第338話 影からの招待
視線ではない。
気配だ。
人混みを抜け、石畳の通りを歩く帰路の途中──背後に、薄く貼りつくような存在感があった。一定の距離を保ち、決して踏み込んでこない。それでいて、消えることもない。
(見られている……いや、尾けられているな)
レオンは歩調を乱さず、内心だけでそう結論づける。
足音はない。呼吸も感じない。だが、完全に気配を断てているわけでもなかった。
(妙だ……そこまでの腕ではない)
敏腕の斥候や腕利きの暗殺者なら、ここまで露骨に察知されはしない。
それとも──。
(……敢えて、気付かせているのか?)
その可能性を思いついた瞬間、レオンの口元に微かな笑みが浮かぶ。試すつもりか、それとも牽制か。いずれにせよ、こちらを無力な獲物だとは思っていない。
彼は通りを外れ、わざと人目のない狭い路地へと足を向けた。石壁が近く、昼なお薄暗い裏道だ。逃げ場は少ないが、同時に誤魔化しも効かない。
(どうかな?)
一歩、二歩。
気配は──消えない。
むしろ、わずかに濃くなった。
レオンは足を止め、振り返りもせずに声を投げる。
「おい。用があるなら、さっさとしてくれ」
軽い口調だった。挑発でも威嚇でもない。ただの事実確認。
次の瞬間、空気が揺れた。
壁際の影が、音もなく剥がれ落ちるようにして形を取る。
黒いフードを目深に被った人物が、そこに立っていた。
背丈は中庸。体格も判別しづらい。何より異様なのは、その存在感の薄さだった。視界に入っているはずなのに、意識が自然と逸れてしまいそうになる。
「……失礼」
しわがれた声が響く。
作られたように平坦で、男女の区別すらつかない。
「試すような真似をしたことを、まずは謝罪しよう」
言葉遣いは丁寧だが、感情の起伏が感じられない。
レオンはようやく振り返り、相手を正面から見据えた。
「それで? 俺に何の用だ」
声には警戒の色がない。
それは油断ではなく、自信だった。いざとなれば、目の前の人物を一瞬で制圧できる──そう確信できるだけの経験と実力が、彼にはある。
「少し、話をしたいと思ってね」
相手はゆっくりと両手を上げ、害意がないことを示す。
「ああ、安心してほしい。こちらから君に危害を加えるつもりはない」
「話?」
レオンは小さく首を傾げる。
「そもそも、あんたは何者なんだ?」
沈黙が一拍置かれる。
フードの奥の視線が、じっとレオンを測っているのがわかった。
「……場所を変えたい。静かな所で話したいのだが」
相手はそう言って、路地の奥を一瞥する。
「いかがかな?」
問いかけに、レオンは一瞬たりとも迷わなかった。
「いいぞ」
即答だった。
「では、ついてきてくれ……」
黒衣の人物は踵を返し、先導するように歩き出す。足取りは静かで、周囲の闇に溶け込むようだ。
(さて……どうするかな)
レオンはその背を眺めながら、内心で思考を巡らせる。
罠の可能性は否定できない。だが、逃げる理由もない。
彼は距離を保ちつつ、ゆっくりとその後を追った。
二つの影が、路地の奥へと消えていく。
この出会いが、ただの「話」で終わらないことを──
レオンは、どこか楽しむように予感していた。
◆
「ここだ」
路地の最奥、壁と壁に挟まれるようにして建つ一軒の家。
外見だけ見れば、古びてはいるが特別目を引く点はない。裏通りに無数に並ぶ、どこにでもある住居の一つだ。
黒いフードの人物は一切の躊躇も見せず、扉を開けて中へ入った。
レオンも無言でそれに続く。
室内は簡素だった。生活感は薄く、埃の匂いもしない。使われてはいるが、長居する場所ではない──そんな印象を受ける。
相手はまっすぐ暖炉の前まで歩み寄ると、壁の一部に手をかけ、何かを確かめるように指を滑らせた。
微かな音。
