インガメは水甕の中で手を伸ばす⑧
幹也に犬神が取り憑いたのは十二月が始まったばかりの頃だった。
犬神を視た慎二はすぐに、前日の行動やどこか変な場所へは行っていないか色々訊ねたという。しかし幹也自体はいつもと同じ行動しかしておらず、どこでどうやって憑いたのか慎二にもわからなかった。
「憑きやすい人間ってのはまあいるが、大体はそいつが精神的に病んでいてたまたま負の感情に惹き寄せられるか、もしくは常に情緒不安定な奴の心の隙に取り憑くってのがセオリーだが」
「幹也は明るい奴だよ。友達もいっぱいいるし」
まあ、人間の腹の内など表面上はわかるまい。見えているものが全て正しいとは限らないのだが、実際潮は幹也に会ったことすらないので、腹に一物抱えていたのか、たんにたまたま運が悪かったのかわかりはしないのだけれど。
「とりあえず、明日行ってみるか」
「えっ、正月期間はよそのおうちも忙しいから行っちゃダメなんだよ?」
「ん?」
ひどく驚いた様子の慎二に首を傾げる。言っている意味がわからず汐緒を見れば、彼も慎二の言葉が常識かのように苦笑している。思わず戸惑いながら、何が忙しいのかわからずとりあえず頷いた。
親戚どころか血の繋がった身内がいないので、元旦は親戚や身内が集まる日、くらいの認識はしていたものの、それ以降も人によっては身内でまったりしたり初詣に行ったりするのだということを潮は知らなかった。
「でも3日過ぎに動くとして、相手の身体はもつのか?」
「まあ、早いにこしたことはないんですが、今すぐ衰弱死したり喰い殺されることはないと思います。犬神はある程度人間を苦しめ壊しながら弄ぶ者も多いので」
生まれた経緯が人間の醜悪さが招いた地獄なだけに、犬神の怨みは凄惨さを伴う。
「そもそも俺たちが会いに行った時点で彼のお婆様に追い返されそうですが」
「だよな……拐うしかねぇか」
ボソリと呟くと、慎二の目が不安そうにこちらを見つめる。そんなことしないよね、と雄弁に語る目に無言で返すと、慎二は泣きそうになりながら汐緒の方を振り返った。
「誘拐は犯罪なのでしませんが、まあ、とにかく行ってみるしかないとしか言えませんね」
霊感商法だと通報されそうな気がしなくもないが、ごちゃごちゃここで話していても良い案は浮かばなかった。大事にせず、慎二の存在は隠して接触しなければならないが、最早家族に見つからず不法侵入からの幹也を外に拐かしてからの流れしか思い付かない。
結局は汐緒の言葉の通り、行ってみるしかないのだ。
※※※※※※※※※※※※※
犬塚家に滞在している間、潮は何の不自由もなくのんびり優雅に過ごしていた。広く綺麗な部屋に豪華な風呂、黙っていても時間になると出てくる豪華な料理と至れり尽くせりである。ただ犬塚の人間たちの濃密な接触時間だけは少しばかり慣れず辟易していた。
汐緒の父親も母親も暇さえあれば何かと構ってくる上、潮を毛嫌いしていた筈の輝良ですら態度が緩和していて、気づけば要に強制された都市伝説DVD鑑賞会に一緒に参加していた。始めは拒否していた筈なのに、いつの間にか要の不思議な押しの強さと柔らかいながらよく回る口に言いくるめられてしまう。
保護者代わりの岩玄は無口な男の上ほとんど家にいなかったので、一人暮らしをしている今と静寂さは変わらなかったが、この家はとても賑やかだ。いつの間にか必ず誰かが傍にいて、慣れない潮には少し息が詰まった。
ただ、不快ではないのが自分でも不思議だった。
時刻は夜中の二十四時を指していた。
