インガメは水甕の中で手を伸ばす⑦
一瞬重苦しい沈黙がその場におりた。
珍しく厳しい表情を浮かべた汐緒が、何か思案するように自らの顎に触れる。
「野良の犬神か……」
「野良って、ふふ、まあ、語弊がありますが、犬塚の眷属ではない犬神も、勿論いますからね」
潮の言い方が面白かったのか少しだけ表情を緩めた彼は、しかし困りましたね、と呟いた。
「犬神のことはお前らが一番詳しいんだろ? 犬神が相手だとそんなに厄介なのか?」
「……そうですね。基本、憑きモノ筋の類いは祓うのに手順や順序があります。そして祓う場合、憑かれた人間の魂が消耗します。なので長く憑かれ侵度が深ければ深いほど、憑かれた人間は祓う瞬間とんでもない苦痛を伴うんです。結果身体も魂も衰弱が激しい場合、そのまま人間側がもたず亡くなるケースもあります」
「普通の動物霊や妖怪とは違うのか?」
「そうですね、動物霊ならただ肉の器に憑くだけなので他の霊的存在と対処は変わりませんが、憑きモノ筋──つまり血筋に憑くので共鳴や同調する力が違うんです。血筋はその身体が朽ちても次の代に繋がれる、だから憑きモノ筋の人間が子孫を残すとその子孫にも憑きます。それは他の犬神だろうが犬塚の犬神だろうが同じだし、他の獣の憑きモノ筋の家系も一緒です」
違う点は祓い屋の家は契約をもって憑いているが、普通の人間はただ取り憑いて喰い殺すためだけに憑くということだ。なんの縛りもない妖怪にとって、人間はただの餌袋にしかすぎない。子孫を残すまで殺さない獣もいれば、子孫を残す前に喰い殺し、他の人間の血筋に憑く獣もいる。
「基本的に犬塚の本家があるこの土地ではフリーの犬神は悪さをしないんですが」
「それは始まりの大犬神ってのがいるからか?」
「そうですね。畏れを持って心酔している犬神も少なくないみたいで、基本的に犬塚に憑かなかった犬神たちもこの土地に足を踏み入れないことが暗黙のルールになってるみたいです。それに、今では犬神も昔より数を減らしている上、犬塚の犬神と争うのを避けるために人里から離れた所で静かに暮らしている犬神も多いんです」
汐緒自体、他の犬神が人間に憑いたという事例は片手で数えるほどにしか知らないという。
「でも元々の在り方が人を怨み、喰い殺す妖怪なので性が抑えられなくなった可能性もありますね」
鎮魂され、慰撫された犬塚の犬神とは違って、普通の犬神はこの世に生み堕とされた手段に激しい怨みを抱いている。けして消えない怨念の炎は存在の在り方となり、理由となった。
他の獣憑きよりも、犬神に憑かれる方が何倍も厄介なのである。憑きモノ筋で血筋の者を祟り、命を奪うことも珍しくない厄介な性質を持っているのは犬神だけなのだ。
「これは、父さんに話を通さないことには……」
「ダメっ!」
「慎二、これはもうお前だけの問題じゃないんだ。それにこれ以上放置してたら、最悪本当に手遅れになるよ」
「……でも」
「……なあ、お前まだなんか言ってねぇことあるだろ」
「え?」
潮の言葉に、慎二は一瞬ハッとしたような顔をした。うろうろと彷徨う目をじっと見つめると、彼はしきりに唇を舐める。
「お前はダチに犬神のことバレたくないんだろ」
「う、うん」
「バレるくらいならダチが死んでもいいと思ってる?」
「なっ、そんなこと思う訳ないだろ!!」
瞬時に顔を真っ赤にして怒る慎二に無感情に相槌を打ちながら頬杖をつく。
「だったら助ける手段があんのに何で使わねぇの? ダチをどうしても助けてぇなら、手段なんか選んでらんねぇだろ」
ほぼ初対面の潮に必死に頼みこむ姿からは、彼が本当に友人のことを救いたいのだという気持ちが窺い知れる。しかしそれとは裏腹に、いくらバレたくないとは言え普段から一緒にいる身内にけして相談せず、昨日今日会ったばかりの潮だけに助けを固執する姿にはどうも違和感があった。
「全部言えよ。お前が腹割って話さなきゃ、オレも手を貸すかどうか決まりかねる」
「……言ったら、言ったら助けてくれる?」
「わかった」
「潮さん!」
「お前はちょっと黙ってろ。これはオレにきた依頼だ」
首を突っ込む気などなかったのに、どうしてか必死に助けの手を求めている子供を目の前にすると、いつの間にか口が勝手にそう答えていた。
自分でも愚かだなと思いながら頭を掻く。
「……あいつに言われたんだ」
「あいつ?」
「幹也に憑いてる犬神。あいつが、もし他の犬神憑きの人間に自分のことを話したら、幹也を喰い殺すって」
ただ取り憑いているのではなく、あくまで犬塚が治める土地だと理解し、あまつさえ犬神憑きの人間を脅すとは、あまりにたちが悪い。
「喧嘩売ってんのかなんなのか、随分性格が悪い奴だな」
