第57話 大浴場②
肩まで浸かったところで、湊はようやく息を吐いた。
正面には白いタイルの壁。
視線をまっすぐそこに固定しておけば、何
も問題はない。
はずなのに。
「……そんなに前、見つめてて飽きない?」
隣から圭の声がした。
「見るとこ決めてないと、どこ見りゃいいか分かんないんだよ」
「どこって」
圭が、軽く肩をすくめる気配がする。
「別に俺のほう見てもいいけど?」
「無理だろ」
即答だった。
お湯に浮いたラインを、意識しないわけがない。
艶やかな金髪、長くスラリとした脚、湯に浮かぶ胸の影。
元男子としての本能と、今の立場が、胸の奥でごちゃごちゃに絡まる。
「だからって、そんなガン見されると……さすがに俺も照れるんだけど」
「見てねぇよ!」
「見てねぇのに何でそんな真っ赤なのさ」
「もともと暑いんだよ、風呂だから!」
言い返した声が、思った以上に裏返っていて、自分でも情けなくなる。
圭が小さく笑った。
「そりゃ、まあ、俺が男だったら今の俺はけっこう刺さると思うけどさ」
「自分で言うなよ……」
「事実だしー」
「それに、湊も“そっち側”だったから、余計に気になるんだろ」
図星だった。
目の前の金髪美少女は、どう見ても“男子が好きになる側”の造形をしている。
でも中身は、ついこの間まで同じ教室で隣に座ってた、あの八千穂 圭だ。
そう思えば思うほど、視線のやり場に困る。
「だよな、ってお前もかよ」
「そりゃそうだろ」
「前は、“見るなら見るで堂々としろ”って言う側だったし」
湯気越しに、圭が天井を見上げた気配がする。
「でもさ」
「ん」
「今のお前の顔見てると、“ああ、男子ってこういう気持ちなんだな”って逆に納得する」
「やめろ、なんか申し訳なくなってくる」
「別に謝れって意味じゃねぇよ」
圭が、少しだけ真面目な声になる。
「ただ、“こっち側”も、これはこれでしんどいなって」
自分の身体を、誰かに見られる前提で考えるしんどさ。
その重さを、言葉にすると、やけに現実味があった。
「……でも」
湊は、お湯の中でそっと指を動かしてみる。
浮力と、水面と、そこに触れる自分の手。
知らない身体じゃない。
でも、完全に自分のものだと、まだ言い切れない。
「俺、たぶん俺でいたいからさ」
「うん」
「圭のこと、“見ちゃダメだ”って思うのも変だけど、“見て当たり前”って顔してるのも違う気がしてさ」
「それは分かる」
圭が、少し笑った。
「だから、今ぐらいでいいんじゃね」
「見てぇけど見づらい。見たら見たでドキドキする。でも、変なことしたくはない」
「……なんか、まとめられるとすげぇ情けないな、それ」
「人としてはまともってことだよ」
肩を小突かれて、湊もつい笑ってしまう。
そのとき、湯船の縁で「キュ、キュ」と小さな音がした。
見ると、ルベルが短い前足で縁をよじ登ろうとして、ずるずる滑り落ちている。
「お前も入りたいのか」
「キュッ!」
やたら元気な返事が返ってくる。
「圭、桶ある?」
「そこ、洗面器の山」
圭が顎で指し示す。
湊は湯船から半歩上がって、近くの桶を一つ手に取った。
適度にお湯を入れて、そっとルベルを抱え上げる。
「ほら、特別サービス」
「キュキュー!」
ルベルは、桶の中で気持ちよさそうに体を揺らした。
甲羅にお湯が当たるたびに、小さく水滴が跳ねる。
「ふやけない?」
「ふやけないって、ルベルは」
湊が苦笑する。
「甲羅は甲羅で、ちゃんとこう……手入れしてやんないと」
「すっかり飼い主だな、お前」
「どっちかっていうと、こいつに守られてる側だけどな」
桶ごとそっと湯船の縁に戻し、再び肩まで浸かる。
ルベルは桶の中で丸くなり、うっとりした顔で目を細めていた。
「……なんかさ」
「こうしてると、男子校のダンジョン攻略って感じしないよな」
「しないな」
圭が、湯面を指先で軽くはじく。
「大浴場貸し切りで、女子二人と一匹」
「設定だけ聞いたら、完全に別ジャンルのラノベだろ」
「タイトル詐欺にもほどがある」
さっきよりずっと小さくなっていた。
圭の横顔も、さっきよりは落ち着いて見られる。
意識すれば、まだ心臓は早くなるけれど。
「湊」
「何だよ」
「少なくとも、俺はさ」
圭が、視線をこちらに向けた。
「ここにお前が一緒にいてくれるの、けっこう救われてるからな」
「……風呂で?」
「いや、それも含めて」
圭は少しだけ照れたように口元をゆがめた。
「元男子として、“こっち側”に一人で放り込まれてたら、たぶんもっとしんどかった」
「お前が同じ目線で“やべぇなこれ”って言ってくれるだけで、だいぶマシ」
「……それは、こっちのセリフでもあるけどな」
湊は、湯の中で膝を抱え込んだ。
「圭が横にいるから、“女扱いされるの俺だけじゃねぇ”って思えるし」
「お互い様ってことで」
「だな」
湯気の向こうで、二人の笑い声が小さく混じる。
桶の中のルベルが、「キュウ」と小さく鳴いた。
その声が、浴場の高い天井に、ゆっくりと反響していった。




