第53話 相川への埋め合わせ(後)
小さなテーブルの上に、備蓄のクラッカーが並べられた。
その一枚の上に、東金君のパナシーアが、細く垂らされていく。
透明だった液体が、彼の指先の感覚に合わせて、じわりと色を帯びた。
「……こんな感じ、かな」
まばゆい黄金色。
とろりとしていて、見た目はどう見ても蜂蜜だ。
「おお、ちゃんとそれっぽいじゃん」
八千穂君が身を乗り出す。
その拍子に、横で座っている東金君の肩と八千穂君の肩が、軽くぶつかった。
ジャージの袖越しに伝わる、その距離感。
オレは反対側の端に座っていても、変に意識してしまう。
この広くない空間に、完全に女の子になってしまった二人と、赤い甲羅を持った魔物であるルベルまでいる。
どう考えても、俺ひとりだけ場違いだ。
「相川。ほら」
八千穂が、クラッカーを一枚、こちらに差し出してきた。
薄くパナシーアが塗られた面が、きらりと光る。
ルベルが「キュキュー」と高く鳴いて、テーブルの縁に前足をかけた。
「お前の分はあとでな」
「キュゥ……」
しょんぼりと丸くなるルベルが、妙にかわいい。
「まずは相川から」
東金君が、少し真面目な声で言った。
「一応、俺も味見したけど、大丈夫だった。
でも、相川の体質もあるから、最初は一口だけで様子見させて」
「……はい」
クラッカーを受け取る。
指先に、ねっとりとした感触が移った。
鼻先に近づけると、ふわりと甘い匂いが立ちのぼる。
蜂蜜だ。
決して本物ではないのに、記憶の中の味と匂いが、一気に引き出される。
「……いただきます」
小さくつぶやいてから、端をかじった。
バリッという乾いた音。
いつもの、粉っぽいクラッカーの食感。
それに、ほんの少し遅れて、
舌の上に、濃い甘さがとろりと広がった。
「…………」
言葉が、出てこなかった。
喉の奥が、勝手に動く。
甘さが、乾いた生地をやさしく包んで、すっと落ちていく。
ただの備蓄クラッカーが、
ちゃんと「おやつ」として口の中に存在していた。
「どうだ?」
八千穂君の声がする。
オレは、ゆっくり飲み込んでから、もう一度噛んだ。
甘い。
けれど、くどくない。
俺はパナシーアを飲んだことはないけれど、普段の味も少し気になってくる。
代わりに、舌の上に残ったのは、
懐かしい、蜂蜜トーストの朝の記憶だった。いや、普通の蜂蜜よりも、ずっと味わいが深い。
「……うまいです」
絞り出すように、そう言った。
「普通に?」
「普通に、じゃないです」
言いながら、自分でも何を言っているのか分からなくなって、
思わず笑いがこぼれた。
「すごく、うまいです!」
それで、ようやく東金君の肩から力が抜けたのが分かる。
「よかった……!」
「ほらな」
「じゃ、ルベルの分」
「キュキュー!」
さっきまで丸くなって拗ねていたルベルが、一気にテンションを上げて軽く飛び跳ねた。
小さな皿に乗せられたクラッカーに、夢中でかじりつく。
「めっちゃ気に入ってんじゃん」
「甘いの好きだからな、ルベル」
東金君も、自分の分を一枚手に取った。
ぱり、と軽くかじる。
「……あ、これ、普通にいけるわ」
口元が、ふわっと緩む。
「備蓄のままだと、どうしても“非常食”って感じだけどさ。
これくらい変わると、“ちゃんと楽しめる”っていうか」
「俺も」
八千穂が、遠慮なく二枚目に手を伸ばした。
「……うん、アリ。普通にうまい」
いつものクールさが少し崩れているのが、見ていてちょっとおかしい。
気づけば、テーブルの周りは、同じクラッカーなのに、
まったく違う空気になっていた。
どっちも、どう見ても「女子」にしか見えない格好で……しかも、二人ともかなりの美少女だ。
そんな二人が今、俺と同じテーブルを囲んでいる。
ルベルは足元で「キュキュー」と喜びのダンス。
どこを見ても、目のやり場に困る。
胸の鼓動が、また変なリズムで早くなる。
「……顔赤いぞ、相川」
八千穂が、じろっとこちらを見る。
「蜂蜜で酔った?」
「そ、そんなわけないでしょう!」
「じゃあ何。美少女二人と同じ部屋にいるから?」
「っ──!」
一番突かれたくないところを、容赦なく突かれた。
「ちょ、圭! そういう言い方やめろって!」
東金くんが真っ赤になって抗議する。
「事実だろ。鏡見ろ、湊ちゃんよ!」
「見なくていいから!」
わあわあと騒ぐ二人を前に、オレはひたすらクラッカーを食べるのに集中することにした。
甘さで舌を誤魔化していないと、
この心臓の音は、とてもじゃないがごまかせそうにない。
でも、悪くない。
そう思ってしまった自分に、
オレは小さくため息をついて、もう一口かじった。




