混じりものはシノダノモリには還れない ④
始まりの記憶は山の中だった。
薄暗い木々が闇に溶け、視界の先に映る闇と群青色が混じった空はゾッとするほど光がなかった。星一つない空の閉塞感と、微かな風の揺れる音。複数の子供たちの戸惑う声や泣き声の中、その山は最初から可笑しかった。何故なら、目を覚ました時から自分たち以外の山に住むだろう虫や動物たちの声や気配が一切感じなかったからだ。
そこは命の気配がない山だった。
代わりに潮が感じたのは、生命とは真逆の死の気配。今ならわかる、あれは穢れの気配だったのだ。
山に棲む化け物──気づいた時には複数のそれに囲まれていた。視てはいけない──。咄嗟に視線を伏せた先、複数の子供たちの悲鳴が耳をつんざいた。
目が痛い、目が痛い
何もみえない、暗い、怖い、
助けて、助けてっ!!!
取り込まれたのか、障りにあったのか。今では思い出せない。気がついた時には意識を失っていて、次に目覚めた時にはあの男がいた。
中年の姿をした、美しく悍ましい男。ほっそりとした男のような女のような白い瓜実顔はどこか幻想的だというのに、潮には中身自体が透けて見えるようで、得体の知れない恐怖にゾッとしたのを覚えている。
その正体不明な男の姿をしたナニかは、ひどく無機質な目で潮たちを眺めていた。
「こっちは残った数が随分少ないな。鈍間ばかりが集まってしまったかな」
潮を入れて三人。最初の時点でそれくらいしか生き残らなかった。
男は仕方がないとでもいうようにため息を吐くと、潮たちを他にもいた生き残りグループに入れて、それから霊力の使い方を少しだけ教えて去っていた。
どうやら小屋に集められた子供たちは全員、差はあれど視えているようだった。
小屋には少しばかりの食料と、扱うには難しい武具のようなものばかり。
今考えれば、霊力の意味もよくわかっていない子供相手に、初心者でも扱える札ではなく上級者向けの武具だけを与えたのは、別にこのグループは死んでもいいかという奴の適当さだったのだろう。
拐われ、命のやりとりを強制させられ、なのにあまりにも存在の扱いはおざなりだった。
奴の思いつき、遊びの延長線上──もしかしたら、何の意味もなかったのかもしれない。
しかし現実、潮たちは拐われ、弄ばれ、最後は身体に異物を刻まれた。
あの日はひどく寒い夜だった。
少し前に身体に異物を刻まれた子供たちは三日三晩苦しみのたうち回った。
あんなものを人の身に入れて正気でいられる訳がないし、肉体が死に近い呪物のようなものに対して拒絶反応を起こすのは当たり前だった。
誰かが吐いた血と胃液の臭い。狂って自ら頭を打ち付けその中身が出る音。絶叫、奇声、嬌声、怨嗟、恐怖、絶望、絶望、絶望──。
もしかしたら、あの時死んだ方がまだマシだったのかもしれない。
小屋には鍵がかけられていて、外に逃げることなどできなかった。
潮を入れて、また数人。運悪く生き残ってしまった子供たちも、その時点で既に満身創痍だった。
異物を入れられてからあの男は一度も小屋には来ていない。食糧も底をついていた。
寒さと激しい餓えに、気が狂いそうだった。
かじかむ手を握り締めながら、次第に餓えに狂った誰かの一人が他の子を襲った。そこからは狂気が伝染したかのように、互いが互いを喰らうために武具を手に殺し合う。
血で血を洗うような地獄は次第に感覚を麻痺させ、喰われるなら喰らってしまえと脳内で甘美な囁きが廻るようになった。
たぶんそれは今思えば蟲の声だったのだろう。身体の中から別の生き物に成り代わるように、餓えを満たすことしか考えられない化け物へと堕ちていく。
まるでカフカの変身のようだ。
