第333話 見透かす者、見誤る者
市場の喧騒の中で、レオンは不意に足を止めた。
(……【空間感知】)
意識をわずかに沈め、内側にある【原初の力】を静かに解放する。
視界に映る光景とは別に、空間そのものが輪郭を帯びていく感覚。人の流れ、呼吸、衣擦れの音、足音──それらが“存在”として把握されていく。
だが。
引っかからない。
視線の先では、レティシアとレンリが露店を覗き込みながら、今夜の食材について小声で相談している。
その隣でイルは、自分のおやつとなる菓子に目を輝かせていた。
(……妙だな)
確かに感じたのだ。
一瞬、背後から肌を撫でるような、視線とも違う“違和感”。
敵意とも害意とも断定できない、だが確実にこちらを意識した何か。
(見られていた……ような気がしたが……)
【空間感知】の精度には自信がある。
この力は、レオンが最も頻繁に使い、最も信頼している技だ。
索敵範囲も広く、曖昧な反応を見逃すほど甘くはない。
それなのに、何もいない。
(……レンリも反応していない)
ちらりと彼女を見る。
斥候としての腕前は折り紙付きで、時にはレオンを凌ぐほどの察知能力を見せる。
それに、レティシアもイルも、決して索敵が苦手なわけではない。
(三人とも、何も感じていない……)
ならば。
(……気のせい、か)
レオンは小さく頭を振った。
余計な思考を振り払い、意識を現実へ引き戻す。
「イル、決まったか?」
「うん! これと、これと……あ、あとこれ!」
「欲張りだな」
「だって迷っちゃうんだもん」
笑いながら菓子を選び、店主と軽く言葉を交わす。
表情はいつも通り。声の調子も変えていない。
──だが、警戒だけは解いていなかった。
(……念のため、だ)
市場を出るまで、【空間感知】の感度を一段階落としたままにしておく。
過剰反応かもしれない。だが、無視するには、あの感触はあまりにも“生々しすぎた”。
◆
「──それで、ちょっと探ってみたんだが……」
家に戻り、リビングで落ち着いてから、レオンは切り出した。
「私は特に何も感じなかったわよ?」
真っ先に答えたのはレンリだった。
眉一つ動かさず、事実だけを淡々と告げる。
「二人は?」
「あたしもね。レンリと一緒に動いてたけど、特に変な気配はなかったよ」
レティシアも首を横に振る。
「あたしもだよ」
イルも素直にそう言った。
「イルはお菓子に夢中だっただろう?」
レオンが軽くからかうと、
「むぅ」
イルが頬を膨らませ、尾でレオンの肩をぺしぺしと叩く。
「……やっぱり、気のせいか」
レオンは低く息を吐いた。
「ちょっと過敏になってたのかもな。最近、ずっと駆除依頼が続いてたし」
「それはあるかもね」
レティシアが頷く。
「気を張りっぱなしだと、些細な違和感でも大きく感じちゃうし」
「……そうだな」
本音を言えば、納得しきれない部分は残っている。
だが、三人が何も感じていない以上、これ以上騒ぐのも筋が違う。
「ここらで少し休息を取るか」
「賛成」
「うん!」
二、三日程度の休み。
それで疲れが抜ければ、あの違和感も消えるだろう。
──そう、レオンは自分に言い聞かせた。
だが胸の奥に残った、言葉にできないざらつきだけは、どうしても拭えなかった。
◆
ギルドの受付前は、今日も冒険者で賑わっていた。
報告の順番を待つレオンの周囲には、いつの間にか数人の冒険者が集まっている。
若い者もいれば、経験を積んだ者もいる。彼らは遠慮がちに、それでも切実な表情で言葉を投げかけていた。
レオンは少し考え、身振りを交えて答える。
説明を受けた冒険者は、真剣な顔で何度も頷き、やがて深く頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「気を付けてな」
