インガメは水甕の中で手を伸ばす⑪
「お前の願いを叶えてやる!」
地面に叩き付けるように腕輪を投げたその瞬間、景色が一変した。血のように真っ赤だった世界が、青と緑に侵食されていく。
『案外使うのが早かったなワッパよ』
ゆらりと楽しげに揺れる真紅の尾がからかうように潮の首筋を擽る。巨躯を誇る男の背中を驚いて見つめていると、虚は悪戯が成功した子供のような顔でちらりとこちらを振り向いた。
晴れ渡る青空と生い茂る緑の大地に、これが彼の本当の結界領域なのだと悟る。自由で壮大で清々しい──まるで妖怪とは思えないほど美しい領域だった。
「虚っ、何でお前がここに!!」
『助けにきてやったってのにそんな言い方はねぇだろ汐緒。まったく、お前には俺に対してのりすぺくとってのが足りなくていけねぇ』
やれやれと肩を竦めながら、彼は地面に落ちている腕輪を顎で示した。腕輪はまるで根を張るように地面の一部となっていた。
『これだよこれ。ワッパと俺の間に縁を繋いでおいた』
「あんた、まさか最初からこいつに気づいて?」
『当たり前だろ、俺の家だ、全部視えてんだよ。犬塚の血脈の年端もいかねぇ小僧が暗い顔なんてしやがって、童子は種族関係なく能天気に笑ってんのが仕事だっつうのに』
パンッと軽く拳を掌に当てた虚は鋭い視線を空に送った。
『懐かしい気配がするから知ってる奴かと思ったが、テメェ誰だ?』
先ほどとは打って変わって大人しく俯いていた空はその言葉に傷ついたように顔を上げた。
『虚様っ、妾は、妾は空です!! 貴方様が名付けてくださった空です! 昔より大きくなりましたので、もしかしたらわからなかったかもしれませんが、貴方に救われ貴方だけをお慕いしていた空なんです!』
『空……? あぁ、あの仔犬の空か!!』
『! はい、そうです空です!』
思い出したと頷く虚に空はパアッと表情を明るくさせた。ピコピコと飛行機耳を見せるその姿は不思議といじらしく見える。
『そうかそうか……それで?』
『え……』
『お前が空だとしてそれが何だっていうんだ? 誰の許可を得て俺が守護している犬塚の人間に手を出してる?』
気前の良い兄の顔で頷いたかと思えば、その表情は一瞬で切り捨てるような冷たさを帯びた。
『そ、れはっ……貴方様を、貴方様を犬塚の家から解放するためです!』
『解放だぁ??』
不可解そうに眉を上げる虚に空は必死な様子で頷いた。
『そうです! 貴女様は自由でおおらかで美しいほど残酷で、なにものにも縛られない! それなのにどうして制約を受けてまで犬塚の家に閉じ込められているのです?! 妾は、妾はっ、昔の貴方様に戻ってほしいだけなのです! 昔の自由に蹂躙し君臨する貴方様の姿をもう一度見たい、だから妾はっ!』
『……え、こいつ何言ってんだ? 支離滅裂でヤベェな』
「いやこっち見んな」
頭の可笑しい奴を見るような顔をした虚は、引いているのか戸惑っているのかひどく人間臭い表情でこちらに話しかけてくる。
『あー……まあちょっと何言ってんのかわかんねぇが、別に俺は閉じ込められてもねぇし解放されたいとも思ってねぇぞ』
『え……』
『俺は好きで犬塚の家にいるんだ、最初に人間側に行くとき説明しただろ』
空の目がうろうろと忙しなく動く。俯くその顔は迷子の幼子のようにも見えた。
『……だ』
『あん?』
『嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だっ!』
ドロドロと身体が泥に覆われていく。血を吐くような絶叫の後、ふいに空は静かに嗤った。それは虚ろな笑みにも見えた。
『……やっぱり妾がお救いしなければ。心配なされるな、虚様。妾が貴方様を解放してさしあげます』
灰色の毛皮が全て泥に覆われ、とんでもない悪臭が鼻につく。
『何だっこの臭い! うえっ、くっせ!!』
鼻に皺を寄せながら嘔吐いた虚に空の前足が勢いよく叩き付けられる。
風圧で潮の体も後ろへと下がった。幹也を抱えながら虚を仰ぎ見れば、彼は片手で易々と空の前足を掴んで押さえていた。