新・令和都市伝説という題名のそれは最早何が新でそうでないのかよくわからない内容になっていた。輝良は手足を真っ直ぐに伸ばした良い姿勢のまま意外にも静かに寝ていて、隣には半分眠りかけた状態で潮の肩に頭を凭れた汐緒がいた。
内容のつまらなさに潮も瞼が閉じかかる。体温の高い汐緒の温もりはひどく心地よく、夢路へと意識を手放すことになんの抵抗もなかった。
ふと、獣の臭いがした。
耳元にかかる風がナニカの呼吸するものだと気づいた時には、最早身体はナニカに囲われるように身動きができないでいた。瞼を開けようとするがそれもできない。身体は金縛りにあったかのように自由が利かなくなり、潮の意思では自らを動かすことすらできなかった。
今自分は要の部屋にいた筈だ。
眠った直前のことを思い出しつつ、正体のわからないナニカに額に汗が滲んだ。襲撃にあっているのかなんなのかよくわからないが、多分これは現実ではない。夢だと自覚していて夢の中で目覚めるのに、現実ではまだ目覚めることができないあの疲れる感覚と、意識の外側に現実の気配や音が感じられるのに薄皮一枚隔てられているかのような妙な空気。ナニカのテリトリーに無理矢理引き寄せられたのだろう──犬神たちがいる総本山のようなこの場所で。
グルグルグルグルと唸り声が聞こえるが、多分それは嗤っている。
(オレに何の用だ)
声が出せないので胸中でそう呟けば、巨大な気配の持ち主はどこか面白がるように潮の周りを歩き回る。
攻撃してくる気配は今のところはない。何となく正体は掴めたが、相手は別に潮の味方ではない。殺されたりはしないだろうが、信用のない妖怪相手に絶対という言葉はないのだ。ましてや潮は余所者である。出方を窺うにも動けない、見えないのではあまりに無力だった。
(なぁ、せめてあんたの顔が見たい)
一瞬、耳元に寄せられた鼻先が匂いを嗅ぐようにスンッと鳴った。それから地鳴りのようなけたたましい笑い声が響いた。
『ワッパ、お前なかなか可愛げがあるじゃねぇか』
その言葉と共にパッと目が開く。身体の自由と共に顔を上げると、目の前には巨大な岩のような大きさの犬神が悠然と佇んでいた。白銀も大きいとは思っていたが、これはまた別格である。潮の狭いアパートなら完全に入りきらないだろう。何もかも燃やし尽くすかのような真紅の毛は美しく、薄暗い洞窟のような場所でユラユラ揺らめいている蝋燭の灯りの中神秘的ですらあった。
声が出ることに気づいた潮はすぐさま立ち上がって距離をとると、露悪的に笑う大犬神を見上げた。
「ここはあんたの領域内か?」
『まあ、近いもんだな。面白い気配があると思ってちょっと見てみたら可愛らしいお嬢ちゃんがいるじゃねえか。俺の身体は犬塚の地下洞窟にある岩の中から出られねえんでね、精神だけ呼ぼうと思ったらたまたまお前の夢と繋がっちまったって訳さ』
巨体に違わぬ大声が降ってくる。
「オレがお嬢ちゃんに見えるなんて、大犬神様とやらは目が悪いのか」
『っ! アハハハハハハハ! お前綺麗な面してるわりに気が強ぇな! 気が強い美人は嫌いじゃあねぇぜ』
呵呵大笑が最早大砲である。顔を顰める潮に気づいた大犬神は、器用に口角を上げると一瞬強い光が彼を包んだ。そして次の瞬間には鍛えぬかれた巨躯を持つ真紅の髪の男が立っていた。浅黒い肌の野性的な顔立ちの男は潮の前まで来ると身を屈め、その顔を覗き込む。
『だがな、口は災いの元だぜ。可愛げのねぇ口を叩いて、俺に八つ裂きにされるとは思わねぇのか?』
ビリビリとしたプレッシャーが身体中にのしかかる。
