第332話 日常という名の異変
冒険者ギルド本部の受付。
今日も今日とて、レオンはここに来るべきではなかったのかもしれない。
(出たな……恐怖の大魔王!!)
カウンター越しに立つ受付嬢は、にこやかに微笑んでいる。
──ただし、その笑みはどこか不敵だった。
「レオンさん♪」
呼ばれた瞬間、逃げ道は断たれた。
次の瞬間には、彼女の手が伸び、レオンの手をがっちりと掴んでいる。
「ちょ、ちょっと……?」
(まずい……また生命力を吸われてしま……う……)
あのリッチよりも凶悪。
しかも昼間、ギルドのど真ん中で堂々と活動するという始末の悪さだ。
(さすが大魔王……その力、比較にならん……!)
「どうしました? 顔色、あまりよくないですけど?」
首を傾げる受付嬢の声は、あくまで朗らか。
だが、手は緩まない。
(いかん、いかん。馬鹿なことを考えている場合じゃない)
レオンはぶんぶんと頭を振り、脳内の茶番を強引に追い払った。
「えーと……つまり、その依頼を……だな」
「はいっ。受けてくださいますよね?」
間髪入れずに来た。
逃げ道を塞ぐタイミングが完璧すぎる。
「いや、まだ内容を最後まで――」
「大丈夫です」
にっこり。
笑顔が眩しい。だが、どこか逃げ場がない。
(どうせ、何かやらされるんだろうな……)
ここで粘れば、もっと厄介な方向に転ぶ。
経験が、そう告げていた。
「レオンさん?」
「……なんだ?」
「今、何かとんでもなく失礼なこと、考えてませんでした?」
じっと覗き込んでくる視線が鋭い。
「……そんなことはないぞ?」
「本当ですか?」
「絶対、まったく……いや……」
少し間が空く。
「……たぶん」
「やっぱり考えてたじゃないですか!」
受付嬢はむっと頬を膨らませる。
「失礼ですねぇ。私はただ、ギルドとして“ぜひお願いしたい”仕事を持ってきただけなのに」
「その“ぜひ”が面倒なんだっ!」
「ひどい!」
口では抗議しつつも、彼女の手はしっかりレオンの手首を掴んだまま。
逃がす気は、微塵もない。
(ああ……また始まったな)
レオンは小さく溜息をついた。
面倒事は避けたかった。
できることなら、静かに依頼をこなして、静かに帰りたかった。
──だが、目の前の“大魔王”が、それを許すはずもなかった。
◆
結局のところ、レオンは逃げ切れなかった。
冒険者ギルド本部、受付カウンターの前。
受付嬢は書類を一枚、そっと差し出してくる。内容は、思ったよりも拍子抜けするものだった。
「……再び、訓練講師?」
「はい」
あまりにあっさり頷かれて、レオンは逆に警戒する。
「前みたいなやつか? 新人向けの基礎講習だろ」
「そうですそうです。もちろん、通常の依頼の合間で構いませんし、日程も無理のない範囲で」
「……それなら、まあ」
一瞬、気が緩みかけて──すぐに我に返る。
「いや、待て。次は春って言ってたじゃないか」
確かに、そういう話だったはずだ。
まだ冬は始まったばかりだ。
レオンの抗議に、受付嬢は困ったように眉を下げた。
「そのつもりだったんですけど……」
「けど?」
「前回の講習が、思った以上に評判が良くてですね……」
「評判?」
意外そうに聞き返すと、彼女はこくりと頷く。
「参加した方たちから、『実戦的で分かりやすかった』とか、『無駄がなくてよかった』とか」
「……そうなのか?」
レオンは少し照れたように頭をかく。
「まあ、役に立ったなら、やった甲斐はあったが……」
「それだけじゃないんです」
受付嬢は、ここぞとばかりに身を乗り出した。
「リッチ討伐の噂を聞いて、新しく参加したいという希望者が増えてまして」
「……ああ」
嫌な予感が、ゆっくりと形を成す。
「もちろん、前回受けた方で『もう一度受けたい』という人もいます」
「……なるほど」
理由は分かった。
分かったが──。
(どうせ断っても、逃げられないんだろうな……)
脳裏に浮かぶのは、これまでの経験。
笑顔で頼まれ、気付けば承諾している。そんな光景ばかりだ。
レオンは小さく息を吐いた。
「えーと……」
一応、考える素振りは見せる。
だが、結論は最初から決まっていた。
「……うん。わかった。受けよう」
「本当ですか!」
受付嬢の表情が、一瞬で晴れやかになる。
「助かります! 日程は後で調整しますね!」
「……ああ」
