インガメは水甕の中で手を伸ばす⑫ 完
仔犬は最初から何も持ってはいなかった。名前もなく親兄弟すらおらず、ずっと一匹だった。産まれた時から仔犬は何も持ち合わせてはおらず、またそれがいつも当たり前のことだった。
弱い仔犬が一匹で暮らすには山は過酷だった。上手く餌をとることもできず、たまに山に咲く木の実や葉っぱが命を繋ぐ小さな綱であった。キノコもあったが、一度それで死にかけてからは食べられなくなった。
仔犬はいつも腹が減っていた。そしていつも一匹だった。
ある日見たこともない奴が山に来た。いや、遠くから見たことはあったが毛が一部にしかなく、妙なモノを纏った禿げて二足歩行する変な生き物。他の動物たちは奴らのことを人間と呼んでいた。
残酷で残虐な生き物だと話しているのを盗み聞きしたことがあるが、仔犬には残酷も残虐も言葉の意味がよくわからなかった。
その日仔犬は後ろ足を怪我していた。痛くて怖くて腹が減って意識もぼんやりとしていた。きっと他の動物のようにこのまま二度と動けなくなるのだ。仔犬には死の概念などよくわからなかったが、たまに二度と動かなくなる他の動物を見たことがあった。たぶん自分もそうなるのだ。目を閉じてどのくらい経ったのか。
次に目を開けた時には目をパチクリさせた人間がこちらを覗き込んでいた。
「よかった、目が覚めたんだ。父ちゃん! 仔犬起きたよ!」
「お、んだが、よかったよかった。おめぇ腹減ってらべ、さっき作ってた握り飯食わせたらいいべさ」
「うん、そうする!」
小さい人間と大きい人間が嬉しそうにこちらを見ていた。どこか小さな建物の中にいた仔犬は、山から連れてこられたことに気づいて唸り声を上げた。
「こらこら、お前立ち上がるなよ。手当てはしたけど怪我してんだから」
手に何か持ってきた小さい人間は仔犬の鼻先にそれをそっと置いた。
「おれ握り飯つくんのうまいんだぜ、食ってみろよ」
つるりと輝いてふっくらとした白いそれは、とても美味しそうな匂いがした。グルグル唸る声と一緒に、仔犬の腹も可愛く鳴いた。それにどっと笑った人間は、仔犬の傍にくると同じような握り飯を一口頬張ると目を輝かせた。
「うんっ、やっぱりウマイ! ほら、お前も食えよ」
食べても平気そうな人間を見て、おずおずと仔犬も握り飯を口に入れた。
その瞬間の美味しさと言ったらなかった。今まで口にした中で、その食べ物は一番美味しかった。ガツガツと食べる仔犬をニコニコと眺めながら、人間は食べかけの握り飯を仔犬に分けてくれた。
おかわりをして腹が膨れた仔犬に、人間は名前をくれた。目が丸くて可愛いからマルと。その日から仔犬はマルになり、人間たちと一緒に暮らすようになった。
何も知らなかった仔犬は、今なら理解できる。あれはきっと幸福の箱庭だったと。
優しい人間たちが大好きだった。その中でもマルは小さい人間が一番好きだった。優しくて食べ物をくれて、そうして夜は優しく寝床へ入れてくれる。小さい人間が自分の頭を撫でてくれる瞬間が、マルはこの世の中で一番大好きで幸福な時間だった。
けれど幸福な時間は長くは続かなかった。
ある日から食べるものが少なくなった。マルだけでなく人間たちすらマトモに食べられるものが手に入らなくなったのだ。食い物がなければ人間も他の動物と大差ない。いつしか人間たちは数を減らし、一緒に住んでいた大きな人間も死んだ。他の人間に殺されたのだ。マルと小さい人間だけは大きな人間のおかげで村から逃げ出せたが、仔犬と小さい人間だけで暮らしていけるほど世間は甘くなかった。
今ならわかる。小さい人間は子供だったのだ。親の庇護もない子供がどうなるかなど、マルの方がよく理解していた。日に日に人間は弱っていった。
マルも一生懸命食べ物を探し、時には盗んできたが、人間が元気になることはなかった。立てなくなり座り込む人間の手を舐めながら、お互いだけが支えだった。
「マル……おれがしんだら、おれをたべて、いいよ」
食べない、食べないよ!
