インガメは水甕の中で手を伸ばす④
汐緒が犬神を顕現させてから二回目の冬に、母親である芹夏が誘拐された。その日は月もない真っ暗な夜で、珍しく身も凍えるような寒い冬の日だった。その日汐緒は珍しく体調を崩していた。父親と一番上の兄は仕事で家を空けていて、輝良は部屋で眠っていた。
「今でこそ元気ですが、母は俺を産んだ後体調を崩しがちになり、その日も自分だって微熱があったのに俺につきっききりで面倒を見てくれていました」
熱で朦朧とする中、それは起こった。
遠縁の親戚の男が芹夏を拐ったのだ。男は芹夏よりも十以上年上の男で、一族の医者の一人でもあった。芹夏のかかりつけ医でもあった男は、体調の悪い二人を好機とばかりに襲い、芹夏を外に連れ出した。高熱で意識が朦朧としていた汐緒はなす術もなく、気づいた時には荒らされた部屋と殴られた跡が顔に残る汐緒を心配そうな顔で見つめる家族の顔が目の前にあった。
汐緒が気絶する前に輝良が異変に気づいて駆けつけたが、その時には芹夏は連れ去られた後だった。
意識を取り戻した汐緒が事情を説明し、すぐさま捜索にあたったおかげか、芹夏はすぐに発見された。しかし男は逆上し、芹夏と無理心中をしようとしたのだ。
男の言い分はこうだ。
一族の中でも霊力が低く、視える力も薄ぼんやりとしかなかった男は昔から冷遇されていたという。しかし分家の幼い芹夏だけは優しくしてくれた。きっと彼女は自分のことが好きなのだ。だが彼女は霊力の強い本家の男に嫁ぐことになり、引き離されてしまった。
「母からしてみれば、たまに家にくる遠縁の医者という認識しかなかったそうです」
男の勘違いの妄想は、しかし彼の中では真実になっていた。本来結ばれる筈の自分と一緒にならなかったから、芹夏は汐緒という名の化け物を産む羽目になり、健康を害したのだ。運命をねじ曲げたからだと。
「今でもあの男の、呪詛が籠った言葉と血走った目は忘れられません」
そして、気づいた時には男は死にかけていた。泰三と他の犬神憑きの人間が止めようとしたが、歴代二番目に強い犬神に勝てる訳もなく、そして汐緒は初代当主しかできないでいた犬神と融合するという荒業もやってのけたのだ。冷静さを欠いた中、力を抑制できる筈もなく、凶行は家族にまで向いた。
死人が出なかったのはたまたまだ。泰三は二ヶ月入院し、止めに入った親戚も軽症とは言えなかった。
男は死にこそしなかったが錯乱したまま、精神が壊れてしまったらしい。その後男がどうなったかは知らない。
「家族や分家の人たちは俺のせいじゃないって言ってくれましたが、そんなの嘘ですよ。俺はあの時力を制御できませんでした。誰よりも強い人間が理性を失くしたら、誰だって怖い筈です。遠縁の人間が俺を化け物だ狂犬だと怖がる方が自然です。誰だって制御できない化け物を当主にはしたくない。だから俺は一族たちへのアピールも込めて犬狩の名前を名乗ってたんです」
汐緒自身、強いことにマイナスの感情はない。だからこそ弱い人間の下で働きたくなかった訳だし、自分を飼い慣らして屈服させられる相手でなければ満足できないでいた。
自分より強い相手に膝を折るなら、それこそ汐緒にとって僥倖なのである。
弱い人間が悪い。しかし、強すぎる自分もまた、悪い。犬塚の人間は基本的に相手を責めない。他人に寄り添う彼らは、汐緒の凶行を否定しないのだ。
まるで真綿の地獄だと思うのは、やはり汐緒が一族の中で異端だという証なのだろう。
嫌いな訳ではないが、いつもどこか息苦しい。
ただ二度と失態を犯さないために、汐緒は犬神に対しても冷静に対応するようにした。彼らを家族とする一族にとっては、道具と割りきって犬神を顧みない汐緒の態度には思うところがあるようだったが、やり方を変えるつもりはこれからもない。
感情を荒らげたりせず、いつでも、誰にでも、何にでも一定の態度でいられるように。
一族の中で一番強い人間だから。
