第336話 講和という名の静かな進軍
帝国軍中央庁舎、最奥に位置する大会議室。
高い天井に重厚な梁、壁面には歴代皇帝の紋章旗が整然と掲げられている。長卓を囲むように、将軍、高官、文官が居並び、室内には張り詰めた空気が満ちていた。
本日の議題はただ一つ──対聖教国戦争。
正確に言えば、皇帝の意思のもとで国内の立て直しを図るためには、どう手を打つか。
聖教国との戦争を継続すべきか、あるいは別の道を探るべきか、という重い問いであった。
卓の最奥、玉座ではないが、それに準ずる位置に座す皇帝が、静かに口を開く。
「余は、これ以上の消耗を望まぬ」
低く、しかしよく通る声だった。
「西方に兵力と資源を縛られ続ける現状は、帝国全体にとって得策ではない。ゆえに問う。聖教国との戦争を、いかに扱うべきか」
一同が息を潜める中、皇帝の視線が一人に向けられる。
「総参謀。策を述べよ」
指名を受けたクラウディア将軍は、わずかに一礼すると、席を立った。
その表情に緊張はない。いつも通り、感情を削ぎ落としたかのような冷静さだけがある。
語り終えると、クラウディアは再び席に戻る。
会議室には、重い沈黙が落ちた。
沈黙を破ったのは、若い将軍だった。
「……では、総参謀殿の見立てでは、聖教国側から講和を望み、動きを見せるのではないか、と仰るのか? それも近々に?」
向けられた視線の先で、帝国軍総参謀クラウディア将軍は背筋を伸ばしたまま、わずかに顎を引く。
「いかにも」
短く、断定的な一言。
それだけで、場の空気がわずかにざわめいた。
「なぜそうお考えか?」
若い将軍の表情には、困惑と苛立ちがないまぜになっている。
きちんと説明しろ──その不満が、ありありと浮かんでいた。
「以前より、ラドニア周辺の聖教国軍、及び聖教国内に間者を入れてある。その間者からの報告だ」
クラウディアの声音は、いつも通り抑揚がない。
「聖教国内において、厭戦感情を広めることに成功しつつある」
「厭戦感情だと? あの聖教国が、そんなに簡単に屈するとは思えん!」
若い将軍が声を荒げると、周囲からも同意するような声が上がる。
「しかり」
「情報は確かか?」
クラウディアは答えず、若い将軍を一瞥した。その冷ややかな視線に、感情は一切読み取れない。続いて一同を静かに見回す。
「……教皇と枢機卿会議に対する不満と不信。震災からの復興が進まないこと。我が国との戦争に加えて魔物の増加。様々な要因によるものだと思われるが、確かなようだ」
事務的な説明。それ以上でも以下でもない。
そして、わずかな間を置いて、彼女は続けた。
「〈聖女〉派が動き出すはずだ。そのように、情報操作を図った」
一瞬、沈黙が会議室を支配する。
──策を、既に実行している。
その事実に、何人かの将軍が息を呑んだ。
「つまり……また独断で動かれたのか!」
若い将軍が食ってかかろうとした、その時。
「誤解なさいますな」
〈灰色の眼〉諜報局長官ハルベルトの低く、乾いた声が割って入る。
「本件は、皇帝陛下の許可を得、参謀本部及び諜報局が協力した上で進められております。総参謀殿の策は、正式なものです」
淡々とした援護。それ以上の説明はない。
クラウディアは、小さく、本当に小さく息を吐いた。
「我が国は聖教国を糾弾し、戦争状態に入った。本来、こちらから講和の手を差し伸べる必要はない」
静かな声が、会議室に染み込む。
「だが、聖教国側が講和を望むのであれば──相手次第では、その可能性を否定するものではない。その図式こそが、我が国にとって必要だということだ」
「それでは……外交交渉次第、と?」
高官の問いに、彼女は即座に頷く。
「そうだ。軍部は、その舞台を整えた。西で戦争を続けるのが厳しい状況下では、外交で有利に立つしかあるまいよ」
老練な将軍や高官たちは、黙してそれを受け止める。
皇帝もまた、表情を変えない。
だが、若い将軍はなおも納得しきれない顔をしていた。
(……すべてを説明せねば、理解できぬ者が増えたか)
クラウディアは内心、小さく嘆息する。
それは、帝国軍の質が落ちている兆しではないのか──そんな一抹の落胆を、彼女は表情に出すことなく、胸の奥に押し込めた。
会議は、なおも続いていく。
既に敷かれた盤面の上で、駒が動き出していることを、理解できる者と、できぬ者とを分けながら。
会議室の空気は、次第に熱を帯びていった。
「勢いを失った今こそ、畳みかけるべきです!」
「敵が弱っているのに、なぜ手を緩める必要がある!」
声を張り上げるのは、若手の将軍や、それに近い高官たちだ。
彼らは口を揃えて言う。
今さら遠慮など不要。聖教国を完全に叩き潰し、戦争を終わらせるべきだ、と。
一方で、別の声がそれに対抗する。
