インガメは水甕の中で手を伸ばす⑨
その日は慎二の強襲に合い、朝の九時に叩き起こされた。寝ぼけ眼で半身を起こす潮の前に、ズイッとアイフォンの画面が迫ってくる。ぼんやりと視線が定まらない潮に痺れを切らしたのか、頬にグイグイと画面がめり込んできた。
「痛ぇ痛ぇ」
「潮くん見て! ちゃんと起きて! 幹也にラインしたら今日は体調が良いから遊ぼうってきて会うことになった!」
「おーそうか良かったな」
アイフォンを押し返しながら欠伸をして腹をボリボリと掻いていると、慎二は呆れた顔をして首を振った。
「姉ちゃんたちが潮くんのこと儚げ王子様とか呼んでたけど、そんな姿見たら百年の恋もさめるよね。潮くんみたいなのを外見詐欺って言うんでしょ」
「へえへえ勝手にさめろよ。ガキには興味ねえ」
外見のせいで色んな人間が寄ってくることがあるが、大抵は潮の毒舌に呆気にとられて去っていく。頼んでもいないのに言い寄られるのも好奇の目で見られるのもうんざりである。いっそ顔に傷でもあれば面倒事から回避できるのだろうか。
「潮さんは今のままで素敵ですよ」
「汐緒兄ちゃんは潮くんに甘いよね」
いつの間にか入り口に凭れかかりながら汐緒は爽やかに笑った。慎二の苦言も暖簾に腕押しである。
「それより友達から連絡あったんだね」
「うん。昼食べたら公園で待ち合わせ」
「んじゃ慎二は留守番な。オレと汐緒だけで行く」
私服に着替えながら答えると、慎二はえっという顔をした。
「何でっ、オレも行くよ」
「ダメだ。実戦を積んだこともねぇお子ちゃまは連れて行けねぇ。何があるかわかんねぇし、お前が怪我でもしたらそれこそ大事になるぞ」
「潮さんの言うとおりだよ、慎二は家で待ってて。悪いようにはしないから」
「……拐ったりしない?」
恐る恐る聞いてくる彼に思わず吹き出した。冗談のつもりだったのだが、どうやら慎二はそのことが心配だったようである。
「拐わねえ拐わねえ。とりあえずその幹也って奴の写真かなんかあるか? 顔わかんねぇと違う奴に声かけて事案になっちまうからな」
「あるよ、夏に祭りの時撮ったやつ。汐緒兄ちゃんにラインで送るね」
汐緒に送られてきた写真を横から覗き込む。浅黒い肌の活発そうな少年が慎二と並んでピースサインで写っていた。二人の身長差に本来の小学生はこのくらいのサイズだよなと改めて慎二の高身長に羨ましくなる。
「それじゃあ出かけるのは昼過ぎだとして、俺は少し準備してきますね」
「準備?」
「札とか色々、本来獣憑きを祓うには物凄く大がかりな準備が必要なんです。憑かれた人間を拘束しなきゃいけないですし。今回はしめ縄で縛り上げることもしない簡略化した祓い方をするんで、いつもよりは多少荷物がマシだとは思うんですけど」
獣に憑かれた人間は総じて身体能力が向上する。血筋に憑かない動物霊の場合はそうではないが、共通して獣染みた行動をとるようになる。犬神の場合も人間離れした逃走を図る憑かれた人間を取り押さえるため、縄で縛る荒っぽいやり方が推奨されているのだろう。
潮自体獣憑きの祓い方は専門外(簡単な要点しか知らない)なため、まさか汐緒の言う荷物があれほど多くなるとはこの時は全く思ってもみなかった。
「いや、荷物ヤバくね」
「これでも少ない方ですよ、それより早く車に乗ってください。家の人間に見つかったら流石に誤魔化せません」
キャリーケースを携えた彼の姿に思わず真顔になる。
「何そんな入ってんの?」
車に乗り込んだ潮は後ろに積まれたキャリーケースを振り返った。興味深そうにしている汐緒にクスリと笑いながら、汐緒は車を発進させる。
「朝言ったみたいに札とか、万が一のためのしめ縄とか。あ、勿論外なのでしめ縄で拘束する訳じゃないですよ。ただしめ縄自体が獣憑きを弱体化させる効果があるので一応お守り代わりです。後はお神酒と、もち米のおにぎりですね。大半はおにぎりが占領してます」
