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しおとせお  作者: 柚希
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インガメは水甕の中で手を伸ばす⑩

 真っ赤に染まる世界を見て犬神の結界領域の中に連れ込まれたことを悟った潮は、すぐ斜め前で白銀と共にいる汐緒を視界に入れた瞬間叫んだ。


「汐緒っ下がれ!」


 すぐに気づいた白銀が汐緒を庇う。声無き骸が数体襲いかかってきたのだ。

 駆け寄ろうとした潮は何かに足をとられてたたらを踏む。


「何だこれっ……」


 下を見ると夥しいほどの数の骸が転がっていた。足元だけではない。よく見ると地面のあちらこちらに山のように積まれている。汐緒を襲った骸もその中にいたどれかだろう。操っているのは多分幹也に憑いた犬神だ。

 血生臭い臭気に吐き気がする。鼻を押さえながら顔を顰めていると、ふいに前方に女が一人ゆらりと現れた。女の手が無造作に襟首を掴んだまま、ぐったりと意識のない子供を引き摺ってくる。


『あのお方の気配がしたから連れてきてやったというのに、まさか貴様とはな白いの』

『……まさかとは思いましたが、貴女でしたか空(くう)。それと、その白いのという呼称はやめていただけますか。今の名は白銀ですので』

『相変わらず無表情で可愛げのない。とうにくたばっているかと思えば、まだあのお方の傍に居るとは忌々しい』


 人型になった白銀の口ぶりから、どうやら顔見知りのようだった。白銀に気づくや不快そうに顔を歪め、灰色の尻尾が苛立ちのまま低く揺れている。


「白銀、顔見知りか」

『はい、彼女は虚様の……』


 汐緒に聞かれた彼女は無表情のまま、


『狂信者です』

「……そう」

『現代でいうとすとーかーと言うのでしたか』


 獣の姿の時は気づかなかったが、やはり彼女は少しどこかずれている気がする。困惑する潮とは違い、汐緒は慣れているのか淡々と頷いた。


『誰がすとーかーじゃ! 妾は唯一虚様に名を与えられた特別な存在。虚様が人間についたとはいえ、それは変わらん!!』

『と、自分では思っているのです』

『茶々を入れるなっこの女狐め!!』

『わたくしは犬神ですが?』

『あーあーっ、もうよい! 貴様とは会話にならんわ!!』


 緊迫していた状況がふっと中弛みしてしまう。地団駄を踏む空を見ていると、簡単には喰えそうだなという気になる。それに気づいたのか、すぐさま幹也の襟首を掴んで持ち上げると空は殺気を飛ばす。


『変なことはするなよ、白髪の。貴様が動いたのと同時に童子の頸をへし折るぞ』

「……何でそいつに憑いた」

『何でとはまた無意味な質問をする。弄んで壊してから喰うのに理由なぞ必要か?』

「犬塚に関係のある人間と親しいとわかってて憑いただろ。挑発のつもりか?」


 潮の問いに空は高らかに嗤った。


『挑発? 妾はただ遊んでいるだけよ。犬塚の人間で遊んで追い詰めて時間をかけて喰い殺す。暇潰しじゃ』

「犬塚の土地で悪さをしないことは暗黙のルールだったろ」

『暗黙のるーる? 虚様が禁止にしたわけじゃあるまい、そんなもの弱い犬神たちが勝手にしていることじゃ。というか、犬塚の人間が妾に話しかけるな、穢らわしい』


 しっしっと手で追い払う仕草をされた汐緒の空気が変わる。口元は笑みを刻んではいるが、目が恐ろしい。静かに頭にきている横顔を見やりながら、足の運びで印を結ぶ。


『動くなと言ったであろう、愚か者め』

「っ!」

「潮さん!」


 足元を無数の骸が掴んで離さない。


『それは今まで妾が喰ろうた人間の骸よ。この中では妾の命で好きに動かせる』

「白銀、今すぐ噛み殺せ!」

「やめろ潮!!」

「でもっ」

「いいから、動くな。……お前、何で今頃犬塚に手を出そうとするんだ?」


 腰あたりに絡みつく骸の不快感を押しのけ訊ねると、空は口元を歪めた。


『……そんなもの貴様に関係ないだろう』

「何十年、いや、何百年も経って何で今更? もっと早く行動に移せたんじゃないのか?」

『ただの気まぐれ、暇潰しと言ったであろう』

「違うな、当時は手を出すつもりも必要性もなかったんじゃないのか? 虚に対する畏れからか何かは知らないが」

『畏れ? ああ、そうさ、あのお方は最も永く生きている強い犬神、全ての犬神が畏れ、敬愛する存在。それ故、妾は虚様の目を覚まさせてやりたいのだ』


 白銀の尻尾がピクリと反応する。


『犬塚の人間に洗脳された可哀想なあのお方の御前に犬塚の人間たちの首を並べ、昔の、元の虚様に戻してやりたいのだ』

『は?』


 低い疑問符はあまりにも不穏な色を帯びていた。


『不敬』


 一言白銀が切り捨てたその瞬間、瞬きの間に彼女は空の背後へと回り込んでいた。空がその一瞬気をとられた隙に汐緒が走り出す。


「動くな」

『ぐうっ……!』


 白銀が幹也の襟首を掴んでいた空の手を背後から掴んで無理矢理引き剥がし、汐緒が空に命令する。汐緒の手にはいつの間にかしめ縄が握られており、それは空の首へと繋がれていた。汐緒の言葉に逆らえないのか、空が血走った目で睨み付ける。

