第39話 テンパーチャー
第三階層の簡易待機エリアに、湿った空気がこもっていた。
食料は相川のダンジョンマルシェでどうにかなった。延徳の武器も行き渡りつつある。
それでも、スライムと槍アリ相手に、この先ずっと殴り合いを続けるには、前衛の顔色は明るくない。
攻略自体は可能だが、非常に厄介な階層の為、どうしても攻略後の損耗の度合が気になってしまう。
「……このまま進んだら、どっかで誰か、削り負けるな」
風連がぼそりとつぶやき、柊も無言でうなずいた。
槍の穂先には、さきほどまで戦っていた蟻型の魔物の体液がこびりついている。洗っても洗っても、きりがない。
「そこでさあ」
圭が口を開いた。
普段は軽口ばかりの声が、珍しく真面目な色を帯びている。
「俺のテンパーチャーで、まとめてやっちゃうってのはどうよ。ボス部屋までは手が回らないから、そこと待機エリアだけ除外して、他のエリア全部、温度いじる」
「全部って……そんなこと、できるのか?」
誰かが息をのむ。
本来なら、そんな広範囲のスキル行使はあり得ない。圭と湊の能力は他のスキルよりは強いと感じていたが、そこまでの力がテンパーチャーに出せるのだろうか。
「やってみないと分かんねえけどな。まだ出力にムラあるし」
圭は苦笑しながらも、一歩前に出る。
女体化した長いまつげの奥で、瞳が細くなる。
「待機エリアと、ボス部屋は触らない。それだけ、ちゃんとイメージして……」
小さく息を吸った瞬間、空気の温度が揺れた。
圭の目が、ふっと金色に光る。
次の瞬間、見えない熱の波が階層全体に広がっていった。
壁の向こうから、スライムが焼けるような音と、槍アリの群れが一斉に暴れ出すような激しい振動が伝わってくる。
やがて、圭の周囲の空気から熱気が上がり、揺らめくようになると、程なくして今まで聞こえていた魔物の叫び声のような音がひぴたりと静まる。
「っ、は……!」
圭の膝が折れた。
柊が慌てて支えるが、肩越しに伝わる体温は、妙にちぐはぐだ。手先は氷みたいに冷えているのに、頬は熱に浮かされている。
「圭!」
湊が駆け寄り、急いでパナシーアを生成する。
オレンジの液体が、圭の唇に触れ、喉を流れていく。
「……悪ぃ、やっぱ、広範囲で全力はキツいわ。目がチカチカする」
圭はかすかに笑ってみせるが、立ち上がる気配はない。
「今日のボス戦は、パスだな。明日には……たぶん動けるから」
そう言い切る声だけは、いつもの調子だった。
圭にパナシーアを飲ませ終えると、ひとまず彼を待機エリアの壁際に寝かせた。
呼吸は乱れているが、意識はある。湊が何度か声をかけると、金色の余韻を残した瞳が、かすかに焦点を結んだ。
「……マジで、しんど。あれ、そう何回もやるもんじゃねえわ」
「しゃべらなくていい。とにかく今日は休んで」
湊がそう言いながら、まだ冷たい圭の手を握る。
その向こうで、風連たち前衛組が、慎重に通路側の様子をうかがいに行った。
待機エリアを一歩出た瞬間、むっとした熱気が肌を撫でる。
「うわ……サウナかよ、ここ」
柊が思わず顔をしかめた。
第三階層の通路は、さっきまでと同じ暗さのはずなのに、どこか空気が揺らいで見える。壁の石に触れようとして、風連は途中で手を引っ込めた。
「熱っ……。触っただけで火傷しそうなんだが」
足元には、さっきまで群れていたはずのスライムの姿がない。
代わりに、黒く縮んだゼリー状の塊と、ところどころにこびりついた焦げ跡だけが残っていた。
「槍アリも、こんなだったか?」
通路奥に転がる何体かの死骸は、甲殻が弾けたように割れ、内側まで白く乾いている。
延徳がしゃがみ込み、慎重につま先でつついた。
「……ほとんど中身、抜けてんな。殻だけだぞ!」
「テンパーチャーって、ここまでやべーのかよ……」
風連が小さく息をのむ。
これまでも圭のスキルが強いことはなんとなく分かっていた。だが、それは「前線の一人として頼もしい」というレベルの話であって、階層そのものを変質させるほどだとは、誰も想像していなかった。
「圭、今まで、こんな使い方は?」
待機エリアに戻ってきた柊の問いに、圭は枕代わりの荷物の上で目を細め、首を横に振る。
「成功してよかったよ、本当に」
湊が苦笑混じりに言う。
彼の手には、まだパナシーアの余熱が残っていた。
「明日になれば、動ける?」
「パナシーアも飲んだし、多分な。今日みたいな無茶は、しばらく勘弁だけど」
圭はそう言って、わずかに肩をすくめる。
その仕草はいつもの軽さを装っているのに、額には細かな汗がにじんでいた。
「……じゃあ、ボスは俺たちでやる。八千穂はここで寝てろ」
風連がはっきりと言葉にした。
その声に、周囲の前衛も、後衛も、順々にうなずく。
第三階層の魔物は、全て圭が熱で焼き払った。
残るのは、ボス部屋だけだ。




