101.灰色の朝
窓の外が白み始めた頃、空は分厚い灰色の雲に覆われていた。
昨夜、私を見守ってくれていた青白い星はもうどこにもない。
ここから先は、無慈悲な白日の下だ。
冷水で顔を洗い、髪を整えてお団子の中に角を隠し、侍女ルウのどんくさい丸眼鏡をかけた直後だった。
ノックの音もなく、使用人室の薄っぺらい扉が乱暴に開かれた。
振り返るより早く、無言の影が私の腕を掴む。
「え……っ」
それは、灰色の髪をした竜――デッドアッシュだった。
彼は言葉を発することなく、私の腕を掴んだまま、まるで荷物を運ぶような無機質な動作で廊下へと引きずり出そうとした。
「ちょっと、何を――」
歩調を合わせるという概念が彼にはない。
廊下を引きずられそうになったその時、騒ぎを聞きつけた本城の衛兵が駆け寄ってきた。
「お、おい! 何をしている! それはただの侍女だぞ、離してやれ!」
衛兵が私のもう片方の腕を掴み、デッドアッシュから引き離そうと体重をかける。
――その瞬間、私の肩の関節が悲鳴を上げた。
竜種は動かざる巨岩だ。人間がいくら引こうと、デッドアッシュの腕は一ミリも動かない。このままでは私の腕が千切れてしまう。
「っ……ぁ……!」
私が痛みに顔を歪めた、その時だった。
「――やめろ」
何百年も使われていなかった楽器のような、ひどく掠れた錆びた声が響いた。
「痛がっている」
デッドアッシュの虚ろな黄金の瞳が、衛兵を射抜いていた。
衛兵たちは息を呑み、慌てて私の腕から手を離す。
「で、デッドアッシュって喋るのか……?」
「いや俺も初めて見たぞ……そ、それより! それはゼファレス様のご命令なのか……?」
衛兵たちの問いに、デッドアッシュは無言でこくりと頷いた。
そして再び、今度は私の腕が引き千切れないよう、わずかに力を緩めた不器用な動作で――私の背中と膝裏に腕を差し込み、軽々と身体を掬い上げた。
長いスカートの中にすっぽりと収まる尻尾。これなら周囲の人間に私が竜種であることが露見することはない。
この間、倉庫からセイデンキを担いで運んで行く様子を思い浮かべた。
あの時は小麦粉の大袋を担ぐかのようにしていたが、今は姫君でも抱き上げるようだった。
(最初はただの荷物のように引きずろうとしたのに……私が痛みに顔を歪めた途端、扱いを変えた)
姿や匂いをどう誤魔化そうと、この竜は本能で私が竜種のメスであると理解しているのだ。
(……完全に壊れた殺戮機械に見えて、竜種としてのメスを傷つけないという本能だけは、致命的な欠陥のように残っているのですね)
その硬い腕の中に収まり、至近距離で見上げる形になった彼の横顔。
灰色の髪も、生気のない黄金の瞳も、あの赤銀の火竜とは似ても似つかない。
……それでも。不器用に結ばれた唇の端の形は、どうしても血のつながりを感じざるを得なかった。
この竜の中にはまだ、僅かながら記憶が残っている。
完全に壊れてしまったわけじゃない。
けど――毎夜続く原初の夢で心は摩耗しきっている。
壊れてしまったものはもう元には戻らない。
そして私は、彼を終わらせる者。
その残酷な事実が、戴冠式の朝の冷たい空気と共に、私の覚悟を重く塗り固めていった。
◆ ◆ ◆
専用の渡り廊下を越え、重厚な扉の前まで連れて来られると、デッドアッシュはその扉の前で私を下ろした。
ゆっくりとその扉を開けると、部屋の中央には、すでに王の礼装を身に纏い始めたゼファレスが立っていた。
そして彼の背後で、顔面を蒼白にさせ、ガタガタと震えながら重厚なマントの留め具に手をかけている初老の仕立て職人の姿があった。
「遅いぞ、ルウ」
ゼファレスは鏡越しに私を一瞥すると、不機嫌そうに顎で仕立て屋を示した。
「よく見て覚えろ。いずれ複雑な礼装の着付けもすべてお前にやらせる」
私が深く頭を下げて部屋の隅に控えると、デッドアッシュはまるでそれが当たり前のように音もなく仕立て屋の真後ろに立った。