次の瞬間、暖炉全体が重さを感じさせない動きで、横へと静かに滑った。
その奥に現れたのは、人一人がようやく通れるほどの狭い階段。石造りの段が、地の底へと続いている。
(面白くなってきたじゃないか)
レオンは内心でそう呟き、口元を僅かに歪めた。
黒衣の人物は何も言わず、先に階段を下り始める。
レオンも後に続いた。
数段降りたところで、背後から低い音が響く。
暖炉が元の位置に戻ったのだろう。差し込んでいた外光は完全に遮断され、周囲は一気に闇に包まれた。
代わりに、壁に埋め込まれた魔道具が淡い光を放つ。
炎色にも似たその光は頼りなく、影を歪に伸ばすだけだ。
階段を下り切り、狭い通路を進む。空気は冷たく、湿り気を帯びている。地上とは切り離された、別の世界に足を踏み入れた感覚。
やがて一枚の扉の前で足が止まった。
黒衣の人物が扉を開き、身を引く。
中へ入った瞬間、レオンはわずかに眉を動かした。
部屋は意外なほど整えられていた。
粗末だが清潔なテーブル。簡単な料理とパン、そして香りの立つワイン。──明らかに「客」を迎えるための準備だ。
そしてテーブルの向こう側には、一人の老人が腰掛けていた。
白髪交じりの髪、深く刻まれた皺。だが背筋は伸び、老衰とは程遠い。
ワイングラスを傾けながら、ゆったりとした仕草でこちらを見る。
「ようこそ、レオン君」
老人は人懐こい笑みを浮かべ、空いた席を手で示した。
「まあ、立ち話も何だ。座りたまえ」
レオンは一瞬もためらわず、椅子を引いて腰を下ろす。
警戒はしているが、萎縮はない。
「……俺の名を?」
「もちろん」
老人は肩をすくめる。
「多少は調べさせてもらったよ。商売柄ね」
レオンはワインには手を伸ばさず、老人の顔をじっと見据える。
「自己紹介が先だな」
「失礼」
老人はグラスを置き、軽く頭を下げた。
「私はアルティレス。この街で〈影の帳〉と呼ばれる情報組織の──まあ、幹部の一人だ」
「〈影の帳〉……」
レオンはその名を反芻する。
冒険者にとって、情報屋は決して縁のない存在ではない。むしろ様々な情報を得られる手段として、情報屋と馴染みになっている者が多い。
レオンはラドニアにいた時に、レティシアの知り合いの情報屋を利用したことがあり、その存在自体は知っていた。
「情報屋、か。だが、酒場で噂話を売ってる連中とは違うんだろ?」
「はは、察しがいい」
アルティレスは愉快そうに笑う。
「確かに、酒場に根を張る情報屋も我々の末端にはいる。だが──」
老人の目が、わずかに細められる。
「我々は誰とでも取引をするわけではない。もちろん金で動くこともあるぞ? 王侯貴族、商会の重役、ギルドの上層……」
アルティレスはワイングラスを指先で転がしながら、淡々と言った。
「だがね……それだけで動くほど、安い組織ではないつもりだ。気に入らなければ、どれほどの金貨を積まれても、我々は動かない」
グラスを置く音が、地下の静寂に小さく響く。
「相手の覚悟、立場、そして──どこまで踏み込む意思があるか。それを見てから、ようやく“取引相手”として認める」
アルティレスは細めた目で、レオンを正面から見据えた。
「そして時には……金でも権力でもない理由で、声をかけることもある」
一拍。
「──君のような者にな」
地下の静寂の中、魔道具の灯りが揺らめく。
その淡い光が、老人の笑みをどこか不気味に照らしていた。
ここは地上の秩序から切り離された場所。
表に出せぬ情報と、表に出ぬ者たちが集う──影の食卓だった。
◆
「理由が知りたい、そんな顔だな」
アルティレスはそう言って、口の端をわずかに吊り上げた。
余裕のある笑みだ。相手の思考の流れを読み切っている者のそれ。
