インガメは水甕の中で手を伸ばす⑤
何だか良い夢を見ていたような気がする。スッキリとした目覚めの中、大きく伸びを一つしてから壁かけの時計を見やると、時刻は朝の六時半だった。この時間に目覚めること自体稀である。
早く起きすぎたかと思いながら着替えて目覚めの一服をしに喫煙所まで向かう。少し遠いのが難点だが、まあ今朝は気分が良いから良いとしよう。
朝はまだ冷える。白く霞む息を吐きながら喫煙所に入ると、暖房が効いていてホッと吐息をついた。
「お、潮くん、あけましておめでとう! 君も寝起きの一服ばい?」
「うっす」
朝から元気な男である。
びしりと身支度を整えた泰三は、カラッと笑った。
「もう少しで朝食だから丁度良い時間に来たな」
自分ではとんでもない早起きのつもりだったが、ここではそうではないようだ。田舎の朝が早いのか、潮の朝の活動が遅いだけなのかどっちだろうか。
「……ところで、汐緒から何故犬狩の姓を名乗っていたか、理由は聞いたかな?」
「あぁ。昔に何があったかも聞いた」
ゆっくり煙を吐き出しながら、泰三は息を吐き出すように「そうか……」と頷いた。それは憂いの念をため息と共に下ろすような仕草でもあり、安堵の脱力にも見えた。
「汐緒は君に懐いとるようだね」
「さぁ、どうだろうな」
泰三は潮の言葉に笑うと、それから眦を下げたままこちらを見つめた。
「やっぱり君に預けて正解だったばい。あの子は強いばってん、それ故甘え下手なところがあるばい。でも君にならあの子も素直に甘えられるみたいだ、だんだんねー」
「だ、だんだん?」
「あぁ、すまんすまん。ありがとうって意味ばい」
二本目を吸いながら、潮は言葉に詰まった。本人ではないのに何故感謝の意を示すのか、親兄弟のいない潮にはよくわからなかった。
「別に」
こちらを見つめる泰三の眼差しに居心地が悪くなる。その目に浮かぶ感情を、潮は理解できない。彼は何故か懐かしむように目を細め、それから言った。
「潮くんは良い子に育ったごたあね」
「……は? あんたとは昨日が初めて会った筈だが」
仕事現場で彼に会ったこともない。なのに何故そんな風に懐かしむように言うのかわからなかった。怪訝な顔をする潮に、泰三は頷く。
「そうだな、会ったのは昨日が初めてばい。でも、俺は一度だけ君を見たことがある……あの、凄惨な小屋の中で」
──凄惨な小屋。
汚物と吐瀉物と死体と血に染まったあの場所。一瞬だけ過去の記憶が臭いすら纏って脳を揺さぶった。呼吸するのを忘れ、瞼が痙攣するのを感じながら、やがて潮は脳裏の裏に刻まれた光景を払拭するように一度目を強く閉じてからふっと息を吐いた。
「──あんた、あの時いたのか」
泰三は痛ましいものでも見るかのようにギュッと眉間を寄せた。
「そうばい。君が発見されたあの日、俺はあの小屋にいた」
当時保護された時の記憶は定かではない。何人かの大人たちがいたことはぼんやりと覚えてはいるが、まさか彼もいたとは。まあ、当主ほどの立場の者ならあの事件のことを知っていても可笑しくはないが、現場にいたとは思ってもいなかった。
「本当は君の面倒は俺が見ようとしてたんだ。だが、昔の君は今ほど力の制御ができず、漏れ出た力に他の犬神たちがどう反応するかわからないからと奥螺くんにならん言われてしまって」
まあそれはそうだろうなと思う。そもそも潮の力の根源は呪いだ。蠱毒とは代表的な呪術の一つだ。強い虫や小動物、毒のある蛇やサソリなどを狭い壺に閉じ込め喰い合わせて生き残った最も強力な毒を持つものを呪術に使う。蠱毒腹も作り方は一緒だ。ただその中に人間を混ぜただけにすぎない。
「逆によく俺に汐緒預けたな。オレの力は蠱術みたいなもんだぞ」