彼らが去ると、レオンは何事もなかったかのように掲示板へ向かう。
──その様子を、酒場の片隅から眺めている二人組がいた。
「……あれが、そうか?」
低い声で呟いたのは、大柄な剣士だ。
肘をカウンターに置き、グラス越しにレオンを値踏みするように見る。
「ええ、間違いないわ」
隣に座る小柄な女性──斥候役が静かに肯定する。
「ふぅん……」
剣士は鼻で笑った。
「そこまでの器には見えねぇがな」
「同感ね。立ち振る舞いも、特別洗練されてるわけじゃない」
二人の視線は、あくまで“よくいる実力者”の範囲から外れない。
「やっぱり偶然が重なっただけじゃねぇか?」
「おそらくは。運と状況が噛み合った、それだけでしょう」
そう結論付けると、二人はグラスを空にし、席を立った。
◆
彼らが戻ったのは、〈雷槍の牙〉が借り上げている高級宿の最上階。
厚い絨毯、重厚な調度、外界の喧騒を遮断する静寂。
「帰ったぜ」
剣士が告げると、後ろから斥候の女性も入ってくる。
「どうだった?」
赤い髪の男──ガイウスが、ソファに腰掛けたまま問いかけた。
「どうもこうもねぇよ。ちょっくら見てきたがよ……正直、拍子抜けだ」
剣士は肩をすくめる。
「別にこれといった印象はなかったぜ?」
「私も同意見よ」
斥候が腕を組み、淡々と続ける。
「確かに周囲に助言はしていたけど、内容は基礎的なものばかり。突出した感覚も感じなかったわ」
「……そうか」
ガイウスは短く息を吐く。
「やはり、そんなところか」
そこへ、ローブ姿の魔導士が一歩前に出る。
「だから言ったではありませんか」
どこか見下すような口調。だが、それはレオンに対してではない。
「偶然が重なっただけだと。噂ほどの実力者である可能性があるなら面白そうですが」
「そのようなことはあり得ません」
白い神官服の女性も冷たく頷く。
「我々が警戒するほどの相手ではありません。せいぜい、運の良い中堅冒険者でしょう」
最後に、部屋の隅で黙っていた盾騎士が、豪快に笑った。
「辛気臭ぇ話はここまでにしようぜ」
「せっかく街にいるんだ。いつもの所に行こうじゃねぇか」
ガイウスは一瞬だけ考え、やがて立ち上がった。
「……そうだな。そうしよう」
彼ら〈雷槍の牙〉は、“調査は済んだ” “気にする必要はない” という結論を、何の疑問も持たずに共有する。
彼らは誰一人として、レオンが視線を向けられていたことに気付いていた可能性など、微塵も想像もしていなかった。
◆
(……この間とは、関係はなさそうだな。別の連中だ)
ギルド受付の前。
報告の順番を待ちながら、レオンは穏やかな表情のまま、意識だけを研ぎ澄ましていた。
声をかけてくる冒険者の質問に答えつつ、視線は動かさない。
だが感覚は、確実に一点を捉えている。
(見ている……しかも、隠す気はない、か。ずいぶん露骨だな)
敵意そのものではない。
だが、好意とも尊敬とも程遠い。
値踏み。
警戒。
そして──侮り。
(ふむ……初めて見る顔だ)
【空間感知】を使うまでもない。
視線に含まれる“質”が、これまで何度も味わってきたものと同じだった。
(ヴァレク・クロス支部から移ってきた連中、か)
噂には聞いている。
戦力増強のため、Aランクパーティーを含む冒険者たちが複数、拠点を移してきたという話だ。
(以前のような揉め事は起こしていない……今のところは、だが)
レオンは、ちらりとも視線を向けない。
こちらが気付いていると悟らせる必要はないからだ。
声をかけてきた若い冒険者が、少し緊張した面持ちで言う。
「その……さっき言ってた対処法、もし二体同時に来た場合は……?」
「ああ。その場合は、先に動いた方を捨て身で止める。躊躇すると、両方にやられる」
「……なるほど」
表向きは、ただの助言。