ただあの話の主人公は外見こそ変化したが、中身は純粋なまでに哀れなまでに人のままだった。
小屋の中で血だらけで蠢き、奪い合う自分たちとは違う。
その頃には、潮はもう死んでもいい気分になっていた。
拐われてきた以前の記憶がないせいか自己の確立が希薄だったせいもあるかもしれない。餓えに苦しみながらも、自らが誰かを喰らってまで命を繋ぎたいとは思えなかったのだ。
隅で丸くなりながらぼんやりと瞼を閉じる。
いつか、こうしていれば死ぬだろう。もしくは誰かが潮を喰らうかもしれない。そうすれば、この耐え難い餓えから漸く解放される。
いつの間にか、目の前に誰かが立っていた。
潮より少しばかり年上の少女は、受動的だった潮の世話を時々焼いてくれていた。少女の衣服は固まった血でどす黒く染まり、彼女以外には最早生きている人間は潮だけだった。
喰われるなら、まあいいかと思った。知らない人間に喰われるより、彼女なら。男に対して怯えるよりも与えられる不条理さに文句を言いながら、それでも生きるために強さを宿した彼女の命の輝きを、少しだけ好ましく思っていたから。
しかし少女は隅にいた潮を喰わなかった。
小屋の中に一つだけある小窓の前まで潮の腕を引っ張ると、太ももに潮の頭を横たえて目を覆った。
「……あんた、何か食べないと死ぬよ」
「なにも、食べるものないよ」
喘鳴が聞こえる。乾いた咳の合間に彼女はポツリと呟いた。
「……あるよ」
たぶん、その時点で少女は自らの命のリミットがわかっていたのかもしれない。潮を喰っても、損傷した身体では生き残ることはできないと。
口元に押し付けられたそれがなんの肉か、わからなかった。ただ、これを喰らえば彼女は死んでしまうことだけは理解していた。
吐き出そうとする潮に、彼女は無理やり喰わせ続けた。どこからそんな力があるのか驚くほど強い力で潮を押さえつけながら、彼女は潮が大人しく口をあけるまでそれを続けた。
ゾッとするほど、それは甘く、醜悪なほど美味だった。
──堕ちる。そう思った。中から喰い破られ、自分は化け物に代わるのだ。そう思った瞬間、目を覆われていた手が外された。
月明かりに照らされた少女は笑っていた。少しだけ悔しそうにしながらも、けれどその目に浮かぶ強い光だけは変わらず目を焼くほどに美しく。
「……いいこ。小さいこはいっぱい食べなきゃ。あたしね、あんたくらいの弟がいるの。……体よわくて、ご飯あんま食べなくて」
ふふっと笑った少女の頬に、一滴の涙がつたった。彼女が泣いたのは、その時が後にも先にも初めてだった。
「あぁ、悔しいな、こんなとこで死にたくない……帰りたい、帰りたいよ」
くしゃくしゃに顔を歪めてから、しかし彼女は何かを決意したようにギュッと目を瞑って、それから潮の額に自らの額をこつんと当てた。
「……あんたにあげる。あたしの魂も、身体も、そして名前も」
「……だめ、だめだよ」
「お願いっ……最後だから、お願いきいて。……あたしの全部食べて、そしてここからでるの。あたしを、ここから連れ出して……」
命の輝きが零れていく。
潮の意思に反して蟲が騒ぐ。一つになる。喰いたい、喰いたい、喰らい尽くせ!!
「……あたしはしお。あんたに全部あげるから、食べて生きて、そしてこんな最悪なこと、全部忘れて笑ってっ……!」
蟲を抑え込もうとして、潮は頷いた。
喰らえと騒ぐ蟲に怒鳴り付ける。
「喰うのはおれだ!! お前たちは黙ってろ!!」
蟲の意思ではなく、自らの意思で腹を満たすのだ。内側から喰われるものか。彼女が生きろと言ってくれたから。
こんな地獄なんてことない。
生きろ、生きろ、生き残って生き抜いて、そして──。
「俺は全部喰らって、生きて、今ここにいる」




