込まないように立ち回る結果、デッドアッシュは必然的にカグツチを私から引き剥がし、広間の隅の壁際へと追い詰めていく形になっていた。


 灰色の尻尾が叩きつけられるたびに壁がえぐれ、蹴りの余波だけで床がひび割れ、頭上のシャンデリアが次々と落下して粉砕される。

 数分前まで王の権威を象徴していた大広間は、ふたりの竜が踏み荒らすだけで、もはや原型を留めない瓦礫の山へと姿を変えつつあった。


「……っ、こいつ、シロクマより全然強い……!」


 カグツチがその腕でデッドアッシュの蹴りを受け止めながら、ギリッと奥歯を噛み鳴らす。


 大広間に、灰色の絶望が歩み寄る。

 デッドアッシュの歩みは、感情を排した機械のそれだった。しかし、彼が一歩踏み出すたびに大理石の床には亀裂が走り、その無機質な圧が逃げ惑う人々の足を竦ませる。

 カグツチが咆哮を上げ、人の姿のまま弾丸のようにデッドアッシュへ突っ込んだ。

 紅蓮と灰色の衝撃が広間の中央で激突し、その衝撃波だけで、天井から巨大な石片が雨のように降り注ぐ。


「あなた達、死にたいの!? 今すぐその歩きにくいヒールを脱ぎ捨てて裸足で走りなさいッ!!」

 

 混乱の渦中で、ノエルの声が響いた。

 彼女は自分一人が逃げることもできたはずだ。けれど、腰を抜かして震えるベアトリスや他の令嬢たちを、その華奢な身体で覆い隠すようにして広間から脱出するよう入口へと誘導していた。


「めそめそ泣いてる暇があったら走りなさい!」


 その高潔な姿は、まさに鋼の戦斧の名の通り、恐怖という盤面を真っ向から叩き割っていた。


「フェリシア! あなたも突っ立ってないで誘導しなさい!」


「わ、わかりましたわ……!」


 カグツチがデッドアッシュの無機質な凶刃を紙一重で躱した、その直後だった。

 標的を失い、空を切った灰色の巨体が、恐るべき踏み込みの勢いそのままに突っ込んでいく。

 その延長線上には――避難を指揮するノエルたちの姿があった。

 デッドアッシュに彼女たちを狙う意図などない。ただ、カグツチが避けたが故に、偶然にも彼女たちが死の射線に晒されてしまったのだ。

 

「――チッ、邪魔だッ!!」


 カグツチが苛立たしげに舌打ちをする。

 このままやり過ごせば、余波で令嬢たちごと広間が吹き飛ぶ。

 彼は瞬時に判断し、弾かれたように床を蹴ってデッドアッシュの背後へ追いついた。

 そしてその右脚で、灰色の巨体へ向かって横殴りの蹴りを放つ。


 大広間が根元から激しく揺れた。

 規格外の一撃は、最強の防衛機構である灰色の竜を分厚い石壁ごとぶち破り、遥か彼方の城庭へと一撃で弾き飛ばした。


「――」


 カグツチは一瞬だけ振り返ると「あとは任せて」とばかりにそのまま壁の穴から一直線に飛び出し、ふたりの気配が広間から遠ざかる。

 脅威の一つは去った。


 ――しかし。

 先ほどの蹴りの衝撃に耐えかねた天井の梁が、ミシッ、と轟音と共にへし折れた。

 その真下に吊るされていたのは、数万のクリスタルが煌めく、巨大な中央シャンデリアだった。

 支えを失った光の塊が、令嬢たちを庇うノエルの頭上へと、無慈悲に自由落下を開始する。


「ノエル――!!!」


 別の貴族達の避難を優先していたアシュレイの声が悲鳴となって上がる。

 今ここから駆け出そうとした私ではあまりにも遠すぎた。


(……間に合わない)