誰も自分を屈服させることはできないから。
「家から一時期離れてたってのは、それがあったからか?」
黙って話を聞いていた潮が静かに聞いてきた。彼は一瞬真顔になったかと思うと、ヘンッと口を曲げた。顔文字でしか見たことのない表情に目を瞬かせていると、彼は指先を鼻先に向けてくる。
「いや、お前悪くなくね? 当主たちの言ってること間違ってねぇよ」
「いや、でも俺は力を制御できなくて」
「いや、ガキなんだからしゃーねーだろ。しかも母親殺されかけてんだろ、むしろ殺さなかったの偉いじゃん。俺なら悪意と殺意には同じの返すね。100%俺なら殺してた」
あっけらかんとそう言った彼に呆気にとられていると、潮は不可解なものでも見る顔をした。
「お前さ、何で自分が悪いみたいに思ってんの?」
ぎゅむっと鼻をつままれる。
「いいか? お前はただの被害者。妄想クソヤローが勝手に騒ぎを起こしただけで、お前何も悪くないじゃん。自分や家族に刃を向けてくる相手に、何で温情なんかくれてやるんだよ。殺意を持って向かってくる相手に気なんて使えるかよ、聖母様じゃあるまいし。強いとか弱いとかそんなの関係ねぇ、いいか、お前は悪くない。むしろ偉い」
白い腕が乱雑に頭を撫で回す。体温の低い身体が、温泉のおかげかポカポカしていて、くっつくと温かくて気持ちが良かった。
「お前って難儀な奴だな。相手が全部悪いのに変な罪悪感抱くとか、ま、そういうとこがやっぱ犬神の人間なんだろうな。俺ならテメーが全部悪いで切り捨てて終わりだし」
「それ、遠回しに偽善者って言ってます?」
「煩いな、偉いって褒めてんだからそれでいいだろ」
ぶつくさ言いながら撫でる手を止めた潮の華奢な身体を汐緒はギュウっと抱き寄せた。
「おい、何だよキメーな。暑苦しいし」
「もう少しだけ、もう少しだけこうしててもいいですか」
どうしてだろうか、彼の隣はいつも呼吸がしやすい。ぶっきらぼうな優しさは、いつだって汐緒を甘やかす。
彼は覚えていないだろうが、あの時だって──。
「貴方は、本当に変わらないですね」
「あ? 何か言ったか?」
「何でもないです」
もしあの日の顔合わせが初めての出会いではないと言ったら、彼は驚くだろうか。
貴方の力のことを最初から知っていたと話したら、彼はいったいどんな顔をするのだろう。
救うつもりも救ったつもりもないだろうけれど、あの日確かに幼い狂犬は暗闇の中から引き上げられたのだ。
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夢を見た。小さい仔犬が暴れている夢だ。周囲の人間は狼狽えるばかりで、仔犬に近づくこともできないでいた。潮はただ呆れた。何をこんな小さな仔犬に怯えているのか。きゃんきゃんきゃんと吠える仔犬の方こそ、怖がっているというのに。
静かに近づいて見下ろすと、仔犬は鼻に皺を寄せ歯を剥き出しにした。
「ハハッ、いっちょ前に歯剥いてやがる」
仔犬の足元には小さな小動物が血まみれで力なく地に伏している。
潮の視線に気づいた仔犬は獲られまいとするように勢いよく飛びかかってきたが、仔犬の歯が潮に届く前に首根っこを掴んで持ち上げた。そのまま鼻先にデコピンを喰らわすと仔犬はキャンっと甲高い鳴き声を漏らした。
仔犬が怯んだ隙に背中側から抱き上げる。指を噛まれたがそのまま好きなようにさせ、軽く腰元をポンポン叩きながらユラユラ揺れていると、仔犬は次第に落ち着きを取り戻した。
人間には真似できない首の可動域でこちらを見上げてくる仔犬の視線に気づき、口元を綻ばせる。
「お前、お日さまの匂いがすんな」
高い体温は湯たんぽのようで、小さな頭に鼻先を寄せながら匂いを嗅ぐ。
「お前、屈服させられたいんじゃなくて、ただ、止めてほしかっただけなんだよな」
甘えるように潮の顔を舐めた仔犬は、小さく頷くようにくぅんと鳴いた。