ふざけたような口調で露悪的に笑う男だが、大妖怪の力は本物だった。かつてない緊張感に自分が目の前の大犬神に畏れを抱いていることに気づいた潮は、この化け物を本当に齢十の汐緒が降したのかと内心驚嘆した。
男の指先が戯れるように顎を擽るのを払いのけながら、乾いた唇を舌で湿らせながら睨み付ける。
「やるならとっくにやってただろ」
男は器用に片眉を上げると、意外にも楽しそうに笑った。薄暗い空間にクツクツと笑う声が反響する。
『いいなぁーお前、胆力もあって気が強くて面も良い。最高に俺好みだ。オマケに随分荒けねぇモン飼ってやがる』
指先が潮の腹をトンっと叩く。長い爪が愛撫するかのように下から上に辿るのを見下ろしながら、もし男が少しでも指先に力をこめれば容易に自分の腹など裂いてしまえそうだと項に汗が滲んだ。
『これ辛ぇだろ、よくここまで馴染ませたもんだな』
グッと腰を掴まれ、乱暴に引き寄せられた。巨大な掌が確かめるように腹部を押す。
『普通なら死んでるな、ハハっ中で威嚇してやがる。俺すら喰おうってか、随分見境がねぇな』
「離せ」
『怒るなよ、あの可愛げのねえ坊主が懐いてるお前に興味があるんだ。……少しだけ楽しませろよ』
獣の虹彩の目が、甚振るように光った。生暖かい息が耳元にかけられ、まるで餌の味見でするかのような愉悦と剣呑さがあった。
「それ以上潮さんに触るな、殺すぞ」
突然背後で声がしたかと思うと、グッと腕を引っ張られた。存外男の腕は簡単に離れ、気づくと青筋を立てた汐緒の腕の中にいた。
『お前、無理矢理入ってきやがったのか』
「犬神を顕現させられる人間には繋がりができる、忘れたか」
『だからって普通はやらねぇし、できねぇんだよ。本当規格外な小僧だな、てめぇはよ』
「黙れ。そもそも潮さんを無理矢理連れ出してどういうつもりだ虚」
珍しく乱暴な口調と厳しい表情に思わず目を見張る。
『おーおー嫉妬に駆られた男ってのはみっともねぇしおっかねぇな。悋気に狂って愛らしいのは女だけだぜ』
背後で汐緒が怒気を孕む気配が強まった。いつの間にか隣にいた白銀に、虚と呼ばれた男は鼻で笑う。
『主がガキだと苦労すんな、白銀。俺のテリトリーに入るなんざ、お前にしてみたら恐怖でしかないだろうに』
『虚様、恐れながらお戯れが過ぎるかと』
少し低い女性の声が耳朶を打つ。楚々とした佇まいで、いつの間にか白銀が人の形をとっていた。真っ白い肌にキラキラと輝く白銀の髪は美しく、思わず人ならざるその美貌に目が囚われた。
なるほど、白銀は女性だったのか。
「潮さんに二度と手を出すな」
『はあ? 俺に命令すんなよ、主でもないくせに。その坊主は面白いからな、俺の嫁にする』
グルルと頭上で犬の唸り声がした。見上げると汐緒の口元から鋭い牙が覗いていた。とろりとした蜂蜜のような琥珀色の瞳の虹彩は獣の形を成して、気配が変化していく。
「おい、汐緒っ」
「潮さんは後ろに下がってください。こいつをボコったらすぐ元の世界に戻れますから」
『はっ、俺をボコるだって? 随分舐めた口利くじゃねえか』
「畜生の脳ミソだから忘れてるかもしれないけど、お前一度俺に負けてるだろ」
調伏の件を出された虚の表情が剣呑なものになる。
『契約上全盛期の頃より半分の力しか出せねぇんだよ』「いつまで若いつもりでいるんだ? 全盛期の力なんてもうないだろ、言い訳がましい奴だな」
ヒクッと虚の口元が引き攣った。真顔と悪辣な表情が相まみえ、両者が歯を剥き出しにする。その形相はまさしく獣だった。
