インガメは水甕の中で手を伸ばす①
ニコニコと笑いながら、彼女はそっとミカンを潮の前へと置いた。
「いっぱい食べてね」
「あ、はい」
第一印象は儚げな妙齢の女性だったが、彼女は見た目のたおやかさとおっとりとした雰囲気に反して意外と有無を言わさない強引さがあった。若々しい外見をしているが、彼女は汐緒の母親である。客間で潮と彼女を二人きりにして置いて行った薄情なあの大きな男を産んだとはとうてい思えないほど無邪気な顔で、彼女──芹夏は両手で頬杖をつきながらまた新たなミカンの皮を剥いた。
どうして潮が永遠に終わらないミカン地獄の中にいるのかと言うと、始まりは汐緒の「年末年始は空いてますか?」という世間話からだった。
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「は? 年末? まあ、仕事は入ってなかったと思うけど。何で?」
「だったら一緒に熊本に行きませんか?」
映画を見た帰りにいつもの喫茶店でケーキをむちゃむちゃ食べていた潮は、汐緒の言葉に手を止めた。
「熊本? 何、旅行でも行きてぇの?」
仕事以外で他県に行ったことがない潮は少しだけ、まあたまには旅行もいいかもなと思いながら食べるのを再開する。
「いえ、俺の実家なんですけど」
「実家!?」
そういえば汐緒は大学に通うために関東に部屋を借りているだけで、犬塚の本家や分家は九州にあったことを思い出す。いつだったか夕飯を家族で食べるためだけに実家に帰っていたが、今考えればよくそのためだけにわざわざ飛行機で何時間もかかる所に帰ったものだ。
「いや、何でオレが」
「母が潮さんに会いたいって凄くて。このままだとこっちに会いにきそうな勢いなんですよね」
「え、お前母親にオレのことなんて話してんの」
「可愛くて美人で優しい先輩だって話してます」
汐緒の目と意識にはどうやら分厚いフィルターがかかっているようだ。歪んだ認知に頬を引き攣らせながら思わず遠い目をする。
「お前の母親、もしかしてオレのこと女だと思ってねぇか?」
「いや、男なのは知ってますよ」
珍しくケーキを食べている汐緒を眺めながら、潮は渋面を作った。分家とはいえ名家に軽々しく足を踏み入れていい立場ではないし、そもそも名家に良い思い出がない。
「少し潮さんに話したいこともあるし、俺としては来てほしいんですがダメですか?」
「話したいこと? ここじゃダメなのか?」
そう言うと、汐緒は少しだけ困ったように微笑んだ。この場では話せないことなのか、もしくは話しにくいことなのか定かではないが、なんとなく面倒事のような気がしてならない。断ろうかと煙草に火をつけながらチラリと視線を向け、しかし捨てられた子犬のような彼の表情にうっと言葉に詰まった。
「あー……はぁ……わかった」
「本当ですか?」
こうも素直に喜ばれれば断るのも野暮というものだ。提案を受け入れられて嬉しそうにケーキを頬張る汐緒を眺めながら、柄にもなくたまには後輩の言うことをきいてやってもいいかもなと思った。
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しかしその判断が間違いだったかもしれないと居心地悪く組んだ足を入れ替える。
犬塚の本家に案内された潮は、玄関に入るなり汐緒の母親に歓迎されながら出迎えられた。
貴方が潮ちゃんね、とぎゅうっとハグをされ、目を白黒させる潮に母の芹夏ですとだけ紹介した汐緒は、少し用事を済ませてくると客間に潮と初対面の芹夏を置いてどこかへ行ってしまったのだ。おかげで潮は今気まずい思いをしながら何故かミカンをお食べ攻撃にあっている。
もうすぐ二十歳なる息子がいるようには見えない若々しい見た目の彼女をチラリと見ると、芹夏はのほほんと笑った。タレ目で優しそうな雰囲気とは裏腹にわりと強引なのには困った。柔らかな態度の人間を拒否する方が難しいのだと、今知った。右の目の下にぽつんとあるホクロを眺めながら、顔は確かに汐緒に似ているなと思う。ただパーツが大きく派手な顔立ちの汐緒とは違い、彼女はどこか儚げな雰囲気がある。深窓の令嬢とでも表現すればいいのか。
「ごめんね、今日来てもらったのは私が会いたいって言ったからよね」
「……いや、まあ。でも、何でオレに会いたいなんて」
「汐緒が初めてこの人の下なら就いてもいいって言った人だから、一度会ってみたかったの。あのこはなまじ強いから、今まで誰かの下で仕事をするなんてずっと拒否していて……わりと弱い人間を意識から排除したりしてやりづらいところもあるこだから」
強い人間以外の下では働きたくないと言っているのは知っていたが、まさか汐緒の方から潮を指名していたなんて知らなかった。いつから潮のことを知っていたのかはわからないが、最初に組まされたあれも実は決定事項の上の仕組まれていたことだったのか。
「あのこも色々あって──原因は私にもあるんだけれど、でも、今なら貴方に預けてよかったって思ってるわ」
「何を根拠に」
柔らかな芹夏の手が、優しく潮の手を握った。
「だってあのこ貴方と仕事をするようになってから、なんだかとても楽しそうなんだもの」
ふんわり微笑む彼女の目には柔らかな好意と、慈しむような色があった。我が子に向ける慈愛の目とは、こういうことを言うのだろう。
何を言えばいいのか言葉に詰まり思わず目を伏せる。
「はぁ……それにしてもたいぎゃむぞらしか」
「え?」
「顔もむぞらしかばってん、性格もむしゃんよか」
「母さん、そんな急に方言で言われたら潮さんたまがるよ」
微笑ましいものを見るような顔をしながら突然通じなくなった言葉にあっけにとられていると、いつの間にか戻ってきた汐緒が笑いながら入ってきた。
「あら、ごめんねぇ。興奮するとつい出ちゃうのよ」
照れたように笑う芹夏に汐緒が小さく笑いながら潮の隣へと座った。
「そういえば泰三さんは?」
芹夏の口から出た名前が犬塚家当主のものだったので黙って聞いているとどこかから地響きのような足音が聞こえてくる。
「あれ、確か夕方くらいじゃないと帰ってこないはずだったけど、帰ってきたね」
どうやら足音の主は当主である、犬塚泰三のもののようだ。
奥から犬塚の人間であろう老婆の声がけたたましく後を追う。
「ご当主様っ、廊下を走っちゃいかんばいあしこ言うたっちゃきまたやって!」
「あ、カズヱ」
「あ、じゃなかとよ。まんまんさんに手も合わせんで、ばちかぶっけんね!」
「そぎゃん怒らんでよかたい」
「泰三様!!」
子供のように叱られている声がここまで聞こえている。
「……怒られてね?」
「いつものことですよ。カズヱさんは犬塚の乳母というかお世話係兼料理長を務めているんで、当主様も頭が上がらないんですよ」
子供の頃からの世話役ばかりか食すら握られているならそれは頭が上がらないだろう。次第に声が小さくなっていくのを可哀想に思っていると、説教が終わったのかやがて客間の扉が静かに開かれた。
しょんぼりとした様子で室内に入ってきた筋骨隆々の大男は、こちらに気づくと萎れた野菜のようになっていた表情をパアッと輝かせながらドスドスと駆け寄ってきた。近くで見ると汐緒よりも大きい。百九十センチくらいはあるのではないだろうか。全体的に岩のような男は汐緒を勢いよく抱き締めるとこう言った。
「たいぎゃ久しぶりたい! 俺の息子は相変わらずむぞらしかね!」




