102.戴冠式
白日の下、王城の大広間は厳粛な空気に包まれていた。
無数のシャンデリアが輝き、各隊の近衛兵が壁際に整列している。
私は、王の礼装を纏ったゼファレスから少し離れた舞台袖――太い柱の影に、どんくさい侍女として身を縮こまらせていた。
儀式さえ終われば、その後の祝賀会で誰よりも王の喉元に近い特等席に立つことが約束されている。
分厚い丸眼鏡の奥から、広間を埋め尽くす参列者たちを静かに観察する。
最前列の上座には、同じヴォルシュタイン王家である兄のアシュレイ。
その隣には王宮竜具院総代として礼装を纏うグレイシャル家の当主、その隣に白銀の礼装を纏うシロクマの姿があった。
その後方には、後宮の令嬢たちの群れ。その中にノエルの姿が確認できた。
壁際や貴族たちの背後には、ハンガーやセイデンキをはじめとする後宮の竜たちも、それぞれの主の護衛や給仕として紛れ込んでいた。
盤面の共謀者であるアシュレイ、シロクマ――後宮で待機中のカグツチと身動きが取れないであろうロボを除きすべて揃っている。
ゼファレスの最大の盾であるデッドアッシュの姿は、この広間のどこにもない。
シロクマという彼にとっての最優先排除対象を遠ざけるため、事前の作戦通り、ゼファレス自身の手で後宮へと隔離されたのだ。
式典は、何事もなく滞りなく進んでいった。
王冠の授与が終わり、いよいよ聖堂教会の大司教が恭しく進み出て、銀の盃をゼファレスへと捧げ持つ。
ゼファレスはその盃を忌々しげに見下ろしながら、ゆっくりと手を伸ばした。
――直後。
「暴君に死をッ!!」
参列していた下級貴族の一人が突如として列を飛び出し、上着の内側から抜き放った短剣で、ゼファレスの喉元へと躍りかかった。
悲鳴が上がる。衛兵たちが動くよりも早く、凶刃が王の首に届く――かに見えた。
「……愚か者が」
ゼファレスは顔色一つ変えなかった。
大司教が腰を抜かして倒れ込む中、彼は差し向けられた刃を、右手の親指と中指の二本だけで容易く挟み止めていた。
この男にアシュレイ同様の怪力能力がある事は理解していたつもりだった。
加えて、常に暗殺を警戒する立場であれば武の心得があるのも当然だ。
それでも――ここまでとは思わなかった。
竜の血を引く彼の身体能力の前に、ただの人間の渾身の刺突など、止まった風景も同然に見えたのだろう。
ゼファレスは短剣を指で弾き折り、その手で暗殺者の胸ぐらを掴み上げる。そこに殺意はない。
しかし暗殺者を無力化させるには十分だった。
――その瞬間だった。
ガラスの砕ける衝撃音が広間に響き渡る。
大広間の分厚いステンドグラスが、壁ごと爆発するように吹き飛んだ。
飛び込んできたのは、後宮に隔離されていたはずの灰色の竜――デッドアッシュ。主への殺意に反応し飛来した彼は、ゼファレスに刃を向けた暗殺者へ無慈悲な突進を開始する。
主への明確な殺意を感知し、シロクマへの敵対本能すら投げ捨てて飛来した狂った防衛装置。
(……想定外の暗殺者が計算を狂わせた。カグツチが気づいた時には、もう間に合わなかったのでしょうね)
その虚ろな黄金の瞳は、ゼファレスに刃を向けた暗殺者だけを完全に見据え、排除するために突進してくる。
「――やめろ、デッドアッシュ。そいつは殺すな」
ゼファレスの声が、よく通る声で広間に響いた。
しかし、その声に焦りや本気で止める意思は一切含まれていない。
彼には最初から分かっているのだ。一度主への脅威を感知したこの防衛装置は、対象を完全に破壊するまで自分の命令すら届かないということを。