 視界がスローモーションに沈む。

 ノエルは、自分に迫る巨大な影を見上げていた。

 それでも彼女は取り乱さず、死を受け入れることもせず――ただ、迫りくる巨大な死をまっすぐに見つめていた。


 また、守れないのだろうか。

 それだけは絶対に嫌だった。

 手を伸ばしても届かないと分かっていても、それでも伸ばさずにはいられなかった。


 ――瞬間。


 音を置き去りにするような轟音が響いた。

 アシュレイの足元の石畳が、爆発したかのように粉々に砕け散った。

 人間の限界を遥かに超える、竜種と同等の異常な跳躍。空気を引き裂きながら、彼は一直線にノエルの元へ飛び込んだ。


「――ノエルッ!!」


 落下する数トンのシャンデリア。

 アシュレイはその巨大な質量へ向かって、真っ向から両腕を振り上げた。

 凄まじい破砕音が響いた。

 人間の腕なら一瞬で肉塊に変わるはずの質量を、彼は空中で完全に受け止め、さらに握り潰すようにして粉砕した。

 数万のクリスタルの破片が、彼の手の中で爆発したように砕け散る。

 極限の圧力で弾け飛んだ鋭利なガラスの凶刃は、彼が両腕を隠すために嵌めていた分厚い革手袋と礼装の袖を、いとも容易くズタズタに引き裂いた。

 光の礫となって降り注ぐ破片と、ボロボロに剥がれ落ちた布地。

 その下から大衆の目に晒されたのは――強酸に焼け爛れ、黒い鱗で覆われた、禍々しい血塗れの竜の両腕だった。

 もうもうと立ち込める粉塵の中。

 大理石の床を深く抉り、ノエルの前で、両足で力強く踏みとどまった男がいた。


「ア……アシュレイ……?」


 頭上を覆っていた死の気配が消え、ノエルが震える声でその名を呼ぶ。

 アシュレイは肩で荒い息を吐きながら、床にめり込んだ足を抜き、血に塗れた異形の両腕をだらりと下げ、ゆっくりと立ち上がった。

 しかし――ノエルの視線が己の腕に向いていることに気づいた瞬間。アシュレイの肩がビクッと跳ねた。

 彼は慌てたように、ズタズタになった両腕を背後に隠し、ノエルから顔を背けた。


「……見ないでくれ、ノエル。こんな……醜いものを」


 血を吐くような、切実な拒絶。

 王族としての矜持などではない。ただ一人の男として、何よりも大切な女性に化け物だと恐れられたくないという、ひどく人間らしい怯えだった。


 粉塵の向こうでは、我に返った貴族たちが「なんてことだ……両腕が……」「ひどい怪我だ……」とヒソヒソと囁き始めている。


 ノエルは、アシュレイが背後に隠した腕と、周囲の不躾な視線を交互に見やり――ふと、その瞳を鋭く細めた。


(……このままでは、アシュレイが怪物として盤面から排除される。このまま王座に座らせても、不信感が残ってしまう……!)


 私は彼らの元へ駆け寄ろうと、まだ煙る粉塵の中へと足を踏み入れた。その時だった。


 ノエルはスゥッと大きく息を吸い込み、大広間に響き渡るような声で叫んだ。

 

「きゃああッ!! なんて痛ましいお怪我ですの!!!」


 突然の悲鳴のような大声に、ヒソヒソと囁いていた貴族たちがビクッと肩を揺らす。

 ノエルはアシュレイの前に立ちはだかると、その背に隠されていた彼の黒い両腕を強引に引き寄せ、周囲の視線から遮るように、自らの身体で覆い隠すようにして強く抱きしめたのだ。


「……っ、ノエル!?」


「皆様、目を伏せなさいな! 落下したシャンデリアの熱と破片で、殿下の両腕が酷い火傷を負って……あぁ、あまりにも痛ましくて、皆様にはとても見せられませんわッ!」


 自身のドレスが汚れることなど一切意に介さず、アシュレイの異形の腕をきつく抱きしめたまま放たれたノエルの声は、一切の疑問を挟ませないほどの絶対的な説得力を持っていた。

 そして、自らの背後に庇っていた令嬢たちへと振り返り、ピシャリと一喝する。


「ちょっとあなたたち! アシュレイ殿下は大怪我をなされているわ。今すぐ背を向けて壁になりなさい! 殿下の痛ましいお姿を、他の誰にも見せてはならなくてよ!」


「ひっ、は、はいっ!」


「はやく並ぶ!!」


 命の恩人であり、後宮の絶対的支配者であるノエルの号令に、腰を抜かしていた令嬢たちは弾かれたように立ち上がった。そして慌ててアシュレイたちを囲むように背を向け、ドレスの裾を広げて見事な人間の壁を形成したのだ。


 外側から見れば、それは殿下を気遣う淑女たちの厚い盾だ。けれど、真っ先に駆け寄り、すでにその円の内側へと滑り込んでいた私だけは、その密室の中で行われる真実を、特等席で見届けることになった。

