第九章 春の市と、屋根の上の星
防衛戦から、一月。
町は、春祭りの準備に入っていた。
冬の終わりを祝う祭で、毎年、市場の規模を倍にする慣わしだった。だが、ここ数年、収穫が落ちて、出店の数も、客の数も、減っていた。
今年こそ、と組合長は意気込んだ。
「サクラ殿。市場運営、お手伝い願えませんか」
「俺で、お役に立てるなら」
「ミレイア殿に、現場仕切りをお任せします。サクラ殿は、後方の組み立てを」
ミレイアは、エルザが王都に戻ったあと、町に戻ってきていた。リリアの店の二階に、間借りしていた。
俺は、ミレイアと組んで、市場の見取り図を描いた。
「ミレイアさん。出店の動線、こちらをお勧めします」
俺は、紙の上に、太い赤線で、客の流れを描いた。
「入り口が、ここ。出口が、こちらの三方。最初の三店舗は、必ず華やかな商品を。途中、休憩用の屋台。最後に、買い忘れを呼ぶ、菓子と日用品の店」
「すごく、細かいですね」
「VPと、PPと、IPです」
「ぶい、ぴー」
「失礼。ええと、入り口で世界観を見せて、途中で個別の商品を強調して、最後に手に取れる商品を並べる、ということです」
ミレイアは笑った。
「サクラ様、楽しそうですね」
「楽しい、ですね」
俺は、自分の声に、少し驚いた。
楽しい。十年、口にしたことのない言葉だった。
祭りの当日、市場は、過去最大の客足になった。
組合長の予想を、三倍も上回った。
ミレイアは、屋台を回って、笑顔で売り込みをした。リリアは、香辛料の屋台で、複利の話を、客にこっそり教え込んでいた。グレンは、警備の冒険者を率いて、万引き防止の役を担った。
俺は、後方の天幕で、報告を受けて、屋台ごとの売上を、業務日誌に記録した。
天幕の中で、書記の少年が、隣に座っていた。書記長補佐に、正式に任命されてから、彼は、俺のそばを、離れなくなった。
「サクラ殿。屋台二号、銀貨十二枚」
「はい」
「屋台五号、銀貨七枚と、銅貨四十枚」
「はい」
少年の、報告の速度が、上がっていた。確信を、持って、数字を、伝えてくる。
俺は、彼の成長を、業務日誌の余白に、書いた。
「書記長補佐の少年。報告速度、二倍。誤読、ゼロ」
書きながら笑った。
笑った自分の口元を、少年が、見ていた。
「サクラ殿、笑いました?」
「笑いましたか」
「初めて見ました。サクラ殿の、笑った顔」
「そう、ですか」
俺は頬に手を当てた。
確かに、口角が、上がっていた。
書きながら、誰かが成長していくのを、見るのは、こんなに、嬉しいことだった、と、初めて、知った。
ライフマートでは、新人が育つと、すぐに、別の店舗に、異動になった。育てた人間と、長く一緒に、いられない仕組みだった。育てるのは、いつも、俺の仕事で、評価されるのは、いつも、別の店長だった。
ここでは、違った。
俺の隣に、育つ人が、いる。
夕方、市場が片付き、組合長が俺のところに来た。
「サクラ殿。あなたという方は、いったい、何者ですか」
「作業員ですよ。ライフマートの」
「もう、その答えで、誰もが諦めたようです」
組合長は、笑った。
「明日から、正式に、商業組合の名誉顧問の称号を、お贈りしたい」
「いえ、そのような」
「お受けくださって、結構です。報酬は、出ません。ただ、町の連中が、納得しないので」
俺は頭を下げた。
その夜、片付けが終わったあと、ミレイアと、屋根の上で、星を見た。
ギルド本館の屋根は、平らな石板で葺かれていた。登るのは、簡単だった。グレンが、登り方を教えてくれた。
ミレイアは、毛布を一枚、肩からかけていた。風が、少し冷たい。
「サクラ様」
「はい」
「あなた、帰りたい、ですか」
「帰り、たいです」
「日本へ」
「はい」
「日本には、何が、ありますか」
俺は、しばらく、答えに困った。
「会社が、あります」
「会社」
「俺の、勤め先です」
「家族は」
「両親は、健在です。離れて暮らしていますが」
「友人は」
「いない、ですね」
「恋人」
「いません」
「では」
ミレイアは、首をわずかに傾けた。
「日本、寂しい場所、ですね」
俺は笑った。
「寂しい場所、ですね、確かに」
俺は、屋根の石板に、背中を預けた。
夜の空は、日本で見上げる空とは、違った。星の数が、明らかに、多い。光の濁りがない、ということだろう。電灯のない世界の、空の濃さだった。
ミレイアは、俺の隣で、毛布を抱きしめていた。
「サクラ様」
「はい」
「私、聖女候補に選ばれた日のこと、よく覚えています」
「教えていただいても」
「七歳でした。村の祭りの日に、教会の人が来て、私の頭を、撫でて、『神に選ばれた』と、言いました」
「それは、誇らしい、ことだったでしょうね」
「最初は、そう思いました」
ミレイアは、目を伏せた。
「でも、教会に連れていかれてから、私は、誰の手も、握れませんでした」
「と、いうと」
「触れてはいけない、と、言われました。神の器だから、と。両親と、抱き合うことも、許されなくなりました」
俺は頷くしかなかった。
頷きながら、業務日誌を、開きかけて、やめた。
書く話では、ない、と思った。
聞く話、だった。
ミレイアは、続けた。
「逃げた日、初めて、雨に、当たりました。教会の中では、雨に当たることも、許されなかったので」
「雨」
「ええ。冷たくて、痛くて、でも、嬉しかった」
俺は、ミレイアの横顔を、見た。
夜の星明かりに、銀の髪が、ぼんやり光っていた。
「ミレイアさん」
「はい」
「俺の業務日誌、後で、書き写し方を、教えますね」
「え」
「字、覚えてもらえれば、ご自分で、ご自分のことを、書けます」
「私、書ける、のですか」
「書けます。難しいことでは、ないので」
ミレイアは、しばらく、無言だった。
それから、ぽつりと言った。
「こちらに、いてくださっても」
ミレイアの言葉は、そこで止まった。
俺は、何と返したらいいか、分からなかった。
業務日誌を開いた。最近の頁を、めくった。
戦果報告。市場の売上。倉庫の整理。商人街の改革。古代の手記の写し。それから、ミレイアの初対面の日。
「字が、綺麗、と」
俺は、ぽつりと言った。
「言ってもらえたのは、ミレイアさんが、初めて、でした」
ミレイアは、星を見上げた。それから、ゆっくり、言った。
「私は、聖女になり損ねた、欠陥のある少女、です」
「そんな」
「でも、サクラ様の字を、綺麗だと思った気持ちは、本物、です」
俺は頷いた。
頷きながら、業務日誌のページに、もう一度、書いた。
「ミレイアさんの言葉は、本物、らしい」
書きながら、これは、どこに分類すべき欄だろう、と思った。
俺の業務日誌に、こんな欄は、これまで、なかった。
その夜、町の門に、王都からの黒い封蝋の封書が、届いていた。
封蝋には、教会の紋章が、押されていた。