『まったく、あれほど拾い食いすんなって言ってたっつうのに、何喰ったらそんな風になるんだ?』
言葉と共に虚の身体が巨躯を誇る獣の姿に変わっていく。空も大きいがやはり虚と並ぶとその差は歴然だった。
『俺のもんに手を出したんだ、ケジメはつけさせねえとな。……俺直々に引導を渡してやんのも温情だろ、なぁ空よ!!』
ブンっととんでもない風圧と共に虚の前足が空をふっ飛ばした。しかしさほどダメージを受けていないようで、すぐさま起き上がった灰色の犬神は激しい咆哮を上げて虚へと向かっていった。巨大な獣同士の戦いは苛烈でまるで怪獣映画さながらである。
『見てるだけか汐緒! 役に立たねぇ木偶の坊はお気に入りの相手にも嫌われるぜ!』
「ちっ。……お強い大犬神様なら俺の助けなんか必要ないかと思いますが」
『口の減らねぇクソガキだな相変わらず。見せ場を作ってやるつってんだ、喜んで尻尾振りながら補助しやがれ』
激しい音と共とは裏腹にまるで軽い運動でもするような軽さで汐緒に声をかける虚に、汐緒は悪態を吐きながらも言われた通りに白銀とサポートに入った。汐緒の的確な指令と二体の犬神のコンビネーションで空はあっという間に追い詰められていく。
汐緒は虚に嫌われていると言っていたが、見ていればどちらかというと汐緒の方が態度が悪い。しかしお互いが嫌っているというより、ちょっかいをかける年上の親戚に鬱陶しがりながらもなんだかんだ言うことを聞く年頃の少年といった様子で、雑な態度こそが気心が知れた仲である証明のようであった。
『ぐはっ……!』
最後には虚の攻撃が止めとなり、地面へと踏みつけられた空が血反吐を吐いた。
『……どうしてっ、どうしてじゃ!!』
噛み締めた口からは怨嗟の声が吐き出される。目から流れる泥は、まるで涙のようにも見えた。
『どうしても何も、お前の独り善がりだっつうことだ空よ。俺があの男に憑いていったのは、俺がそうしたかったからだ。お前も言ってたじゃねえか、俺は誰にも縛られねえって。俺は俺がしたいことしかしねぇ。自由に好き勝手に生きる、それが俺の信条だ』
『……妾は、妾は……』
伏せられた目からは絶えず呪詛が零れ落ちていく。力なく地に伏せた彼女は、やがて呟いた。
『妾を殺せ』
『……それでいいのか?』
『もとより赦すつもりなどないのでしょう? 貴方様のモノに手を出した愚か者の末路など、妾は沢山見てきたから知っています。貴方様が手に入らないなら、どうせなにもかも無意味です』
『そうか。知己の仲だ、介錯は苦しまないように一瞬でしてやる』
虚が淡々と頷き口を開けた瞬間、空の口元に笑みが浮かんだ。それは哀しい自嘲の笑みだった。
『妾には、結局なんの価値もなかった……』
囁くようなそれに潮は咄嗟に声を上げる。
「待て!」
ピタリと直前で止まった虚は顔を上げると怪訝な顔で潮を見た。
『なんのつもりじゃ人間っ』
『俺も聞きてぇな。何で止めた』
駆け寄ってきた汐緒に幹也を預けてスタスタと空の顔の前まで近づいた潮は、臭いに顔を顰めながらも口元を歪めた。
「悪さしといて大好きな奴に介錯してもらってハッピーってか? んな楽な道誰が許すかよ」
『……何っ!?』
『ワッパ、お前何するつもりだ』
「人様に迷惑かけておいて逃げ得なんかさせねぇ。こいつはオレが喰う」
印は最早静かに結んでいた。
『俺の仔犬だ、俺がケジメをつける』
「中途半端に自分のモノだって主張してんじゃねえ。今まで放置してたならもうテメェのもんじゃねぇ、邪魔すんならお前も喰うぞ、虚」
険しい顔をする虚に無表情に返せば、背後で白銀が動揺したように動く気配を感じる。しかし何も言わない汐緒に彼女も静かに成り行きを見守った。
『……俺よりも悪食じゃねぇか』
「喰うのは犬神だけの専売特許じゃないんでな」
静かに足を退けた虚に、空が絶望したような顔をした。逃げようとする彼女を、しかし先に展開していた蟲が絡めとる。
「こっちを見ろ」
腹の中で蟲が蠢く。
「蠱毒腹」
見開いた空の目の中に、悍ましい蟲たちの群れが地獄のように映っていた。




