第五章 商人街の改革
翌朝、グレンの紹介で、商人街の老舗に呼ばれた。
トラドル商会、と看板があった。雑貨と乾物を扱う、町で三本の指に入る規模の店だった。
商会長は、五十がらみの男だった。額が広く、目の下に隈がある。
「サクラ殿、と言ったか」
「はい」
「ギルドが言うには、お前さんは、店の在庫を見ると、何かが、分かるそうだな」
「見れば、何があるかは、分かります」
商会長は、奥の倉庫へ俺を通した。
倉庫は、ギルドのものより整っていた。少なくとも、品目別には分けられていた。だが、整っているように見えて、不自然な空間が、あった。
「商会長」
「うん」
「ここに、布が」
「布は、入って三月だ」
「三月、ここに置きっぱなしですか」
「売れ筋ではないが、いずれ捌く」
俺は、手帳を出した。
「失礼ながら、布の単価は」
「銀貨二枚」
「在庫数、目分量で、四十反」
「そのくらいだ」
「銀貨八十枚分の現金が、ここで止まっています。三月、止まっています」
商会長の眉が、わずかに動いた。
「現金じゃない。布だ」
「現金の代わりに、布の形をしているだけです。三月、利息も生まずに、ここにあります」
「利息?」
「はい」
俺は、業務日誌の余白に、簡単な数式を書いた。
銀貨八十枚を、別の商品に投資して、月一割の回転で売れるとした場合。三月で、二十四枚の利益が出る。
「これは、機会の損失です」
「機会の損失……」
商会長は、計算を見つめた。それから、自分の額を、ゆっくりと押さえた。
「お前さんの言うのは……つまり、置いておくだけでも、損が出てる、ってことか」
「そういうことになります」
「待て、もう一つ計算してくれ。銀貨を、複数の商人が、複数の月で回したら、どうなる」
俺は、図書館で写した手記に挟んだメモから、新しいページを開いた。
複利の表を、書き出した。
月一割で、十二か月。元本一〇〇は、約三一三になる。
商会長は、その数字を見て、椅子に座り込んだ。
「これが、お前さんの国では、当たり前か」
「ええ、まあ。中学生の数学です」
「うちの国では、知っている人間が、ほとんどいない」
「そうなんですか」
商会長は、しばらく、無言だった。
それから、ゆっくりと、息を吐いた。
「私は、四十年、この道で、商売をやってきた」
「はい」
「父と、祖父も、商人だった。三代、ここで、店をやってきた」
「立派な、ご家系で」
「だが、お前さんの計算を見ると、私は、三代分の機会を、ことごとく、見逃してきた、ということになる」
「いえ、そんなふうには」
「いいんだ」
商会長は、笑った。
笑いながら、目に、薄く、涙が、にじんでいた。
「気付かないまま、墓に、入るよりは、ずっと、ましだ」
俺は頭を下げた。
「サクラ殿」
商会長は、立ち上がった。
「うちで働いてくれ。給金は、ギルドの倍出す」
俺は頭を下げた。
「すみません。ギルドの客分なので、勝手はできません」
「じゃあ、相談料でいい。一日、銀貨一枚で。倉庫を、あんたの言う通りに、組み直したい」
「はい、それでしたら」
俺は頷いた。
その日から、俺の評判は、町の商人街に、静かに広まった。
一週間後、トラドル商会の月次の売上は、三割上がった。
倉庫を整理し、布の在庫を半分にして、回転の早い乾物に資金を回しただけだった。発注のタイミングを、月次から週次に変えた。在庫管理の表を、商会長の息子に書き方を教えて、毎日付けさせた。
それだけだった。
それだけで、商人街の重鎮たちが、ギルドの応接間に集まった。
「サクラ殿。我々の組合に、特別顧問として、入っていただけませんか」
俺は頭を下げた。
「すみません。当面は、一店舗ごとに、お話を伺うのが精一杯です」
「では、巡回で、構いません」
「分かりました」
組合長は、深々と頭を下げた。
俺は、本気で、困惑していた。
棚を整えて、利益率の計算をして、発注を週単位にしただけだ。日本の商売をやっている人間なら、誰でもやっている。
なのに、この町では、それが「奇跡」と呼ばれていた。
商会を出る帰り道、リリアという名のエルフ商人が、俺を呼び止めた。
街角の屋台で、香辛料を並べていた。耳が長く、髪は緑がかった金色。年齢は、見た目では三十前後だが、エルフだから、本当の年齢は分からない。
「ねえ、あなた。サクラ・タクヤ」
「はい」
「複利の話、本当?」
「ええ、嘘ではないですが」
リリアは笑った。
「私、二百年商売してるんだけどね。それ、もし広まったら、商業ギルド、ひっくり返るわよ」
「そんな大層な話では」
「あなた、自分の話してることの、重さ、分かってない」
リリアは、香辛料の小袋を一つ、俺に押し付けた。
「これ、サービス。お近づきの印」
「いえ、そんな」
「いいから持って」
俺は、業務日誌のポケットに、香辛料を入れた。八角の匂いが、ふわっと立った。
「サクラ・タクヤ」
リリアの声が、急に低くなった。
「あなた、教会には、近づかない方がいいわよ」
「と、言いますと」
「私の勘。ただの勘」
リリアは、笑顔のまま、俺の背を押した。
俺は、振り返った。
通りの先で、修道服の少女が、こちらをじっと見ていた。
俺は、香辛料の小袋を、エプロンのポケットに、しまった。
リリアの店を出て、宿への帰り道、商人街の通りを、歩いた。
夕方の市場は、そろそろ片付けの時間だった。屋台の主人たちが、売れ残りを、籠に入れている。鶏肉の匂い、焼き栗の匂い、煮込んだ豆の匂い。
俺は、屋台の一つで、安いパンを、買った。
固い、黒いパンだった。中世経済史で読んだ、そのままの主食。麦の混ざり方が、本で読んだのとは違って、もっとふぞろいだった。
噛むと、酸っぱい味がした。発酵の処理が、雑なのだろう。日本のパンとは、別物だった。
それでも、俺は、噛んだ。
噛みながら、業務日誌に、書いた。
「主食、黒パン。麦と、混合穀物。発酵時間、推定二時間。塩、不足気味。エール、添えると食べやすい」
書きながら、これは、いつか、改善できる、と思った。
発酵時間と、塩の量と、混合穀物の比率を、変えれば、もっと、美味しくなる。
それは、棚卸しではない、別の、現代知識の話だった。
だが、俺の業務日誌は、棚卸し以外のことも、書ける。
日本でも、業務日誌の半分は、棚卸し以外のことを書いていた。商品の改善案、売り場のレイアウト、客の動線、雨の日の売上の傾向。
書いて、誰にも、読まれなかった。
ここでは、誰かが、読むかもしれない。
俺は、そう思って、もう一口、酸っぱいパンを、噛んだ。