きゃんきゃん鳴く仔犬に人間は優しく笑った。マルにはどうすることもできなかった。ただ、最期のその時まで傍にいたいと思った。
──いたかったのに。
「いい素材があるじゃないか」
化け物がいた。汚ならしい老婆は突然マルの首根っこを掴むとそう言った。必死に縋りつく小さい人間を足蹴にして。老婆は何度も何度も人間を蹴った。その手が力なく離れるまで。仔犬は鳴いた。やめてやめて蹴らないで。鳴いて鳴いて人間の名前を叫ぶ。やがて人間の手が力なく離れた。ピクリとも動かない人間に唾を吐いて、化け物はマルを連れていった。
人間の姿が見えなくなってもマルはずっと人間の名前を鳴き続けた。胸が苦しくて痛くて、腹が減るよりも嫌だった。人間の傍に行きたかった。
その時の感情をマルはよくわかっていなかった。それは寂しさや悲しみだった。化け物はやがてマルを頭だけ出した状態で土に埋めた。土に埋められてもマルは鳴き続けたが、次第に飢えで鳴く力もなくなった。
腹が減って減って減って、悲しみは怒りへと変わった。毎日朝に仔犬の様子を見にくる化け物への。
怒りはやがて憎しみとなり、怨嗟へ変わる。
喰ってやる喰ってやる喰ってやる喰ってやる!!
元気になったら最初にあの化け物の喉笛を噛み千切って喰い殺してやるのだ。
怨嗟の一鳴きの後、マルは首を落とされ──犬神へと変化した。
怨嗟と呪詛によって新しい存在へと変化した犬神が一番最初にしたことは、マルが最期に誓った願いの成就だった。七日間をかけて化け物の身体を少しずつ甚振って遊ぶように千切ってから、ゆっくり喰い殺した。化け物の哀願や断末魔が酷く心地好く、腹を満たすことはなかったが犬神は満足だった。
犬神となり知性をもった彼女は何故化け物が自分を作り出したのか後から理解した。一部の土地で飢饉が起こり、それに伴い人間たちの間で呪いや呪術が流行っていたのだ。化け物は巫女のふりをするために犬の頭を犬神として売り払い、霊感商法で生計をたてようとしていたようである。しかし奇跡か、いや、むしろ不運か、本物の犬神が産み出されてしまったのだ。どうやら老婆には少しばかりの霊力があったようだ。
犬神はそれから毎日人間を喰い殺すようになった。憑くことすらせず、ただ無作為に理不尽に腹を満たしていく。理不尽に奪われ産み落とされたのだから、理不尽に喰い殺して何が悪いのか。
犬神の特性など意にも介さずただただ悪食を繰り返し、ある日虚と出会った。虚は彼女に犬神の在り方を教えてくれた。飢えが満たされることはなくとも、少しだけマシになった。人間に憑き、気に入らなければ喰い殺して、犬神の生を享受した。虚はいつも自由で、その雄々しくも美しい巨躯が草原や山々を楽しげに走り回る姿を見るのが好きだった。
虚は犬神に新たな名前をつけてくれた。彼が好きだという青空からとって、空と。
犬神の空として虚と共に過ごした日々は、本当に幸福だった。犬神として残虐で苛烈で、けれどおおらかで快活な虚が大好きだった。空と同じ怨嗟の飢えを抱えた同胞の傍は、居心地が良かった。ずっとずっと今度こそ、こんな毎日が続くのだと思っていた。
──しかし、またそんな日々は奪われた。虚は人間の元へ行くといい、傍らには昔からいる白銀の犬神が寄り添っていた。虚は空には何も言わなかった、望まなかった。
ただ一言、好きに生きろと言った。
どうして──。
いつだって空の大事なものは手からすり抜けていく。
初めから何も持っていない空の手には、何も残らない。奪われるだけだ。
きっと空自身に価値がないからだ。だから虚も簡単に空を手放すのだ。強くないから、弱い仔犬だから。だって弱いからマルを大事にしてくれた人間一人守れなかった。いつも奪われ、蹂躙される。だから強くなったのに。もう捨てられないように、奪われないように、あの女から貰ったのに。力を手にしたのに──。
結局は無意味だった。無価値だった。空がしたことは、なんの意味もなかったのだ。
空はただ、傍にいたかっただけなのだ。
ただ一言、来いと言って欲しかった。そうすれば飢えも怨嗟も噛み砕いて一緒について行ったのに。
もう、全てがどうでもいい。わからない、何もわからない。人間への憎しみも、犬塚の人間への嫉妬も、全てがぐちゃぐちゃだ。空に初めて優しさを与えてくれたのは人間だったが、奪ったのも人間だ。小さい人間の名を最早思い出すこともできないが、確かにマルは小さい人間を愛していた。でも、空は人間を憎んでいた。相反する二つの感情が呪いを深くする。
