103.崩れゆく盤面
「――ルシア・ヴァレット」
その名を呼ぶゼファレスの瞳は、狂おしいほどの歓喜に濡れていた。
しかし、その陶酔は一瞬だった。
人型のままとは言え、広間を揺らす竜種同士がぶつかり合う余波と瓦礫、逃げ惑う貴族たちの悲鳴が、この男を王の顔へと引き戻す。
ゼファレスは私から手を離すと、周囲で狼狽える近衛兵たちへ冷酷な、それでいて透き通るほど冷静な声を飛ばした。
「全兵へ告げる。来賓を退避させろ。……それからその侍女を捕らえろ。傷一つ付けるな。事が済むまで厳重に地下牢で監視しておけ」
ゼファレスは、衆人環視の中で敢えて私の名を伏せた。
一時的に世間の目から遠ざけたあと、資産として使うのだろう。ヴォルシュタインから見たヴァレットの名は資産としては破格だ。
この男は、この一瞬でこの国を更なる強固な自分の盤面に染めるために数十手先まで読んでいる。
数人の兵士が、恐る恐る鎖を手に私へ近づく。
ここで大人しく捕縛され、誰の目にも触れない地下牢へ連行されるわけにはいかない。
私の目的は、衆人環視の中でこの男を処刑することだ。
密室でひっそりと暗殺したところで、彼が積み上げた強固な盤面を完全に破壊することにはならない。
観客である貴族、或いは兵士だけでも退避を終える前に――今、この場で一滴でもいい。ゼファレスに猛毒を注がなければ。
ゼファレスの真正面で自分の喉元を掻き切り、血を浴びせる――竜種の身体であれば死ぬことはないはず。
私はスカートの陰で密かに指先に力を込め、己の血を即死の猛毒として撒き散らすべく、自らの喉元へ狙いを定めた。
ゼファレスを視界に捉え、指を突き立てようとした――その時だった。
「――何しようとしてんの」
地底から響くような、ひどく冷たく、静かな怒りを孕んだ声。
大広間の空気が一瞬にして発火点を超えた。
炎は影も形も見当たらないのに、熱だけが異常だった。
カグツチは人の姿のまま、目にも止まらぬ速さで私の肩を掴もうとしていた兵士たちの後ろを取っていた。
その巨躯は、立ち上がっただけで周囲の兵士たちを完全に見下ろす圧倒的な質量となり、広間に絶望的な影を落とす。
しかし、その底冷えするような金色の瞳が射抜いていたのは、ゼファレスでも兵士でもない。
自傷のために爪を立てようとしていた、私の手元だった。
(カグツチ……?)
彼が激怒しているのは、兵士が私に触れようとしたからではない。
私がまた、盤面のために自分自身を傷つけて解決しようとしたことに気付いたのだ。
カグツチは私から糾弾するような視線を外さないまま、躊躇いなく一番近くにいた兵士の後頭部をその大きな掌で鷲掴みにすると、まるで羽毛でも扱うかのように軽々と宙へ持ち上げた。
カグツチの全身から熱風が噴き上がり、彼が触れている指先から、じりじりと肉の焼ける嫌な音が響き、金属の兜が熱で軋んだ。
「あ、が……ッ!?」
悲鳴すら上げられず、兵士の身体が虚空で痙攣する。
いま、この広間全体を覆い尽くそうとしている熱源――カグツチの手にあるのは、命を奪うほどの熱だった。
文字通り、竜の逆鱗に触れてしまったのだ。
自分の半身を傷つけ、損なおうとするあらゆる要素――それが私自身の意志であれ、それを止めようとする兵士の腕であれ、そのすべてを焼き尽くそうとする原始的な破壊衝動。
次の瞬間、ゼファレスの合理性が、生存本能が、即座に退路を導き出した。
彼は私への執着を断ち切るように一度だけ唇を噛むと、玉座の影にある扉へと身を翻した。
隠し扉だった。
「デッドアッシュ。カグツチはもう殺していい。もうそれは言うことを聞く従順な道具ではない」
逃げ込みざまに、最初の激突で崩れ落ちた瓦礫の山へ向かって短く命令を投げ捨てる。
王の背中が、逃げるように影の中へと消えていく。
その後を追うことは出来なかった。
その一瞬の隙だった。
――ゴトッ、と。
