閑話休題
秋が深まるその日は、風が吹くと実際の気温よりも寒く感じた。生まれ故郷よりもだいぶ寒い関東は、しかし人間同士の距離感が近い地元よりもよほど呼吸がしやすかった。
公園のブランコに腰掛けた少年は、漕ぎもせずただ足元に落ちる自らの影を見下ろしていた。オレンジ色に闇が混じり始め、少年の影も地面と同化していく。
『主様』
すぐ傍で声がする。少年の使役する獣は、わりと感情を抑えた話し方をする。抑揚も表情も乏しく、他の一族の人間からは淡々とした感情の読みにくい獣だと思われているようだがそれは彼女の表情筋が無能なだけで、随分忙しない性格をしていることを少年だけが知っていた。
『そろそろ帰りましょう。もう逢魔時です』
「うん……」
おざなりに返して足をプラプラさせる。
自ら望んで距離をとったが、遠縁の家は居心地があまり良くない。霊力が強い少年と憑いている獣のことを、心底怖がっているのが如実に伝わってくるからだ。
本当は一人暮らしでもしたかったが、中学生にそんなことはさせられないと両親から猛反対を受けた。結果遠縁の家に世話になることになったのだが、忙しい身分だというのに週に一度会いにくる父親の過保護ぶりには笑うしかない。
迷惑をかけたくなくて距離をおいたのに、結局はその選択が多方面に労力を割いてもらうことになるとは、本当に自分の無力さには打ちのめされる。
自嘲の笑みが唇に刻まれる。
ふと、少年の影の上に誰かの影が重なった。
『コンバンワ』
紅いピンヒールが視界に入り、夕闇の気配が濃くなった。地面と同化しつつあった影がゆらりと自我をもつように蠢いた気がした。
『主様』
獣の唸り声が警告を発する。
『アナタ、キコエテル? ミエテル?』
大した怪異ではないなと足元を眺めた。少年の獣の気配にも退かないのは強いからではなく、単に姿を見せない獣を見誤っているからだ。つまりただのマヌケ。
返事を返さなければいいだけのこと。認識されているとお互いが共通して意識した時にしか、たぶんこの怪異は力を発揮できない。
「あっちに行けよ」
なのに、無意識に溢れた言葉に自分でもハッとした。何か言葉を返そうなどと微塵も思ってもいなかったのに、それは少年の意思に反して勝手に口からまろびでたのだ。口を押さえた時にはもう遅い。
耳障りな嗤い声が歪に響き渡り、勝手に顔が正面を捉えた。
あ、と思った時にはすぐ目の前にポッカリと穴の空いた眼窩が迫っていた。ニンマリと裂けた口元が、すぐ鼻先にある。
獣が顕現しろと叫ぶ。
──見誤っていたのは、自分の方だった。
「ガキに迫んなババアっ、年齢考えろや!!」
バチバチと激しい音と共にギャアっという悲鳴が聞こえた。怪異の体には複数の札が絡まっており、火花を散らしている。
同業だと気づいた時には、自分より少しだけ大きい白い手に腕を掴まれていた。
「走れっ!」
目の前を綺麗な白がふわふわと舞う。
公園の入り口から出ようにも、たぶん今は無理だろう。現世から隔離された筈だ。
突然現れた彼、もしくは彼女は少年とそう年が変わらないように見えた。ほっそりと華奢な体に肩までさらりと流れた白い髪は美しく、人外染みた美貌には性別などないように思えた。
少年は白髪の麗しい人から目を離せなくなっていた。
闇の気配が濃くなる中、その白は一筋の光にさえ思えた。
──なんて、綺麗なひと。
二人は公衆トイレの近くに身を潜めると、漸く息を吐いた。
「お前視えてんな?」
「え、ああ、うん」
「だから目つけられたんか……。どうすっかな、さっきので札はもうねぇし」
唇をむにむにと触りながらぶつぶつ呟く姿は愛らしく、少年たちを探している怪異が怒り狂っている様など彼の目には微塵も映らなかった。
まるで無害な子供のように他人に身を挺してまで守られるなど初めてだった。ドキドキと高鳴る鼓動が耳に移動したように煩い。
「めっちゃ探してやがるな。あー……お前、ちょっと目瞑ってろ」
乾いた掌が少年の目を覆った。ひんやりと冷たいそれにボウッとしている間に、美しい人が何か呟く。ゾワッと全身の産毛が逆立つ感覚と共に、本能的な畏れにも似た何かが警報を鳴らした。獣が静かに唸るのを理性で押し留める。掌が離れると同時に怪異の断末魔が響いた。
ずる、ずる。ぐちゃ、ぶち。
べちょ、ずる、ずる。
音がする。それが咀嚼音だと気づいた時には、思わず目を開けていた。
──その光景はあまりに残虐で、圧倒的な暴力だった。凄惨で悲惨で理不尽なまでの補食行為。
怪異の抵抗などなんの意味も為さず、捩じ伏せられ喰い殺される。白皙の美貌が苦しそうに喘ぐ。その真っ赤な穴から覗くのは、悍ましい蟲たちだった。
美しい地獄が、そこには広がっていた。
目が、離せない。
「うっぷ、げふ……あー最悪。……って、お前目開けてんじゃん! ──見た?」
口元を拭いながら少年を振り向いた美しい人は、目を開けて食い入るように凝視している少年に気づくと気まずそうな顔をした。
「……見てない」
嘘である。一瞬沈黙が下りて、それから美しい人はあっそと頷いた。
「怖がらせたな」
「そんなことないっ」
間髪入れずに否定した言葉に、しかし美しい人は苦笑した。これは嘘でも誤魔化しでもないのに、どうやら少年が気を使ってそう言ったのだと思われたようである。
──本当に、そんなことはないのに。
ただこんな美しい地獄があるのかと見惚れて──魅入られていただけなのだ。
「ガキは帰る時間だぜ。また怖い目に遭う前にな」
ぐしゃぐしゃと少年の頭を無造作に撫でたその人は、呼び止める間もなく去って行った。
『主様、帰りましょう』
「……うん。なあ、白銀」
顔が熱くて仕方がない。
まるで運命に出会ったかのような微熱が、少年を夢心地にさせた。
「あの人、名前なんて言うんだろう」
凄まじい異能力だった。苛烈で美しい暴力だった。
あの人ならば、もしかしたら自分のことを制御して使いこなせるかもしれない。
あんなに美しく優しい人ならば
あんな地獄を作り出せる人ならば
ただの子供として自分を扱ってくれたあの人ならば──。
その日少年は一筋の光を見た。




