第十三章 忍び寄る悪者
枢機卿との面会から、五日経った。
最初は、地方の町から、報せが届いた。
トラドル商会、業務停止命令。理由は、教会の認める伝統的な商法から逸脱したため。
二日後、別の商会も、停止命令。
四日後、商業組合の会合が、強制的に解散させられた。
五日目、リリアの店が、封鎖された。
理由は、すべて、表向きは「異教の商法を広めた疑い」だった。複利、分業、在庫回転、すべてが「異教」とされた。
裁判は、開かれなかった。教会が、判決を出して、行政が、執行する。地方では、そういう仕組みが、まだ生きていた。
リリアは王都の俺の宿に、逃げ込んできた。
「サクラ・タクヤ」
「リリアさん、すみません」
「謝らないで。私が、あなたを助けると決めたの」
「でも、お店が」
「店なんて、また作るわよ」
リリアは笑ったが、目の縁が、わずかに赤かった。
二百年積み上げた、店だった。
エルフだから、二百年でも、まだ若い、と本人は言う。だが、二百年は、二百年だ。
俺は業務日誌に、リリアの店の蔵書、商品、什器の、思い出せる限りの一覧を書いた。再建のとき、参考に、なるかもしれない、と思った。
リリアが、横で、それを覗いた。
「サクラ・タクヤ。あなた、こういう時に、台帳を作るのね」
「すみません、無駄でしたら」
「無駄じゃない。ありがとう」
リリアは俺の肩に、ぽん、と手を置いた。
「あなた、案外、人の喜ばせ方、知ってる」
「そんな」
「気付いてないだけよ」
その夜、グレンも、宿に来た。
「サクラ。冒険者ギルドにも、圧力が来ている」
「ギルドにまで」
「俺の解任と、お前の身柄引き渡しを、要求してきた」
俺は頭を抱えた。
「俺のせい、ですね」
「お前のせいじゃねえ。教会のせいだ」
「俺がいなければ」
グレンが、俺の肩を、強く掴んだ。
「サクラ。それは、向こうの言い分だ。お前が、それを言うな」
俺は頷いた。
頷きながら業務日誌を握り締めた。
何を、すればいいのか、分からなかった。
数えれば、見える。それは、棚の話だ。
人の悪意に対して、棚卸しは、効くのか。
俺は自分の無力を感じた。
その夜、ミレイアの姿が、宿から、消えた。
リリアが、青ざめた。
「サクラ・タクヤ。ミレイアが、いない」
「いつから」
「今朝、買い物に出たまま」
俺は宿の前の通りを、走った。
通りの隅に、ミレイアの巾着が、落ちていた。
中身は、無事だった。落としたのではない。何者かが、引き剥がしたのだ。
俺は業務日誌を握った。
書こうとして、書けなかった。
このページに、書く言葉が、見当たらなかった。
ミレイアの巾着の中には、彼女が、毎日書き続けていた、小さな手帳が、入っていた。
俺が、字の書き方を、教えた、あの手帳。
最後の頁に、彼女の、震える字で、こう書かれていた。
「今日、サクラ様の、無事を、神に祈った」
下の方に、もう一行。
「神は、聞いてくださらない、と知っている。それでも、祈った」
俺はその手帳を閉じた。
閉じた手が震えた。
教会で、神に祈ることを、強要され続けてきた少女が、それでも、神を、信じていない。
なのに俺の無事を、祈ろうとした。
聞かれない、と知っていながら、祈った。
俺は業務日誌の最後の頁に、その手帳の言葉を、写した。
写しながら、決意を、固めた。
何が何でも、彼女を、取り戻す、と。
たとえ、世界の真実が、教会の罪が、明らかにならなくても。
ミレイアだけは、取り戻す、と。
それは、俺の業務日誌の、欄の、外側の、決意だった。
業務日誌に、書ける言葉ではなかった。
書ける言葉ではない、ということを、俺は初めて、感じた。
夜更け宿に、教会の使者が来た。
紙束を、置いていった。
「サクラ・タクヤ殿。ミレイア・フォルセティ殿は、教会の本部にて、保護中。元・聖女候補の脱走の罪状にて、処分の手続きを進めております。なお、貴殿が、教会への協力を再考されるならば、処分は、寛大に取り計らう用意がございます」
俺は紙束を握り潰した。
潰した手が震えていた。
紙束の中に、ミレイアの、銀色の髪の、一房が、紙に挟まって、入っていた。
切られた、髪だった。
切られた、ということは、すでに教会の聖女としての、儀式が、始まっている、ということだった。
聖女候補の髪は、一定の長さを保つことが、教会の規定だった。それを切る、ということは、彼女を、形式上、聖女に「戻す」ための、最初の手順だった。
ミレイアは、それを、絶対に、嫌がるはずだった。
俺の前で、初めて、頭巾を取った日。
銀色の髪を、午後の光の中で、ふわっと、解いた、あの日。
あれは、彼女が、自分の髪を、自分のものとして、初めて、外気に晒した瞬間、だったのかもしれない。
その髪が、いま切られて、紙の間に、ある。
俺はその髪を、業務日誌の、最後の頁に、丁寧に挟んだ。
挟みながら、俺の指は、もう震えていなかった。
リリアが、隣で、俺を見ていた。
「サクラ・タクヤ」
「はい」
「行く?」
「行きます」
「行って、署名する?」
俺は答えなかった。
答えられなかった。
ミレイアが、戻ってこないのは、嫌だった。
けれど俺が署名すれば、ミレイアの命は救えても、もっと大きな何かが、失われる気がした。
世界中の、消えていく魔力。今この瞬間も、誰かの土地で、誰かの作物が、痩せている。誰かの子供の、薬が足りない。誰かの店の、利益が、薄く削られている。
それを、俺が止めなければ、誰が止めるのか。
俺の業務日誌だけが、その記録を、持っている。
俺が、署名すれば、業務日誌は、教会のものになる。
俺は頭を抱えた。
「リリアさん」
「ええ」
「俺、ミレイアさんを、見捨てるかも、しれません」
「うん」
「それは、人として、最低です」
「うん」
「最低なのは、分かっています」
「分かってれば、いいのよ」
リリアは俺の頭の上に、軽く手を置いた。
「分からない人より、分かって悩む人の方が、信頼できる」
俺は頷けなかった。
頷けないまま、業務日誌を開いた。
書こうとして、書けなかった。
このページに、書く言葉が、見当たらなかった。