 白銀が幹也を無事に保護したのを見届けた彼は、まるで犬のリードを引っ張るように地面へと無造作に膝をつかせた。潮に絡みついていた骸たちもバラバラに崩れ落ちる。


『このっ、人間風情がっ……』

『動かない方がいいですよ、主様の霊力には勝てません』

『白銀っ、貴様っ! 飼い犬め!!』


 眷属の犬神ではなくても命令を聞かせることができるのか。これが本来の犬塚の人間の能力なのかもしれない。


『虚様の悪口はおやめください』

『はあ!? いつ妾が虚様の悪口を言った!!』


 おちょくっているのかこれが素なのか、白銀が口を開く度に獣の姿の時とのギャップに戸惑う。クールビューティな獣だと思っていたし、なんなら汐緒に雑に扱われていて健気で利口な分同情もしていたがまるっきり印象が変わってしまった。なるほど、確かにこの性格なら多少適当に扱われても気にもしないだろう。


「白銀煩い、獣の姿に戻れ」


 ため息を吐きながら命令する汐緒に、白銀は是と頷き、しかし何を思ったか幹也を潮へと預けると自らの主に頭を下げた。


『少しだけ、このお馬鹿さんに言いたいことがございまして、一言だけよろしいでしょうか』


 汐緒の力に抵抗しているせいか苦しそうにもがいている空を片手で軽々と制しながら、呆れとも諦めともつかない表情で彼は頷いた。


「OK、手短にね」


 もしかしたら振り回されているのは彼の方なのかもしれない。

 白銀はこほんと咳払いをすると、空の目線に合わせるように身を屈ませた。


『空、貴女は本当にお馬鹿さんですね』

『何だとっ』

『先ほど貴女は虚様が犬塚家に洗脳されていると仰りましたが、それが虚様にとってどれだけ不敬なことか理解した上での発言ですか?』

『妾のどこが不敬だと言うのだっ』


 白銀はやれやれと言わんばかりに無表情のまま肩を竦めた。


『あの強い虚様が、自らの意志に反して犬塚家の眷属になったとでも? それこそありえない。虚様は犬塚家の人間の傍に居ることが面白いから眷属になったんです。あの方は己がしたいことしか致しません。快か不快か、獣としてあるがままに、性分のままに動いているだけです。……それを洗脳されている? しかも元の虚様に戻してやりたいなどと大それた妄言を吐き散らかして、これが不敬でないというのなら何なのです?』

「一言ではないな」


 幹也の呼吸を確かめながら、思わず呟く。滔々と言葉を重ねる白銀は追及の手を緩めない。


『あの方あの方と心酔しているわりに、貴女は虚様のことが理解できていないようですね。思いつきか何か知りませんが、虚様に殺される前に元いた場所に帰りなさい。犬塚の人間に手を出せば、あの方は貴女であろうが関係なく喰い殺すでしょう』

『……るさい、煩い、煩い煩い煩い煩い煩い! 貴様に何がわかる! ずっとあの方の傍にいることを許された貴様に、妾の何がわかると言うのだ!』


 グルルルと低い唸り声が木霊する。血涙を流す空に呼応するかのように、地響きが鳴った。激しい揺れに、咄嗟に幹也の体に覆い被さる。

 ブチッという音がして、空の首に巻かれていたしめ縄が引き千切れた。


『主様!』


 空の体から激しい突風が舞い上がり、白銀が咄嗟に汐緒を抱えて後ろへと下がった。

 バチバチと激しい音と共に、そこに現れたのは巨大な灰色の犬神だった。白銀よりも二回りは大きく、その巨躯からは黒い泥のようなものがボタボタと垂れていた。あまりの悪臭に、顔を顰める。


「何だあれ……!」

「白銀、一言って言ったよね。何で挑発したの」

『わたくしのせいでしょうか? それよりも、何ですかあれは。本来あの子はあんなに大きくも、強くもなかった筈です』

 

 悪びれる様子もない白銀だったが、空のあの姿は予想外だったようでどこか驚いたように灰色の犬神を見上げていた。


「ていうか、あの泥も何だ? 犬神って怒ったら泥出すのか?」

「いや、それはないですね」

「わかってるよ冗談だ! どう見てもあれは……」

「えぇ、呪詛の類ですね」


 すぐさま獣の姿へと戻った白銀が汐緒と共に駆け出した。物言わぬ骸たちもまたうごうごと蠢き出す。

 潮は札で結界を張りながら幹也を守ることに専念するが、激しい音を立てて白銀が吹っ飛ばされるのを見て息を呑んだ。白銀はすぐさま立ち上がるが、怪我をしたのかその体はよろめいている。

 札を使って汐緒が一時的に空の動きを止めるが、命令を下しても空にはなんの影響も与えられてはいなかった。犬塚の異能が通用しない。

 蠱毒腹を展開したとして、物凄い速さで動くあの犬神を果たして捕らえることができるだろうか。

 ジリジリと焦燥感に駆られる中、汐緒の叫び声でハッとする。気づくと目の前には大きな口を開けた空が眼前に迫っていた。札の結界を張ってはいるが、多分もたない。


『貴様からあのお方の匂いがする。何故だ何故だ何故だ何故何故だ』


 ガンガンと前足が振り下ろされる衝撃に結界に皹が入る。幹也を胸元に手繰り寄せた潮は、空のその言葉にハッとした。ズボンのポケットに手を入れると、指先にコツンと腕輪が触れた。


 ──もしどうにも困ったらこれを投げてこう言え。


 ふいに真紅の毛なみの男の言葉が脳裏を過った。

 躊躇している暇などないっ!


「お前の願いを叶えてやる!!」

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