「おい汐緒、やめろっ」
腕を掴んで止めるが彼は潮の声など聞こえていないのか振り向きもしない。
「来い白銀」
『……はい、主様』
白銀の身体が蜻蛉のように揺らめき、汐緒の身体に重なるように溶けていく。
『やる気満々じゃねえか、制御も出来ねえくせに』
虚の身体も元の姿に戻ろうとし──。
「やめろっつってんだろこのボケカスっ!!」
汐緒の前に躍り出た勢いで彼の頬に乾いた破裂音が炸裂させた。
「……え?」
叩かれた頬を押さえる汐緒の口から、呆然とした声が溢れる。何が起こったか理解できないでいる彼は、不思議そうに目を瞬かせた。突然のことに驚いたのか、白銀との同調が途切れ、一人と一体は元の姿へと戻った。
『えげつない張り手だったな』
興が削がれたのか人型のままで虚が呟く。その表情はどこか汐緒に同情的だ。
「人の話は聞けよ。お前ら耳がないわけ? それともいらないの? だったら今すぐ耳引きちぎるけど」
「痛いです……」
「叩いたからな、んで、頭は冷えたかよ?」
悄然とした様子で頷く汐緒から視線を外して、つまらなさそうにしている虚を睨み付ける。
「悪のりしすぎだぞジジイ」
態度は横柄で悪辣だが、多分虚には敵意がない。わざと汐緒をからかって遊んでいるのだろう、性格の悪い男だ。
『潮様』
背後でポンっと白銀から肩を叩かれた。助けにきてもらっておいて叩いたのは流石にまずかったかと振り向けば、彼女は無表情のまま親指をサムズアップさせていた。
『ぐっじょぶです、わたくしでは虚様と主様をお止めすることはできないので』
真顔とのギャップに風邪を引きそうになりながら、彼女も苦労しているなと同情する。
「もう十分遊んだろ、俺たちをとっとと元の世界に返せ」
『まだ遊び足りないと言ったら?』
「若者にちょかいかけすぎるとガチで嫌われるぞ。孫にしつこくしすぎて嫌われる年寄りみたいなムーヴかましやがって、巻き込まれたこっちが迷惑だわ」
『お前、口が悪すぎるな』
「チャームポイントだ」
肩を竦めた男は今のところ満足したのか、指先を空に向けた。背後で空間が現れる。あれはどうやら要の部屋のようだ。
『そっから帰れるぜ』
「早く戻りましょ、潮さん」
もう用はないと踵を返す汐緒に手を掴まれグイグイ引っ張られながら歩いていると、ふいに虚に呼び止められた。まだ何かあるのかとうんざりして顔だけ向ければ、何かがポンッと投げ渡された。
慌てて掴みとると、それは紅い腕輪だった。
「何ですかそれ。潮さん捨ててください」
『捨てんなよ、可愛くねぇな。せっかく俺がお守りをくれてやったってのに』
「何だこれ」
『俺の毛を編んだ腕輪だ。もしどうにも困ったらこれを投げてこう言え。お前の願いを叶えてやるって』
訝しむ潮に手をヒラヒラと振った虚は、柔らかく目を細めた。
『大事にしろよ、それも仔犬も役に立つぜ』
本人に直接言わないのは、ヘソ曲がりというか天の邪鬼というか。
汐緒は毛嫌いされていると言っていたが、これはまったくなんというか、可笑しい気分になって思わず笑ってしまう。
その後普通に目を覚ますと、異変を感じとっていた輝良たちに囲まれていた。要は虚の気配を感じて心配そうにしていたが、問題ないと手を振る。
ただ機嫌を損ねた汐緒をあやすのは面倒だったが、助けにきてもらった手前潮なりに優しさを見せながら、ポケットにしまった腕輪をそっと握った。
やり方はあれにせよ犬はやはり忠誠心に厚いのだなと思いながら、今も地下洞窟で眠っているであろう一体の犬神を脳裏に描いた。