 ノエルの覇気に圧されたのか、それともただのどんくさい侍女など目に入っていないのか。彼女たちは私を追い出すこともしなかった。


 呆然とするアシュレイをよそに、ノエルは彼から離れると、自らのドレスの裾を力強く掴んだ。

 ビリ、と布を力任せに引き裂く派手な音が響いた。

 私が驚いて目を向けると、なんとノエルは自分が着ていた豪奢なドレスの裾を、両手で躊躇いなく引きちぎっていた。


「ノエル……? 何を……」


 目を見開くアシュレイにズカズカと歩み寄ると、ノエルは彼が背後に隠そうとしていた両腕を強引に引き寄せた。

 ガラスの破片でズタズタに裂けた革手袋。それを外そうと、ノエルの白く細い指先が伸びる。


「……っ、触るな! 君が汚れる……!」


 自らの醜い異形に触れさせまいと、アシュレイが血を吐くような声で腕を引こうとした。


「じっとしていなさいな!」


 ノエルはピシャリと一喝すると、アシュレイの抵抗を許さず、ズタズタになって意味を成さない革手袋を躊躇いなく剥ぎ取った。

 露わになったのは、強酸に焼け爛れ、禍々しい鱗に覆われた黒い腕。

 しかしノエルは、顔色一つ変えることなく――その異形の肌に、自らの手を直接、そっと添えた。


「これほど酷い火傷……すぐに処置をしなければ! 痛みますでしょう、アシュレイ様……!」


 周囲に聞こえるよう悲痛な声を張り上げながらも、ノエルは引きちぎったドレスの布を、アシュレイの黒い腕に包帯のようにぐるぐると巻き付け始めた。

 その手つきは乱暴に見えて、ひどく繊細で優しい。


「あなたはこんなにもたくさんの人を守ったのです。怪我の手当くらい大人しくされなさいな」


 ノエルは真剣な顔で布の端をきゅっと結ぶと、ふう、と息を吐いて満足げに頷いた。


「これで見えませんわ。安心なさい、アシュレイ。あなたを化け物呼ばわりする無礼者がいたら、この私が全員まとめてお説教して差し上げますから」


 アシュレイは呆然と、自らの異形を包み込んでくれた不格好な布を見つめ――やがて、憑き物が落ちたように、ひどく穏やかで柔らかな笑みをこぼした。


「……あぁ。君には本当に……敵わないな」


 アシュレイは、布の巻かれた両腕をそっと自身の胸に押し当てた。


(……ノエルさん。あなたという人は)


 ドレスをボロボロにしながらも凛として立つ彼女の背中を見つめ、私は胸の内で深く息を吐いた。


 彼女は知略ではなく、その真っ直ぐな意志の力だけで、アシュレイの呪いと、この場の絶望的な盤面を同時に叩き割ってみせたのだ。

 この国は、彼らがいればきっと大丈夫だろう。


「ここは危険です。早くお逃げください」


 私が静かに声をかけると、ノエルが弾かれたようにこちらを向いた。

 その真っ直ぐな瞳と、私の冷めきった瞳が、至近距離でぶつかり合う。

 

 言葉など、もうそれ以上何もいらなかった。

 私がただの侍女ではなく、ルシア・ヴァレットとしてこの瓦礫の山に自らの意志で残ろうとしていること。そして――もう二度と、彼女の前に戻れないという覚悟。


 ノエルは息を呑み、何かを言いかけて――やがて、その唇を強く結んだ。

 すべてを察した上で、彼女は私に向かって、ただ一度だけ、深く、力強く頷いた。


(……さようなら、ノエルさん。どうか、お元気で)


 私が完全に気配を絶って背を向けようとした、その時。


「ルウ!」


 背中を叩き割るような、鋭い一喝が響いた。


「新作を開発したの。……いい? この騒動が終わりましたら、一番に毒見をなさい。勝手に一人で完結して、さよならを言ったつもりにならないことですわ!」


 それは、私のさよならを真っ向から踏みつぶす、ノエルによる再会の強制命令だった。

 彼女の不器用で、傲慢なまでの愛に。喉を焼くほど熱くて、少しだけ美味しくない、あのスープの味に。

 私はどれほど救われたことだろう。

 短くもあたたかかった日々に、一度だけ視線で応え。私はその即席の密室から、陽炎の立つ怪物の領域へと一歩、後退した。


(……相変わらず、無茶を仰る)


 胸を突く熱い痛みを飲み込み、私は微笑みさえ捨てて、ただの毒へと戻っていく。


「さぁ、あなたたち! 全速力で城の外に出ますわよ! 泣いてる暇があったら足を動かしなさいッ!」


 ノエルの凛とした号令が大広間に響き渡る。

 令嬢たちは悲鳴を呑み込みながら、ノエルとアシュレイを囲んだ壁の陣形を保ったまま動き出す。

 その毅然とした姿に我に返った衛兵たちが慌てて盾を構えて彼女たちの周囲を固め、一丸となって瓦礫の広間を出口へと向かって駆けていく。


 その高潔な後ろ姿を一度だけ見送り――私は踵を返した。

 もう振り返らない。

 侍女ルウとしての偽りの温もりも、人間としての最後の未練も、あの令嬢たちの壁の中に置いてきた。

 すべてを切り捨てた私は、ただ冷たい殺意だけを研ぎ澄ませた。

 

 ゼファレスを追うのは後だ。

 まずは、この絶望的な盤面を終わらせなければならない。


 ズシン、と。

 城の土台そのものを揺るがすような重い地鳴りが、広間の外から響いた。

 それは一度ではない。ズン、ズンと、等間隔に、確実にこちらへと近づいてくる。

 その規則的で無機質な足音に混じって、空気を焦がすような爆発音と、カグツチのひどく苛立った怒声が轟いた。


 城庭へ弾き飛ばしたはずの、灰色の死と紅蓮の厄災。

 人間の盤面を容易く踏み荒らすふたりの怪物が、再びこの大広間へと帰還しようとしている。


 私は粉々に砕け散った壁の巨大な穴へ、その怪物の領域へと向かって、ただ一人、静かに歩みを進めた。

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