ゼファレスが消えた石扉が、重苦しい音を立てて完全に閉ざされた。
ゼファレスが逃げる。私がルシアだとバレている。体勢を建て直される。
もう盤面は崩壊したも同然だった。
それでも、この石扉を壊して今すぐ追えば間に合うかも知れない。
――けれど、私の足は扉ではなく、カグツチへ向かって踏み出していた。
大きく息を吸い込み、告げる。
「カグツチ、やめなさい――!!」
叫ばずにはいられなかったのは――彼はもう、私の言葉など届かないかもしれないと、直感で分かってしまったからだ。
カグツチはもう、ただの従順な竜ではない。明確に怒りという感情を持った、ひとつの生き物だった。
「その人が死んでしまう……っ!」
私の声に、カグツチは一瞬だけ眉をひそめた。
けれど、そのまま兵士を床に落とすと、こちらへと目を向ける。
「っひ、ひいいいいい」
兵士は転がり、瓦礫の海の中を這うようにして逃げていった。
人々は突如現れた厄災の化身に悲鳴さえ忘れ、一瞬の静寂のあと、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑いはじめた。
「……殺さないよ。約束したし。でも怒らないとは言ってない。……ルシアを傷付けようとするものはルシアであっても見過ごせないよ」
カグツチは酷く傷ついたような、それでも必死に爆発を堪えるような金色の瞳で、私を見下ろした。
――殺さなかった。
瓦礫が崩れ、視界を遮る。
ゼファレスの首を獲る好機は、カグツチを守るための私の情によって、指の間からこぼれ落ちていった。
耳を劈くような悲鳴が、ひび割れた大広間に反響している。
出入り口へと殺到する人々は、もはや貴族の矜持など欠片もなく、互いを押し退け、ドレスの裾を踏みつけ合いながら我先にと逃げ惑っていた。
しかし、誰もが逃げ切れたわけではない。
あまりの恐怖に腰を抜かし、瓦礫の陰でガタガタと震えながら蹲る者。装飾用の花は倒れ、踏み荒らされた床の真ん中で、目前で顕現した圧倒的な暴力から目を逸らすことすらできず、ただ絶望に染まった瞳で立ち尽くす者。
無理もない。
彼らの目に映っているのは、一撫でで命を刈り取る、生きた厄災そのものなのだから。
視線を戻すと、カグツチが立ち尽くしていた。
掌からはまだ陽炎が立ち上り、その巨躯は周囲の空気を歪ませるほどの熱を放っている。
けれど、私を見つめる彼の金色の瞳には、先ほどまでの凶暴な破壊衝動は消え失せ、叱られた子どものような、痛々しいほどの不安が滲んでいた。
「……でも、良かったの、ルシア。いまあの場でオレが障害を取り除いた方が、ゼファレスを殺すためには最短だったよね」
掠れた声が、私を呼ぶ。
その声を聞いた瞬間、煮えたぎるような後悔が胸を突き上げた。
打算を優先するなら、カグツチに兵士を殺させてでも、私はゼファレスを追うべきだった。
この先の通路でゼファレスを仕留め、群衆の前に引きずり出すこともできたはずだ。
けれど、それだけはできない。
自分の復讐のために、カグツチを――アルトが愛した、この純粋な火竜を、ただの殺戮の道具に貶めることだけは、どうしてもできなかった。
だから私は、これが間違いだとは思わなかった。
「……いいんです。いいのです、カグツチ。あなたは約束を守ってくれた」
私は震える手で、彼のまだ熱い手をそっと掴んだ。
カグツチは縋り付くように私の手を見つめ、やがて視線を落とした。
――しかし、盤面が停滞することを、世界が許すはずもなかった。
ズズ……ッ、と。
重厚な大理石の瓦礫が砕け、無言で押し退けられる音が響いた。
「っ、――!」
私がその音に気付き、息を吸い込んだ時には――もう遅かった。
瓦礫が動いたと思った次の瞬間には、私の声帯が震えるよりも遥かに速く、灰色の姿はそこから既に消え失せていた。
