インガメは水甕の中で手を伸ばす 始まり
その時思ったことは、血の臭いとは本当に鉄臭い臭いがするんだなということだった。鉄の中に少しの生臭さが混じっているのは、人間の脂のせいだろうか。
母親が泣いている。ごめんね、と。
何であの人が泣くんだろうか。だってあの人は何も悪くない。悪いのは、貴女を拐って勘違いにも無理心中しようとした今目の前で死にかけている男なのだから。
頭の中はクリアなのに、腹の底から湧き上がるマグマのように煮えたぎっている暴風が彼の身体を自由にはしてくれない。激しい感情は霊力をもって凶器と化し、ただの暴力へと移行する。
できれば今すぐ逃げてほしかった。自分の傍から離れてほしかった。
守るための力が、彼女を傷つけようとする。
悪意悪意悪意悪意悪意悪意悪意。
泥のような悪意を突きつけられたのだ。これは仕方のないことだ。悪いのは悪意をもったあの男。視えるだけですっからかんな霊力しか持ち合わせていないくせに、子供ならばどうにかできると驕ったあの男が全て悪い。
それでも、恐怖に囚われた視線は自分に降り注ぐ。
誰かが叫ぶ。
意味なんてないのに。
弱い奴が悪い。弱いくせに、自分をどうにかしようなどとは笑わせる。
どうせ、誰にも止められない。自分で止められないのに、自分より弱い人間が束になったとして何の意味があるのか。
壊して、暴れて、彼はその内切望した。
何のために駆け付けたのか、その意味すら見失って。
全て終わった後に残ったのは、自分を屈服させるだけの力がある人間と出会いたいという感情だけだった。
そして、自覚しない内にもう一つ胸に巣くった感情は──強すぎる自分のせい、自分が一番悪いのだという内罰的な呪いだった。