「待て。東部方面の情勢を忘れたのか?」
「これ以上、西に兵力を縛り付けるのは得策ではない。講和によって戦線を整理すべきだ」
こちらは老練な将軍や、情勢分析を担う文官たち。
彼らは感情よりも配置図と補給線を見ていた。
戦争継続派と講和派。
会議は、明確に二つに割れていた。
(……焦り、か)
クラウディアは、騒がしさの中心を冷ややかな目で見据えながら、静かにそう結論づける。
(戦争が終わってしまえば、手柄を立てる機会が失われる。そうすれば、いつまでたっても私に追いつけない……)
若手の多くは、それを口には出さない。
だが、彼女には見えていた。
(仕方あるまい)
心の中で、淡々とそう思う。
(……私も、嫌われたものだ)
若い将軍や高官、文官を中心に、自分が快く思われていないことは知っている。
冷酷だ、独断専行だ、説明が足りぬ──そうした評は、耳に入らぬはずもなかった。
だが、それを気にしたことは一度もない。
感情で軍は動かない。
好悪で国家は守れない。
ふと、クラウディアは気付く。
いつの間にか、会議室に集う全員の視線が、自分に向けられていることに。
総参謀の判断を。
最後の一言を。
だが、彼女は口を開かなかった。
言うべきことは、既に言った。
軍が整えるべき舞台は整えた。
あとは外交だ。
(それは、軍人の仕事ではない)
クラウディアは、玉座の方角を一瞬だけ意識する。
(皇帝陛下も、それは承知しているはずだ)
彼女はただ、静かに座していた。
盤面を整えた者として。
その先で駒をどう動かすかを、他者に委ねる覚悟を持ったまま。
だが、クラウディアの中には、既に次の局面の静寂が訪れていた。
重苦しい沈黙が最高潮に達しかけたその時、皇帝が、ゆっくりと口を開いた。
「意見は出尽くしたか」
低く、しかしよく通る声が、会議室を一瞬で支配する。
「帝国は、総参謀の策に基づき、講和へと舵を切る」
一同は、息を吞んだ。
誰一人、すぐには言葉を発せない。
老練な将軍は目を伏せ、文官の中には安堵を滲ませる者もいる。
だが──若手の将軍や高官の表情には、明らかな不満が浮かんでいた。唇を噛み、拳を握り締める者も少なくない。
皇帝は、それらすべてを見渡した上で、なおも言葉を継ぐ。
「だが、勘違いするな。この講和は、恒久のものではない」
静まり返った会議室に、その声が落ちる。
「国内の立て直しを図る。兵力を補充し、国力を高める。その時が来れば……」
皇帝は、言葉をそこで切った。
だが、その沈黙こそが、雄弁だった。
──わかるな?
誰もが、その意味を察した。
皇帝の野心は、揺らいでいない。
帝国が全世界に覇を唱えるという、その大目標に、何一つ変わりはない。
会議室の空気が、再び張り詰める。
講和は後退ではない。
次なる戦争への、準備期間に過ぎぬのだと。
「以上だ」
皇帝の言葉を合図に、将軍、高官、文官たちは一斉に立ち上がる。
「はっ!」
揃った声とともに、敬礼。
彼らは順に会議室を去っていく。
それぞれが、異なる思いを胸に抱きながら。
クラウディアは、最後までその場に留まり、静かにその背中を見送っていた。
敷かれた盤面の先に、避けられぬ未来を見据えながら。
会議室に残ったのは、重い沈黙と、帝国の意志だけだった。
重厚な扉が閉じ、会議室に残ったのは、二人だけだった。
「──よろしいのですか?」
静寂を破ったのは、〈灰色の眼〉諜報局長官ハルベルトだった。
その視線は、去っていった若手の将軍たちの背中が消えた扉の方角を、わずかに意識している。
言葉の真意は、説明するまでもない。
彼らの不満と、今後を案じての問いだ。
「構わぬ」
クラウディアの返事は、短かった。
いつものように、切り捨てるような簡潔さ──だが、彼女は珍しく、そのまま言葉を継ぐ。
「彼らは、これからの帝国を担う立場だ。ならば、苦労させねばなるまいよ」
声音にも、表情にも、感情はない。
それは突き放しではなく、覚悟の裏返しだった。
クラウディアは肩をすくめ、ふと別のことを思い出したように言う。
「それよりも……よいのか? 私といると、貴殿まで嫌われるぞ?」
試すような、あるいは冗談めいた問い。
だが、ハルベルトは即座に答えた。
「諜報局など、元より嫌われ者ばかりですからな」
事実を述べただけの声音。
そこに卑下も自嘲もない。
「……そうか」
その返答に、クラウディアは、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。
苦笑──彼女にしては、実に珍しい。
沈黙が戻る。
だが先ほどまでの重さは、もうない。
二人は並んで、静まり返った会議室を後にする。
帝国の表と裏を支える者として。
それぞれの役割を、よく理解したまま。