だが内心では、視線の主を冷静に分析していた。
(……悪意がある)
はっきりと分かる。
混ざり合った感情──警戒、値踏み、見下し、嫉妬。
(懐かしいな)
胸の奥が、わずかに冷える。
幼い頃から、ずっと向けられてきた感情だ。
スキルを持たないのに力を持つ。
常識から外れた存在への、理解できないがゆえの憎しみ。
北の大陸では、それが日常だった。
視線の一つ一つが、刃のように感じられた。
(南の大陸に来てからは、ほとんどなかったが……)
それが今、久しぶりに蘇っている。
(……だが)
レオンは心の中で、静かに結論を下した。
(腕は、大したことはなさそうだ)
感情の粗さ。
視線に宿る余裕のなさ。
実力がある者特有の“静けさ”がない。
(強い者ほど、他人を見下す余裕すら持たない)
レオンは正確に相手を“看て取って”いた。
相手がAランクだろうと関係ない。
だが──警戒を解くことはない。
(油断しない。慢心もしない)
それが、生き残るために身に刻んだ習慣だった。
順番が来て、レオンは受付へ進む。
背後から向けられる視線は、最後まで変わらなかった。
だがその視線の主たちは、最後まで気付かなかった。
──自分たちが、最初から完全に見透かされていたという事実に。
◆
「〈雷槍の牙〉ね」
その名を聞いて、レオンは視線を上げる。
「以前からこの街に拠点を置いてるAランクパーティーよ。少し前にアスラン・ヘイブンを出たって話は聞いてたでしょ?」
「ああ。確か、どこか別の街に移ったとか言ってたな」
「ヴァレク・クロスにいたらしいわ。でも、ギルドから呼び戻されたって噂」
レンリは肩をすくめる。
「表向きは“魔物の駆除対策の強化”って話だけど……」
「本音は?」
「遊んでる暇があるなら、戻って働け、ってところらしいわよ?」
レオンが苦笑する。
「……詳しいな。受付嬢経由か?」
「そうよ」
レンリは当然のように頷いた。
「些細なことでも、情報は集めておかないと。特に、ああいう目立つ連中に関してはね」
「……確かに、その通りだな」
レンリは、この街で生まれ育った。
その分、〈雷槍の牙〉についても、断片的ではない情報を持っている。
ひとしきり、彼らのパーティー構成、個人の名前や職業、それぞれの技量、性格、周囲からの評判などを簡単に説明する。
「構成は知っての通り、前衛が剣士と盾騎士。後衛には魔導士と神官。斥候が一人。リーダーは赤髪のガイウス。槍使いよ」
「技量は?」
「Aランク相応、ってところね。突出してはいないけど、安定感はある。ただ……」
レンリは少し言葉を選んで続ける。
「最近の評判は、あまり良くないわ」
「ギルド長から、か?」
「ええ。今のギルド長は、彼らをそれほど評価してないみたい」
「理由は?」
「活動量よ」
きっぱりと言い切る。
「最近は目立った成果もないし、依頼も選り好み。こっちに戻ってきてからも、積極的に動いていない」
「……Aランクのくせに、ということか」
「そう。幹部の中には、Aランクとしての資質そのものを問題視してる声もあるらしいわ」
レオンは静かに息を吐いた。
「なるほど……傲りが出てきているってことか」
「多分ね」
レンリは頷く。
「自分たち以外を、あまり認めていない。そんな感じがするわ」
しばしの沈黙。
やがてレオンが、淡々と結論を口にした。
「……ま、いいさ」
三人が彼を見る。
「俺たちは、俺たちのやるべきことをやっていればいい」
警戒はする。
だが、必要以上に関わる理由はない。
「向こうが何を考えていようと、関係ない」
「ええ、それでいいと思う」
レンリも同意する。
レオンの中で、答えは既に出ていた。
相手にしない。する必要がない。
それが、生き残ってきた冒険者の、静かな判断だった。




