第32話 第三階層
第三階層への階段を降りきった瞬間、空気が変わった。
第二階層の乾いた石の匂いではなく、湿った土と金属が混ざったような匂い。
足もとには細かい砂利が敷かれ、ところどころ黒ずんだシミが点々としている。
湊の肩で丸くなっていたルベルが、「キュル」と短く鳴いて頭をもたげた。
警戒のときの声だ。
「もう、いるってことか」
小声でつぶやいた途端、前を歩いていた誰かの靴が、砂利とは違う感触を踏んだ。
「……なんか、ヌルッとした?」
視線を落とすと、うっすらと透明なものが床一面に広がっている。
その向こう、通路の暗がりで、黒いシルエットがいくつか動いた。
人間サイズの蟻だった。
胴体の細さに対して、前脚だけが異様に長く伸び、その先は槍の穂先のように尖っている。
「来るぞ!」
叫び声より早く、前脚が床をたたいた。
甲高い金属音とともに、槍のような脚がこちらに突き出される。
湊は反射的に身を引いた。
目の前を、細い穂先が風を切って通り過ぎる。
「チクチクくるタイプかよ……!」
かすっただけでも、皮膚の奥がじんじんと痛む。
致命傷にはならないが、積み重ねれば確実に体力を削られる感触だ。
さらにまずいことに、床を覆うスライムが動き始めていた。
透明なゼリー状の塊が、じわじわと靴やズボンの裾にまとわりついてくる。
「こっちはスライムかよ、おい!」
誰かが不満の声を上げる。
靴底に張りついたスライムが、じりじりと布を侵食していくのが目に見えた。
「前は槍蟻、足もとはスライム。最悪の組み合わせだな……」
湊は息をのみ、右手を銃の形に構えた。
肩のルベルが「キシィ」と短く鳴き、甲羅を固く閉じる。
「ルベル、右の列。牽制!」
合図と同時に、ルベルが湊の肩から飛び出した。
空中でくるりと身を丸め、高速回転を始める。
銀灰色の弾丸が、右側面の槍蟻の列へと一直線に飛び込んだ。
がん、と重い音がして、蟻の一体が横合いから弾き飛ばされる。
残りの槍が一瞬だけ乱れ、その隙を逃さず前衛が踏み込んだ。
「前、抑える! スライムは踏むな、にじるな!」
誰かの指示が飛ぶ。
前は抑える! スライムは踏むな、にじるな!」
誰かの指示が飛ぶ。
それでも、完全に避けることはできない。細長い通路と、足もとのぬめりが動きを鈍らせる。
槍蟻の穂先が、三度、四度と仲間の腕や足をかすめ、そのたびに「いってえ!」という悲鳴があがる。
血は少ない。だが、刺された箇所がじりじりと熱を持ち、体力だけが確実に削られていく。
湊は後衛位置から全体を見渡し、必要最低限のところだけパナシーアを飛ばした。
無闇に使えば、すぐに一日の上限に届いてしまう。
やがて、槍蟻の一体が前のめりに崩れ落ちた。
とどめの一撃が続き、残りがじわじわと後退していく。
「押し切れ!」
掛け声とともに、前衛が一斉に踏み込んだ。
数分後、通路に残っているのは、砕けた甲殻と、まだじわじわ動いているスライムの名残だけになっていた。
「……はあ、はあ……第三階層、出だしからこれかよ」
誰かが膝に手をつきながら息を吐く。
「立ってるだけで削られてる感じがする……」
仲間の額には汗がにじみ、呼吸も浅い。
ルベルも「キュゥ」と短く鳴いて湊の足もとに戻り、少しふらつきながら肩によじ登ってきた。
「みんな、ちょっと下がって。ここ、スライムの残りがまだいる」
みんな、ちょっと下がって。ここ、スライムの残りがまだいる」
湊が声をかけると、数人が足もとを見る。
靴やズボンの裾に残っていたスライムの欠片が、じわじわと布地を薄くしていくのが分かった。
「うわ、やべ、これ溶けて──」
誰かの叫びと同時に、湊も足もとに違和感を覚えた。
「……あれ?」
自分のジャージの裾が、さっきまでよりも明らかに短くなっている。
スライムの欠片が張りついていた部分だけ、生地がふにゃふにゃになり、そのまま崩れ落ちていた。
「待って、これ──」
腰まわりにも、生暖かい感触が広がっている。
慌てて手で払うと、溶けた布の切れ端が指にまとわりついた。
第三階層最初の戦闘は、勝ちはした。
けれど、残ったのは小さな刺し傷の数と、じわじわ削れた体力と、
そして穴の開いたジャージの裾と、ところどころ薄くなった荷物袋だった