意識が沈む。
おなかがすいた。ただ、おなかかすいたの。
「……わかるよ、飢えが癒えない苦しさほど哀しいことはないよな」
優しい声が、した。
※※※※※※※※※※※※※
呪詛でできた泥が全て潮の華奢な身体に呑み込まれていくのを、汐緒たちはただ呆然と見つめた。ゴクンと彼の喉が小さく嚥下すると同時に、そこにいたのは巨大な犬神ではなく小さな仔犬だった。
何が起きたのかわからないといった風にきょとんとしている仔犬の鼻先に、潮がそっと鼻を寄せる。
「……わかるよ、飢えが癒えない苦しさほど哀しいことはないよな」
驚くほど優しい声に、仔犬は鳴いた。それは泣き声にすら似ていて、潮の手が抱き抱えた仔犬の背中をあやすように撫でる。
『ワッパ、お前呪詛を喰ったのか』
「言っただろ、オレが喰うって」
悪辣に口元を上げる潮に、虚は虚をつかれた顔をした。それから一本とられたばかりに額に手を当てて快活に笑った。
「潮さん、大丈夫ですか?」
「呪詛程度なんも影響ねぇよ、平気だ」
無遠慮に体をまさぐって確かめる汐緒に辟易した表情を浮かべた潮は、空の両脇を両手で抱えるとズイッと虚の方へと差し出した。
「空、言いたいことあんなら言えよ」
慌てた様子でグリンと首だけを後ろに倒して潮を見る彼女の目を見つめる。
「自分の中で思ってるだけじゃ誰にもわからないし伝わらないぜ。人間同士だってどんなに仲が良くても、言わなきゃわかんねぇんだから」
暫く思案するように黙っていた空は、グリンと顔を前に戻した。いつの間にか人型になっていた虚は怪訝な表情で空を見下ろす。
空は神妙な表情できゃんきゃんと鳴いた。最早人型をとれないのか、必死にきゃんきゃん鳴いて訴える空に、次第に虚の表情が戸惑うようなものに変わる。
『え、いや、それは……。いや、そういうつもりで言ったんじゃねぇんだが……』
ただの鳴き声にしか聞こえていないのは潮だけのようだが、内容は呪詛を喰った時に視たので知っている。言葉足らずな犬神の始祖に、鳴き声を理解した汐緒も呆れたようにため息を吐いていた。
『俺がお前に好きに生きろと言ったのは、ただ自由に生きてほしかったからだ。俺が言えばお前は従っちまうだろ。人間への怨嗟を無理やりおしやってまで、お前の意に反したことさせたくなかったんだよ。俺はただ、自由にお前に選んでほしかったんだ』
犬神として呪いながら生きるのも、犬塚の眷属として憎しみを飼い殺しながらも飢えを手放して人間のために生きるのも、彼女の意思が選ぶものだ。選択の自由を空から奪いたくなかった犬神の始祖は、しかし幼い彼女からしてみればあまりにも言葉が足りない。
『……いや、言い訳だな。これはあくまで俺の考えで、お前の気持ちを聞くべきだった。悪かった』
潔く謝って空の頭を乱雑に撫でた彼の顔には確かに慈しみの感情があった。
『そろそろ領域を保ってられねぇな……空、俺は犬塚んとこに戻るがお前はどうする。どうしたい?』
小さく鳴いた空に、汐緒が面倒臭そうにため息を吐いた。
「いや、彼女を犬塚の家に持って帰るのは無理。犬猫じゃないんだから、どんな経緯で拾ってきたのか説明したら正式な依頼主もいないのに勝手に動いたのがバレる」
『俺が動いた時点でとっくに泰三にはバレてるぞ』
しゃあしゃあと悪びれもなく答える虚に汐緒はうんざりしたように鼻で笑った。
「だろうねっ」
『ならいいじゃねぇか! 空をつれて行こうが行かまいがバレてんだ、つれてってやれよ』
「友達を害してた奴をつれて来るなんて慎二が嫌がるだろ」
『犬塚の男がんな細けぇこと気にするもんかよ! 相変わらずケチくせぇなお前は』
「皆が皆あんたや父さんみたいに脳筋な訳じゃないんだけどね。慎二が可哀想だとは思わないの? この犬神のせいでだいぶ悩んだみたいなのに」
『お前こそ空のこのつぶらな瞳を見て可哀想だと思わねぇのか? こんな仔犬のささやかな願いくらい叶えてやれや、男だろ』
「最初に置き去りにして今日まで忘れてたの誰だよ。今さら過保護なおじさんみたいな態度とっても遅いから。ていうか、今は平安じゃなく令和だから、男だろとか言わない方がいいよ」
まるで思春期の息子と無神経な父親の言い合いのようなやりとりである。慣れているのか影のように佇む白銀を視界に入れながら、おろおろしている空を胸元に抱き寄せ背中を撫でながら煩いふたりに一喝した。
「煩い、馬鹿みてぇな言い合いはやめろ」
キャリーケースからおにぎりを取り出し空に与えてやりながら、汐緒を見る。