「おにぎり!? こん中の大半おにぎり入ってんのか?!」
ギョッとして正気かと汐緒を見れば、彼は真っ直ぐ前を見たまま頷いた。
お神酒はまあわかる。清められた水や酒は祓う時に使うことも珍しくない。しかしおにぎりは謎だ。
「犬神の作り方って飢餓状態にさせてから首を切り落とすじゃないですか、なので通常の犬神はそれが原因で満たされない飢えの中にいるんです。だから食にとても執着する。餓鬼の祓い方で食べ物を与えるって方法聞いたことありません?」
「ああ、なんか習ったな。施餓鬼だったか?」
祓うというより供養に近いが飢えに苦しむ餓鬼に食べ物を与えて救うという方法がある。
「死因が餓死だったものほど、怪異になった時障りや穢れの影響が飢餓に関連するケースが多い。西日本に伝わるヒダル神もその内の一つですね」
ヒダル神とは山道を歩く人間に取り憑き酷い飢餓感を与える悪霊や妖怪の類で、憑かれると身体の自由が利かなくなり行き倒れてしまうという。酷い時にはそのまま死んでしまうケースもあるというが、憑かれた時にすぐに食べ物を口にすれば身動きがとれなくなることはなくなる。
「だから食い物か」
飢餓に苦しむ相手に救いの恵みを与え鎮めるか、もしくは気を逸らす役割りを担う道具──神具に近いアイテムとして持っていくのだろう。
もち米で作っているのもそのためだろう。古くからもち米は神饌として捧げられ神事に使われる清浄なものだ。
「特に犬塚のもち米は特別な製法で作られてますからね、通常の怪異ならこれだけでも効果があるんですが、人型をとれる犬神にも通用すればいいですけど」
口ぶり的にあまり期待していないように感じた。汐緒の方が専門的に詳しいとはいえ、今回のケースは初めての対応だろう。最悪穏便にすまなければ乱暴な手段をとるしかない。無理やり引き剥がして喰らうのが一番てっとり早いが、血筋に憑いている場合取り憑かれている人間への影響が少し気がかりだった。
「あ、あの子ですかね」
車を路肩に止め窓から覗くと、ブランコに座っている少年が見えた。
「っし、行くか」
車から降りて幹也に声をかけると、彼は怪訝な表情で顔を上げた。
「誰ですか」
不審者を見るような目にまあそうなるよなと胸中で苦笑する。警戒心たっぷりの少年に、汐緒が人好きのする笑みを浮かべて近づいた。
「幹也くんだよね? 俺たちは慎二の親戚なんだ」
「……慎二は?」
疑いの目を向ける幹也の身体からは濃い穢れが滲んでいる。ただ犬神の方は上手く姿を隠しているのか、視認できなかった。
「慎二はちょっと家の手伝いがあってね、今は俺の家にいるんだ。ちょっと時間がかかるから俺に公園まで迎えに行ってほしいって頼まれてね。公園からだと少し遠いから、今から車で一緒に行かないかな?」
わりと無理があるが、汐緒の顔は偽りなどありませんとばかりに晴れやかだ。人の良さそうな笑顔に、大抵の人間ならばころっと騙されそうである。
幹也も騙されたのか強張っていた表情が少しだけ緩和する。
「慎二の親戚の家にオレが行っていいの」
「勿論。自慢じゃないけど俺の家は普通より広いから、探検するのに丁度いいと思うよ。どうかな?」
車に乗せることができれば後は少し乱暴だが取り押さえることが容易になる。祓う直前の記憶などほとんど覚えていないだろうから、祓った後は慎二にてきとうに言い訳させればいい。
案外人目の件はこれでクリアできそうだなと動向を見守っていた潮は、幹也の口元がふっと笑みの形を象るのを見て一瞬悪寒が走った。
「嘘つき」
裂けんばかりに口角を上に吊り上げ、幹也は言った。
その声は幼い少年の声ではなく、妙齢の女のものだった。
「っ……汐緒っ下がれ!!」
「遅いわ」
嘲るような声の後、頭が割れるような耳鳴りに襲われた。
頭を押さえ膝をついたその瞬間、景色が一変する。そうして次に顔を上げた時、そこは全てが真っ赤な世界だった。