「ええ、同感です。犬塚の土地でバレない訳がないのに、いっそバレてもいいとすら思ってるからわざとそう言ったのかもしれませんね」
バレないために脅すならば、そもそも犬塚の土地で悪さはしない筈だ。幹也に憑いている犬神は犬塚の家を畏れてはいない。ただそこには、愉悦に満ちた悪意すら窺えた。
「慎二、お前の親戚はこう見えてなかなかやるぞ」
「汐緒兄ちゃんが強いのは知ってるよ」
強いとは言葉にせずボカシて言ったのにあっさり頷かれて面白くない。何となく納得いかない気持ちで黙れば、慎二は続けた。
「……でもあいつ、多分凄く強いよ」
何かに気づいたのか、汐緒がハッとしたような顔をした。
「慎二、もしかして……」
「うん、そいつ、人型だった」
──人型。
それはつまり、永い年月を生きた強く古い妖怪ということだ。妖力が強い妖怪の中には実体を持ち、視えない人間にも視認させることができるが、あくまで実体とは言葉遊びのようなもので、霊力のない人間からすれば妖怪などは影のようなものだ。だから触れない、視えない。しかしあちらからは障れるし、見える。祟りや呪いを持って人ならざるモノたちは人間を害するし、基本的にはその手段でしか自らを認識できない者に関われる手立てがないともいえる。
しかし肉の器を得た強い妖怪は、その姿をいつでも好きなように視せることが可能になる。視ることは知ることと同義であり、認識することに繋がる。繋がりは糸になり、縁となる。
認識し、畏れを持たれた妖怪はますます力を増すのだ。これは妖怪だけではなく都市伝説や霊的存在も同じである。
影響力の差はあれど、個としてそこに在ると認識されなければ、それらはただの影なのだ。
とはいえ、実体がある程度ならばまだそれほど脅威ではない。一番厄介なのは、今慎二が言ったように人の形を真似ることができる妖怪だ。
力が強ければ強いほど、奴らは擬態が上手くなる。
八ツ森家の妖怪たちが良い例だ。まあ彼らは人間に害を及ぼさないばかりか、人間に紛れて働いているので特殊ではあるが、ニートよりマトモな生き方をしている。
「人型とはまた厄介だな」
「オレも人型のは初めて視た。……それに、あんな犬神は初めて視たよ。人間なんか大っ嫌いで、ただのオモチャとしか見てない。初めて犬神のこと怖いって思った」
確かにパッと見た限りだと犬カフェにでもいるかのような昨日の光景を思い出す。犬塚家の犬神たちは信頼関係を築いた上での触れあいだから、本来の性を丸出しにした犬神を視るのは衝撃的だっただろう。
「犬塚にも人型とれる奴いんだろ?」
「確かにいますが、人型をとること自体緊急時以外ではしないので、慎二は視たことありませんね。それに、うちでも人型をとれる犬神はそう多くありません」
いよいよ汐緒の表情が厳しいものになった。
「それほど強い犬神なら、通常の手段で完全には祓えるかどうか……」
そうなれば最終的に犬神同士の血で血を洗う戦いになる上、多分憑かれている宿主がもたないだろう。
「やっぱオレが適任か」
「でも、潮さん」
「ごちゃごちゃ言ってる内にこいつのダチ死ぬぞ。お前が祝詞で引き離してる内に、オレの能力でなんとかするのが一番簡単だ」
混ざっている訳ではないのなら、隙を突いて喰らえばいいだけだ。そう難しい話ではない。
「オレの仕事だ、当主には話を通す必要もねぇ。こいつの懸念はこれで全部失くなる」
「潮くん、いいの?! お金ならちゃんと払うよ!」
「ばあか、ガキから金なんかとるかよ、ナメんな」
鼻をムギュッと摘まめば、慎二は鼻を押さえながら目を見開いた。
「え、でも」
「その代わり後でこの辺で甘いもんが美味い店でも教えろ。報酬はそれでいい」
「潮くんっ、ありがとう!」
「ぐえっ、デカイ図体で抱きつくな」
細いとはいえ自分よりも大きな子供は一切の力加減もせず、潮の頬にもちもちとしたその頬を擦り寄せてくる。
「貴方って人は、お人好しなんですから」
「生まれて初めて言われたわ」
引き離すのに苦戦している潮から猫の子でも持ち上げるようにヒョイっと慎二を引き離した汐緒は、呆れたようにため息を吐いた。
「それに、俺も結局は一緒に行くんですね」
「お前はオレの助手だろ」
「助手じゃなくてニコイチって言ってください。コンビでしょ」
コンビだと認めた訳ではないが、どこか拗ねたような雰囲気を漂わせる彼が面白くて唇を吊り上げる。
「何だよ、ついて来ないのか?」
「いいえ? お供しますよ」
乾いた汐緒の手が悪戯をするように潮の唇に触れる。
それを見ていた慎二が、先ほどとはうって変わって晴れやかな表情で無邪気に言った。
「兄ちゃんたちって、めっちゃ仲良しなんだね!!」
オレも混ぜてと抱きついてくる体温の高い子供に、潮たちは苦笑しながらされるがままになるのだった。