それはいつでもその首の骨をへし折れる、絶対的な死の距離。
「……手が震えているぞ」
ゼファレスの冷酷な声が部屋に響く。
「ひっ……! も、申し訳、ございません……ッ」
仕立て職人は半泣きになりながら、必死に指先の震えを抑え、ゼファレスの衣服を整えていく。
(……なるほど。これがこの男のやり方ですか)
私は部屋の隅で目を伏せ、呼吸を潜めながらその光景を分析した。
ゼファレスは言葉で命を脅かす必要などないのだ。ただ背後に、人間の理の外にある圧倒的な暴力を配置するだけ。
たったそれだけで、人は「少しでも不手際があれば背後の化物に殺される」という極限の恐怖に支配される。服の隙間に刃や毒を仕込もうという暗殺の思考すら、恐怖で真っ白に塗り潰されてしまう。
竜種の何たるかを知らない一般人にとっては、文字通り息をするのも苦しい地獄だろう。
思考を奪い、絶対的な支配を敷く――この小さな一室の光景こそが、ゼファレスの支配の縮図だった。
私は、部屋の隅でどんくさい侍女を演じながら、内心で冷たく悟っていた。
なぜ戴冠式という重要な日の着替えすら、今後は仕立て職人どころか男性の従者ですらなく、私に命じようとしているのか。
理由は明白だ。この猜疑心の塊である男は、野心や欲を持つ人間が、自分の背後や無防備な喉元に立つことを絶対に許容できないのだ。
だから、あの狂った防衛装置を背後に立たせている。
そして、いずれは私にすべてを任せようとしている。彼から何かを奪おうとする熱を持たない都合の良い無害な道具としての試験を越えた私に。
(見て覚えろ、ですか)
私は目を細め、仕立て屋が幾重にも重なる重厚な布地を重ねていく工程を、正確に網膜に焼き付けていった。
どの装飾が、私の復讐の邪魔になるのか。
ゼファレスは自らの異常な猜疑心ゆえに、自分を殺す女に、特等席で自らの防御構造を種明かししているのだ。
仕立て職人が逃げるように部屋を辞したあと、私室には私とゼファレス、そして無言のデッドアッシュだけが残された。
「ルウ、お前が仕上げろ」
ゼファレスの命令に、私はこくりと頷いて彼の前へ進み出た。
――が、すぐに物理的な壁に直面する。
私の身長はゼファレスの胸元に位置する辺りしかない。
彼の首元のクラヴァットを整えるには、腕を限界まで伸ばしてもまるで届かないのだった。
「……あ、あの。届きませんので……少しお待ちを」
私はどんくさい侍女を装って目を泳がせると、部屋の隅に置かれていた重たい木製の踏み台へと向かった。
「よいしょ……っ、よいしょ……」
羽より軽いそれを、懸命に重いふりをしながら両手で引きずり、ゼファレスの足元まで運ぶ。
ゼファレスはひどく呆れたように鼻で笑う。私のような無害で滑稽な生き物には、わずかな警戒すら抱く様子はなかった。
踏み台に乗ると、ようやく私の手が彼の喉元へと自然に届く高さになる。
私は指先を彼の首元へ這わせ、布地を整え始めた。
――その瞬間。
ゼファレスの喉仏が大きく上下し、肩の筋肉がびくりと強張った。
布越しに伝わってくる、微かな、しかし確かな震え。
頭では私を無害な道具だと判定し、自ら近くに置いたにもかかわらず。
極度の女性不信に浸かりきったその肉体は、他者の手が自らの急所に近づく生理的な嫌悪を、どうしても抑えきれずにいるのだ。
(……今なら)
目の前にある、震える細い喉元。
私の胸の奥で黒く濁った感情が止めどなく溢れかえる。
アルトを殺したくせに自分だけ被害者の顔をしていることが許せなかった。
素手でもいい。このまま両手でその首の骨を砕くか、爪を立てて強引に私の血を流し込んでしまえば――この男の命など、今ここで簡単に終わらせることができる。
けれど、すぐにその熱を冷水で鎮めた。
それでは意味がない。
それに――鏡越しに、無言の気配と視線が絡んだからだ。