老人はワイングラスを持ち上げ、ゆっくりと口に運ぶ。沈黙を挟み、場の主導権を手放さない。
「では……本題に入ろうか」
グラスを置く音が、地下室に低く響く。
「君に一つ、情報を提供しよう」
「情報? 俺に?」
「そうだ」
即答だった。
そこに含みも逡巡もない。
「なぜだ?」
「理由は後で話す。まずは情報を聞いてくれ」
レオンは一瞬だけアルティレスを見据え、それから肩をすくめた。
「……ふむ。わかった。聞こう」
「話が早くて助かる」
老人は満足そうに頷き、声を落とす。
「……ある男から我々に依頼があった。その男は、君のすべてを知りたがっている」
空気が、わずかに張り詰める。
「君の過去、現在の状況、これからの動向……可能な限り、すべてだ。しかも興味本位ではない。──いい意味ではなく、悪い意味で、だがね」
レオンは何も言わず、視線だけで先を促した。
「彼は君を“危険な存在”と見ている。正確に言えば──」
アルティレスは言葉を選ぶように、わずかに間を置く。
「──自分にとっての障害だと」
「障害……?」
「ある男とは、ガイウス」
老人はさらりと名を告げる。
「〈雷槍の牙〉のリーダーをしている男だ。これで心当たりはあるかな?」
「〈雷槍の牙〉か」
レオンは短く息を吐いた。
「ああ、Aランクパーティーの連中だな。そういえば……ギルドで妙に視線を感じてはいた」
「さすがだ」
アルティレスは愉快そうに笑う。
「こちらが教える前に、既に気付いていたか」
「あれだけ露骨に感情が表に出ていればな」
レオンは苦笑する。
「俺のことを調べて、何をするつもりかは知らんが……害がなければ、特に気にする必要もない」
「言っただろう?」
アルティレスの声音が、わずかに低くなる。
「彼は君を障害と見ている。要するに、だ」
アルティレスがレオンをじっと見つめる。
「──君は、いや。君“たち”は、彼にとって目障りなのさ」
「いずれ何か仕掛けてくる、というわけか」
「その可能性は高い。用心するに越したことはない」
アルティレスは指を組み、続ける。
「君一人ならともかく……君には、仲間がいるだろう?」
「……なるほど」
その言葉に、レオンは静かに頷いた。
仲間に害が及ぶなら──その時点で、話は別だ。レオンは決して黙ってはいないだろう。
「つまり、その情報ってのは……ガイウスについて、だな?」
「その通りだ」
アルティレスは迷いなく頷く。
「だが、一つ聞かせてほしい」
レオンの声が、低くなる。
「なぜ俺にそれを教えるんだ? ガイウスは依頼主なんだろう? これは……問題になるんじゃないのか?」
それは単なる疑問ではなかった。
情報屋の掟を知った者の、核心を突く問いだ。
通常、依頼主の存在や内容を第三者に漏らすことはない。ましてや、その対象本人に告げるなど論外。
だが今、〈影の帳〉の幹部自らが、堂々とそれを破っている。
アルティレスは、その視線を正面から受け止め、ゆっくりと頷いた。
「君の言いたいことはわかる」
表情から、軽さが消える。
「確かに、これは裏切りと呼ばれる行為だろう」
そう言ってから、口元に笑みを戻す。
「だがね……これは我々なりの“取引”なのだよ」
「取引?」
「そうだ」
アルティレスは指を組んだまま、はっきりと言い切った。
「我々は、君に情報を渡す。その代わり──君という存在を、将来にわたって観察し、必要とあらば関係を深める。つまりこれは、君に対する投資だよ」
レオンの目を、真っ直ぐに見据える。
「我々〈影の帳〉は、君を高く買っている。金でも、名声でもない。“価値ある存在”として、な」
地下室の魔道具の灯りが、静かに揺れる。
それは警告でも、施しでもない。
──選ばれた者にのみ差し出される、裏の世界からの取引だった。




