第六章 ミレイアという少女
修道服の少女と、目が合った。
すぐには動けなかった。
リリアが、俺の背を、もう一度押した。
「いきなさい。逃げると、よくない」
「そうなんですか」
「向こうから見ているのよ。あなたを見つけたのは、向こう」
俺は、ゆっくり、少女の方へ歩いた。
少女は、銀色の髪を、頭巾の下に押し込んでいた。年は、十八か十九ほど。痩せていて、目だけが大きい。澄んだ青の瞳。
近づいて、初めて、彼女の指の細さが、目についた。
栄養の足りていない、指の細さ。袖から覗く手首も、痩せていた。
それでも、目は、生きていた。
逃げる目では、なかった。何かを、確かめに来た目だった。
「あの」
少女が、先に声をかけてきた。
「失礼なのは、承知です。少しだけ、時間を、いただけませんか」
「ええ」
「人目のないところで」
俺は頷いた。
二人で、町外れの古い井戸まで歩いた。井戸は使われておらず、周りに草が伸びていた。
少女は、頭巾を取った。
銀色の髪が、午後の光に、ぱっと開いた。
「私、ミレイア・フォルセティと申します」
「佐倉拓也、です。サクラ、と」
「サクラ様。あなた、教会の鑑定を、受けないでください」
「教会の」
「冒険者ギルドの鑑定とは、別です。教会には、独自の鑑定法があります。あれを受けると、あなた、囲い込まれます」
ミレイアの声は、震えていなかった。震えてはいないけれど、深いところで、何かが軋んでいるような声だった。
「囲い込まれる、というのは」
「教会の管理下に入る、ということです。私のように」
俺は、少し考えた。
「ミレイアさんは、教会の方ですか」
「元、です。半年前に、逃げました」
「逃げる、というのは」
ミレイアは、俯いた。
「私は、聖女候補でした。教会が、各地から見つけ出した、特殊な魔力の素質を持つ少女のうちの、一人です」
「はあ」
「教会は、私たちを、囲います。神に仕える、という名目で。実際には」
彼女の指先が、自分の二の腕を握った。
「実際には、魔力を、抜かれます」
俺は、業務日誌を、ポケットから半分、引き出した。
「ミレイアさん。今の話、書き留めても」
「書くのですか」
「書かないと、忘れますので」
ミレイアの目が、少しだけ、緩んだ。
「変な方ですね」
「よく言われます」
俺は、立ったまま、業務日誌に書いた。日付符号、ミレイア・フォルセティ、元聖女候補、教会から逃亡、魔力抜き取りの示唆。
書きながら、ミレイアが、横から俺の手元を見た。
「サクラ様」
「はい」
「あなたの、その帳面の文字、丁寧で、美しい」
俺は、ペンを、止めた。
止めて、彼女を見た。
ミレイアは、純粋に、業務日誌の罫線を、感心したように見つめていた。
「自分でも、何を書いているか、分かるように、と」
「日本の文字、ですね」
「日本、ご存じなのですか」
「異界の名前として、教会の禁書に、いくつか出てきます。でも、私が言いたいのは、文字の話、ではなく」
ミレイアは、目を上げた。
「字が綺麗、ということです」
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
「字、誰かに褒められたの、初めてかもしれません」
「そんなはずは」
「いえ、本当です」
業務日誌は、十年、誰にも見せていない。社員考課でも、字は評価対象にならない。
たった一言。低いハードルの褒め言葉。
それが、なぜか、深く沈み込んだ。
俺は、業務日誌のページに、もう一行、書き足した。
「字を、褒められた」
書いて、ペンを胸ポケットに戻した。
ミレイアは、しばらく、井戸の縁に、座っていた。
風が、彼女の銀髪を、巾着の縁から、ふわっと一房、外に出した。彼女は、手で押さえなかった。
「サクラ様」
「はい」
「私、教会から逃げて、半年。誰にも、本当の名前を、名乗れずに、いました」
「ミレイア・フォルセティ」
「はい。久しぶりに、口に出しました」
「いい名前です」
「ありがとうございます」
ミレイアは、立ち上がった。
「私、しばらく、リリアさんのお店に、隠れています。何かあれば、そちらへ」
「分かりました」
「サクラ様」
「はい」
「あなたも、教会には、近づかないでください」
俺は頷いた。
頷きながら、業務日誌に、書いた。
「ミレイア・フォルセティ、教会から逃亡中。半年、本名を名乗らず。当方への警告、二度目」
書きながら、なぜ二度目なのか、と自分に聞いた。
リリアにも、同じことを言われた。
二度、別々の人間から、同じ警告を、受けた。
棚卸しの世界では、同じ警告が二度来た商品は、必ず、不良在庫になる。
教会、注意。
俺は、業務日誌に、太い線で、丸を、つけた。
その夜、宿に戻って、業務日誌を開いた。
光っていた。
字の上を、薄い金色の光が、撫でるように、走っていた。
俺は、しばらく、その光を、見ていた。
光は、文字の輪郭を、なぞるように、流れていた。
俺の文字を、何かが、認識している。読んでいる、と言ってもいい。
業務日誌が、生きものになった、わけではない。
ただ、俺の書く字が、この世界では、何らかの効果を、持っているらしい、ということが、分かった。
俺は、試しに、業務日誌の最後の頁に、新しい一行を、書いた。
「ミレイア、無事に、リリアの店に、隠れている」
書きながら、本当に、そうであってほしい、と願った。
書き終えて、ペンを置いた。
光が、その一行を、ゆっくり、なぞった。
なぞって、消えた。
俺は、業務日誌を閉じた。
閉じてから、宿の窓を開けた。
月が、出ていた。
日本で見た月とは、形が、わずかに、違った。クレーターの位置が、違うのだ、と思った。
俺は、月に、向かって、ぽつりと言った。
「ミレイアさんが、無事で、ありますように」
声に、出した。
声に出すと、その願いは、すこしだけ、強くなる気がした。