部屋の隅に佇むデッドアッシュの虚ろな黄金の瞳が、瞬きひとつせず、私の手元を正確に凝視していた。
私が少しでも侍女の着付けから外れた不審な軌道を描けば。ゼファレスの命を奪うより早く、デッドアッシュの腕が私を壁に叩きつけ、首をへし折るだろう。
物理的にも、そして私の盤面の上でも、今はまだその時ではない。
私は静かに息を吐き、指先に宿りかけた殺意を散らした。
あくまでどんくさい侍女として、不器用に、けれど確実にクラヴァットの結び目を作っていく。
私のその無害な動作に、ゼファレスの首筋の強張りが、わずかに緩んだ。
「……本来なら、戴冠の盃は前王である父から賜るのが通例だ」
至近距離で、ゼファレスが忌々しそうに吐き捨てた。
「だが、あの老いぼれは僕が南へ飛ばした。おかげで今日の儀式では、聖堂教会の大司教から盃を受け取らねばならない。……神を騙る強欲な豚の手からだ。反吐が出る」
私は手元に視線を落としたまま、無言で首元の布地を整える。
ゼファレスはそんな私の反応など気にする素振りもなく、ただ己の内にある不快感を吐き出すように言葉を続けた。
「僕は父が嫌いだ。殺してやってもよかった。あの男を南に飛ばしたのは、僕なりのせめてもの温情だ。二度と顔も見たくない。あの辺境で、誰にも知られず勝手に野垂れ死ねばいい」
私は静かに息を吸う。
母を奪った貴族に、名を奪った父に――彼は復讐している。
その復讐譚が幕を下ろした後、この男はどうするつもりだったのだろうと、ふと考えてしまった。
この男の復讐の先にあるのは、貴族の腐敗の消えた豊かな国。それはこの男が意図して望んだものではなかったとしても。
しかし――きっとその先の事など、この男は考えていないだろう。
私がそれを考えなかったのと同じように、この男には、望む明日など存在しない。
この男は、自分と同じなのだ。
だからこそ、ひどく醜悪に見えた。
彼がこのまま王座に就き、盤面を完成させれば、その復讐劇は国の浄化という美談として完結してしまう。
アルトからすべてを奪い、私の世界を壊したことすら、必要な犠牲だったと歴史に肯定されてしまう。
――そんな結末は、絶対に許さない。
私という致死の毒が存在する限り、この男の復讐譚が綺麗な幕を下ろす事など、絶対にあり得ないのだから。
「教会の連中が、あの盃にどんな遅効性の毒を仕込んでいるか分かったものではない。儀式では口をつけるふりだけをしてやり過ごす」
もし彼が教会の用意した盃で――たとえそこに私の血を仕込んでいたとしても――命を落とせば、大衆は教会が王を暗殺したと勘違いするだろう。
それでは駄目なのだ。
ゼファレスは、他人の用意した陰謀ではなく、白日の下で私という魔王の手によって明確に処刑されなければならない。
ゼファレスは私の手から離れ、完成した重厚な礼装の着心地を確かめるように軽く肩を動かした。
そして、鏡越しの冷たい琥珀の瞳が、私を射抜く。
「その後の祝賀会での酒で、僕のものは全てお前が注げ。……それくらいは、できるだろう?」
その命令を聞いた瞬間。
私は踏み台から降りて深く頭を下げながら、顔に出ないよう必死で歓喜の衝動を押し殺した。
「……はい。仰せのままに」
完全に無害だと見定めたただのどんくさい侍女に己の命綱を預けようとする、滑稽なまでの傲慢さ。
戴冠式のその後の祝賀会へ、この男が絶対的な信頼を置くデッドアッシュが訪れる事はない。
お前は知らない。
私という存在そのものが、たった一滴でお前を内側から焼き尽くす、致死の毒であるということを。
(私が注いだ酒で、まずはあなたの内臓を焼き爛れさせてあげます。そして、デッドアッシュがいない白日の下で……苦痛に這いつくばるあなたの喉笛を、私が、大衆の面前で掻き切るのです)
重厚な扉の向こうで、戴冠式を知らせる鐘が鳴り始めた。
私は分厚い眼鏡の奥で、ただ一人、氷のように冷たく笑っていた。