後天的な得体の知れない力を持つ男に、よく大事な息子を預けたものだ。
泰三は潮の言葉に苦笑した。
「それを言うなら、元々犬神の始まりも蠱術ばい。犬塚の成り立ちは多少違うが、大抵の憑きモノ筋の家系はその流れを組んでいる。今は呪い屋だけが使うばってん、昔は祓い屋も呪いや呪術を使用していたからな。俺は君の能力については何も思っとらんよ。……それに、君の人となりは奥螺くんから聞いてたからな」
「皮肉屋の人間嫌いってか?」
「ハハハハハっ!」
否定せず大量の煙を吐き出しながら男は快活に笑った。
「君にあの子を預けて、本当に良かったばい」
男の目に宿るのは、親の慈愛だった。
くしゃくしゃと目元を崩して笑う顔は、汐緒によく似ていた。
※※※※※※※※※※※※※
犬塚家の朝食は昨日に違わず豪勢だった。朝からこんなに食べるのかと汐緒を見て、確かにこの食生活ならよく育つだろうなと納得する。
体質の特性上潮もよく食べるので、朝から大分満足感を得られた。輝良はあまり食べる方ではないのか、皿を空にしていく潮を見て「細いのによく食べるな」と引き攣った表情を浮かべていた。
満腹感で眠気を感じながら、一服したら一眠りでもするかと汐緒と廊下に出た頃、後ろから控えめな声がかけられた。振り向くと背の高い少年が深刻な顔で俯いていた。
「慎二? どうしたの?」
汐緒より少しだけ背の低い彼はもじもじと手を弄りながら、チラチラと潮の様子を窺うように目線を彷徨わせた。それを見て自分がいたら話せない内容かと思い先に行こうとするが、慎二自ら潮の袖を引っ張って止めた。
「待って! ……あの、潮くんに相談したいことがあって」
「俺じゃダメな話?」
汐緒と顔を見合わせて怪訝な顔をすれば、彼は声変わりが終わっていない高い声でうんと頷いた。
「何だ、相談って。昨日今日会ったオレより、親戚の汐緒のがいいだろ」
「ダメっ! ……だって、汐緒兄ちゃんは本家の人だし、依頼になっちゃうし、大事にしたくないもん」
酷く幼い話し方をする少年だなと思いながら、袖を掴む手を振り払おうとして、彼の目に涙が浮かんでいることに気づいて手を止めた。
「大事にしたくないって、一体どうしたの慎二。何かやらかした?」
「……違う。とにかく潮くんにだけ相談したい」
袖を掴む手にぎゅうっと力がこもるのを見ていた汐緒が、真面目な顔で慎二の顔を覗きこんだ。
「依頼になっちゃうってことは怪異案件だよね? だとしたら潮さんだけに相談するのはダメだよ。潮さんも祓い屋なんだから、色々話を通したり順序ってものがあるからね」
「……でも、オレバレたくない」
「慎二……」
むうっと唇を尖らせて泣く寸前の彼を見て、潮は思わずため息を吐いた。頭を掻きながら、袖を掴む慎二の手を振り払う。
あっ、という顔をする慎二に背中を向けて歩きながら声をかける。
「とりあえず煙草吸ってからなら話は聞いてやる」
「いいんですか、潮さん」
「話を聞くだけな」
潮の言葉に慌てて慎二が駆け寄ってくる。ギュッと手を繋いでくる慎二にギョッとして手を振り払うと、彼は悲しそうに眉を下げた。
汐緒も距離感が可笑しいが、慎二はもっと可笑しい。
「慎二、潮さん困ってるよ。……すいません潮さん、慎二はまだ子供だから、つい甘えてしまうんです」
「いや、子供って」
「まだ小学生なんで大目に見てやってください」
「は……?! 小学生!?」
聞き間違いかと思い隣の慎二を見れば、彼はきょとんと潮を見下ろした。
どおりで幼い話し方をする訳である。
潮は自分よりもだいぶ育っている小学生を見上げながら、やはり食べ物が成育に影響する力は絶大なのだとしみじみと痛感するのだった。