直後、デッドアッシュの無慈悲な腕が振り下ろされ――暗殺者の身体は、悲鳴を上げる間もなく呆気なく砕け散った。
私は、目前で繰り広げられた惨劇の意図を冷たく理解した。
ゼファレスは、助からないと分かっている暗殺者を利用し、あえて大衆の面前で無意味な制止の声を上げたのだ。
自分の命を狙えば、自分が止めてもこの化物が強制的に殺すぞという、参列者全員へ向けた絶対的な見せしめとして利用するために。
主の命令すら無視して脅威を排除する、まさに狂った防衛機構。
それさえも計算のうちと言わんばかりのゼファレスの冷めた表情に、広間の参列者たちは息を呑み、絶望的な恐怖に震え上がっていた。
血飛沫が大理石を汚し、大きく広がっていく。
次の瞬間。
「っ待て――!!」
デッドアッシュが破った壁の穴から、もう一つの影が弾丸のように躍り出た。
赤銀の髪が揺れる。カグツチだった。
後宮でデッドアッシュを足止めするはずだった彼が、防衛本能でこの本城へ飛来してしまった父竜を追って、大広間へと乱入してきたのだ。
その黄金の瞳は、血相を変えて広間の中の私の無事を探していた。
一瞬だけ私と視線を交わして無事を確認すると、床に飛び散った血と亡骸を一瞥し――カグツチはデッドアッシュの巨体に真横から激突した。
ふたりの規格外の竜がもつれ合うように衝突し、大広間には暴風と熱波、そして砕けた大理石が嵐のように吹き荒れる。
「っ……!」
私は侍女の演技のまま、わざとらしく悲鳴を上げる。竜の突進の余波など、今の私なら容易く耐えられる。
――しかし。
私の前に立ち塞がるように、大きな影が覆い被さった。
「ちぃっ……!」
ゼファレスだった。
竜の血を引く規格外の身体能力。彼は崩れゆく壇上から一瞬で舞台袖の柱の影へと跳び退き、舌打ちをしながら、片腕で私の頭を守るように抱き込み、吹き荒れる暴風と瓦礫から私を庇ったのだ。
大司教や他の貴族たちを見捨ててでも。人間をただの資産としか見ていないはずの男が。
咄嗟の瞬間に、自らの安全より、離れた場所にいた何の価値もないただの下働きを――その腕を震わせながらも、身を挺して守った。
(……そうまでして、欲しいのですか。この自己犠牲が――)
その理解不能な行動に、私の思考がほんの一瞬だけ空白になる。
ゼファレスの硬い胸元に強く顔を押し付けられた反動で、私の顔を覆っていた分厚い丸眼鏡が外れて大理石の床に落ち、音を立てて砕け散った。
風が収まる。
悲鳴と怒号が交錯する大広間で、ゼファレスは私を庇っていた腕をゆっくりと離した。
「……怪我はないか、ルウ」
彼は無防備に私を見下ろし――そして、動きを止めた。
ゼファレスの琥珀色の瞳には、私の姿がくっきりと映し出されていた。
怯えた侍女のそれではない、冷徹で不遜な、王を王とも思わぬ殺意の宿った強い眼差し。
ゼファレスは何かに気づいたように背後のカグツチへと視線を投げ、そして再び私を見た。
「……あぁ、そうか。そういうことか」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れる。
後宮に現れたカグツチ。
その主としてこの場に潜んでいた無害な道具。
全ての点と線が、彼の中で一つに繋がってしまった。
「なるほど……僕を殺しに来たのか」
ゼファレスの琥珀色の瞳孔は開ききっていた。
その震える指先が、私の頬に触れようと僅かに上がる。
「――ルシア・ヴァレット」
驚愕は一瞬で塗り潰され、彼の琥珀の瞳は、狂おしいほどの歓喜に染まりきっていた。