私との約束を守ろうと怒りを鎮め、こちらだけを見つめていたカグツチの完全な死角。
音も殺気もなく、ただ最短距離で彼の命を刈り取ろうとする神速の軌道。
ゼファレスが残した「殺していい」という最後の命令。
そこに肉親への情など一切なく、ただ主を脅かす障害物を排除するためだけに最適化された、灰色の死がすでに目前に迫っていた。
「――させませんよ」
横合いから、白銀の閃光が割り込んだ。シロクマだ。彼は身を挺してデッドアッシュとカグツチの間で構えた。
しかし、デッドアッシュの黄金の瞳は、目の前の宿敵を映してさえいなかった。
「……ッ、ガハッ!?」
凄まじい衝撃音が広間に響く。
デッドアッシュはシロクマを敵として認識して攻撃することすらしない。ただ、標的への最短距離に立ち塞がる障害物として、その巨躯で撥ね飛ばしたのだ。
シロクマの両腕から、骨の砕ける音が響く。彼は大理石の床を数十メートルも転がり、壁に激突してようやく止まった。
しかし、シロクマは意識を失わなかった。
千八百年を生き、女王に忠誠を誓った竜種の執念、本能。
彼は砕けた腕でなおも床を掻き、血を吐きながら嗤った。
「……デッドアッシュ。君、そんなに強かったんですね。やはり貴族遊戯などでは本当の強さなど測れるわけも、なし……」
シロクマがその身を呈して衝突したことで、デッドアッシュの突進の軌道が、指三本分だけ外側に逸れていた。
カグツチの喉元を正確に貫くはずだった灰色の爪が、空を切り、彼の肩の鱗を削り取るに留まる。
「カグツチ……!!」
私の叫ぶより早く、カグツチが我に返ったように飛び退く。
シロクマが稼いだのは、わずか一秒。命を賭して、ようやく手に入れた刹那の猶予。
「……女王様。不覚ですが、私はここで少々、おやすみをいただきます」
背後の壁際から、シロクマの掠れた声が届いた。
振り返る余裕はないが、彼がズルリと壁伝いに崩れ落ちる気配がした。
「千八百年生きた竜は、この程度では死にません、よ……」
その言葉を最後に、シロクマの気配が完全に沈黙した。
周囲の貴族も、竜たちも倒れた彼に見向きもしない。
メスへの忠誠も、私怨も、主の言葉一つで後景に沈む。
標的は、依然としてカグツチ。
デッドアッシュは逸れた体勢を即座に立て直し、再び迷いのない死を撒き散らそうと、その冷徹な黄金の瞳を据えた。
カグツチは、自分に振り下ろされる父の再追撃を、依然として攻めに転じることもできずに受け止めようとしている。
私と交わした不殺の約束が、彼の最強の牙を縛り付け、逃げ場のない檻へと変えていた。
奥歯をきつく噛み締める。
最悪の盤面だった。
私はゼファレスを確実に仕留めることと同じくらい、この灰色の竜とカグツチを衝突させることだけは、絶対に回避したかった。
アルトが愛し、命を懸けて守り抜いたカグツチに、同族同士の――ましてや、血を分けた親と殺し合わせるような真似など、絶対にさせたくなかった。
私が泥を啜り、血を流してこの身を使い潰せば、カグツチの炎を汚さずに、私一人で綺麗に終わらせられると信じていたのに。
終わりの少女――その言葉に私は、あの灰色の竜を終わらせる者は私だと過信してしまった。
それ故に回避できなかった。
ゼファレスを取り逃がし、彼にこの残酷な業を背負わせてしまった責任は、間違いなく私にある。
そうだとしても――私は思考を放棄する事だけは絶対にしない。
「……盤面は、まだ終わっていません」
私は足元に転がっていた分厚い丸眼鏡を、その破片ごと強く踏み潰した。
眼鏡という名の無害な侍女の仮面は、もう二度と拾えない。
「ゼファレスを追うために――まずはこの呪いを、ここで終わらせます」
私は崩れゆく広間の中心で、ただ静かに、眼前の凄惨な光景を見据えた。
人間が知略を巡らせる盤面は、閉ざされた石扉の向こうへ消えた。
ここから先は――理不尽な暴力だけが支配する、怪物の領域だ。