「オレが当主に説明する。オレが言い出したことだしお前は無理やりオレに付き合わされただけだしな」
「いや、それは俺も納得した上で」
「いいから、オレが説明する。そもそもこれは犬塚にじゃなくオレへの依頼なんだから。んでとりあえずこいつはつれてく。眷属にするかどうかは当主が決めんだろ」
「……そう、ですね。決めるのは当主様だ。わかりました、その子は家につれて行きましょう、とりあえずですが」
「おん、悪いな」
『何だよ、やけに懐いてんじゃねぇか。やっぱ美人の言うことには従いたくなるってか? 小僧も男だったか!』
ガハガハと豪快に下品な虚に辟易しながら、早く戻れと冷たく言った。汐緒の顔が見たこともないほど怖かったからだ。
『たっく、ツレネェなぁ』
ヒョイっと肩を竦めた男はおにぎりを食べている空の頭をもう一度だけ撫でると、領域を解いて消えていった。
元の公園へと戻った潮たちは意識のない幹也を抱えながら一目につかない内に犬塚の家へと戻ったのだった。
※※※※※※※※※※※※※
犬塚の家で意識を取り戻した幹也は、泣いて安堵の表情を浮かべる慎二と見知らぬ潮たちを見ながら不思議そうな顔をしていた。どうやら公園に向かった記憶までしかないらしく、何故自分が室内にいるのか疑問だったようだ。打ち合わせどおり、公園で遊んでいたものの具合が悪くなった幹也にどうすればいいかわからなかった慎二が親戚を電話で呼んでとりあえず目が覚めるまで家で介抱していたと説明した。もう少し大人なら納得しにくい説明だったが、彼はすんなりと納得した。それから幹也たちにお礼を言って、体調は良いものの一応大事をとってすぐに帰ることとなった。
車で家の近くまで送ってから、一緒に乗っていた慎二に経緯を軽く説明する。空に対して拒否反応が出ても仕方がないとは思っていたが、意外にも彼は小さくなった仔犬の空を見て「そっか」とあっさり頷いた。複雑な心境ではあるようだったが、空の今までの出来事に同情的でもあるようで、当主が決めるなら自分が何か言うことではないと男前な発言をしていた。
そして幹也が目覚める前に当主である泰三と話をつけていた潮たちは、これまたあっさりとおとがめなしで空の眷属が決まって拍子抜けしていた。
一服しながら犬塚の人間の度量の広さに本当に同じ人間かと疑っていると、儀式を終わらせた汐緒が喫煙所へと入ってきた。
「終わりましたよ」
「おう、お疲れ」
火を消してそのまま並んで喫煙所を出て歩いていると、ふいに汐緒が切り出した。
「空から出ていた呪詛の件ですが」
「あぁ、あれか」
「そもそも彼女が人型をとれるような力を持ったのはあれが原因だったようです」
ガゼボに設置された椅子に腰掛けた潮はその言葉に嫌な予感がして眉を寄せる。
「彼女はある女性から、呪詛が練り込まれた玉を貰ってそれを食べてから強い力を得たと話してました」
「ある女性?」
「ええ。でもその女性の詳細はあまり覚えていないそうです。彼女曰く人になりそこなった呪い屋だと」
「人になりそこなった呪い屋?」
「はい、そう形容するのが一番近いと。それを聞いて父がアンノウンと呟いていました」
冷たい風が頬を刺す。心臓がひんやりと撫でられた気がした。顔が強張ったことに気づいたのか、汐緒が心配そうに潮の方を見ながら言葉を重ねる。
「アンノウンって名前だけは聞いたことはありますが、おとぎ話じゃないんですか? 大昔から存在が言われている人物ですよね。でも、そんな存在が今も本当にいるんでしょうか……人間がそんな長く生きられる訳がないのに」
「……そうだな」
質問の問いに前者とも後者ともとれる曖昧な相槌をする潮を見て、彼はそれ以上何も聞かなかった。
空気が読める男に有り難く思いながら、不確定な情報だけでは彼に説明するに至らない、いや、たぶん自分はあまり彼にアンノウンの件とは関わってほしくないのだと気づいて口元を手で覆う。
あんな悍ましい存在とは無縁でいてほしい。
彼が頼りないとかそんなのではなく、ただ健やかに普通に生きてほしいのだ。
あれに関わると人生を歪められる。取り返しがつかないことになる。
潮はただ、汐緒にはそんなことになってほしくないのだ。
じわじわと闇そのものが這い寄ってくる。それを引き寄せている中心はもしかしたら潮なのかもしれなかった。縁が深い潮の傍にいれば、いつかその魔の手が汐緒を絡めとるかもしれない。
──潮時なのかもしれない。
冷たく乾いた風を纏いながら、そう思った。
インガメは水甕の中で手を伸ばす ~完~