了承してしまった自分を、どこか他人事のように感じながら、レオンは頷いた。
(また、なし崩し、か……)
たいしたことではない。
危険な依頼でもない。
──ただし、面倒なのは間違いなかった。
◆
ギルドから訓練講師の依頼を受けて、しばらくが経った。
──正確に言えば、レオンはそのことをすっかり忘れていた。
理由は単純だ。
魔物の駆除依頼が、まったく減らない。
それは何も、レオンたちのパーティーだけの話ではなかった。
冒険者ギルドに所属する者たちは皆、ランクの違いこそあれ、ひっきりなしに依頼へ駆り出されている。
街道周辺、街の近郊、そして森の奥。
どこから湧いてくるのか分からないほど、魔物の出現は続いていた。
結果として、冒険者たちは日々、駆除に追われることになる。
そして今日もまた──。
「来るぞ!」
森の奥から現れたであろう魔物を前に、レオンたちは武器を構えていた。
もはや珍しくもない光景だ。
戦いは日常であり、油断の隙はどこにもない。
そんな中で、レオンはふと、横を歩くイルの姿をちらりと見た。
今はローブを羽織っているため分かりにくいが、彼女の背には新しく手に入れた収納袋がある。
レティシアの提案で、日頃から身につけさせているものだ。
──曰く。
『普段から背負っておけばさ、「ああ、イルが新しい背負い袋を持ったんだな」って自然に認識してくれるでしょ。それが重要なんだよ』
(要は、見慣れさせておけってことだな)
レオンは内心でそう要約した。
見た目は、子供用の背負い袋にしか見えない。
小さく、軽そうで、どこにでもありそうな作り。
これなら誰が見ても「子供が背負っているだけ」としか思わないだろう。
しかも、どれだけ物を入れても外見は変わらない。
膨らみもせず、重そうにも見えず、相変わらずぺちゃんこのままだ。
──その実、中には大量の料理や水、予備の物資が詰め込まれているのだが。
(知られなければ、それでいいもんな)
レオンはそう考えながら、再び視線を前へ戻した。
魔物との距離は、既に十分近い。
今日もまた、いつも通りの戦いが始まろうとしていた。
◆
レオンの背負い袋には、討伐した魔物の部位や剥ぎ取った素材、そして魔石がぎっしりと詰め込まれている。
それを背負子に固定し、相応の重量になっているはずだが、彼はそれをものともせずに歩いていた。
森の中を進みながら、イルがふと気になったように声をかける。
「ねえ、レオン。重くないの?」
「ん? このくらい、大したことないぞ?」
肩越しに振り返りながら、レオンは気楽に答えた。
彼は子供の頃から、こうした作業に慣れている。
森で狩った獣や魔物を売るため、領内の店まで運ぶのは日常だった。
最初は重く感じていた荷も、次第に身体が慣れ、いつしか苦にならなくなった。
その後の過酷な修行もあり、今のレオンにとって体力や力は問題にならない。
『【身体強化】を使えば、オーガ二、三体くらいなら余裕で運べるさ』
以前そう言われたときは、何の冗談かと思ったものだ。
もっとも──。
(イルが気にしてるのは、そういう話じゃないな)
彼女の視線は、ちらちらと自分の背負子に向けられている。
重い物なら、自分の収納袋に入れてしまえばいいのでは、という気遣いなのだろう。
それが分かっているからこそ、レオンは少し笑いながら説明する。
「なぁ、イル」
「なに?」
「いくら中身が混ざらないとはいえさ。同じ袋に、旨そうな料理と、血まみれの討伐部位や魔物の素材が入ってるって、イヤだろ?」
「イヤだ!!」
即答だった。
イルは全力で首を横に振る。
その反応に、レオンは苦笑する。
「だろ? それにな」
彼は少し声を落とし、言葉を続けた。
「普段から俺がこうして背負ってるのに、急にそれがなくなったら、おかしいと思われちまう」
「……あ」
「そういうことだ」
冗談めいた口調ではあったが、その中身は真剣だった。
イルはしばらく考えたあと、こくりと頷く。
子供らしい反応を見せつつも、レオンの言いたいことはちゃんと汲み取っている。
──自分たちが、どれほど目を付けられては困るものを持っているのか。
それを悟ったイルは、背中の収納袋を強く意識し、前を向いた。
森の奥では、まだ魔物の気配が消えていない。
今日もまた、慎重さが求められる一日になりそうだった。
◆
「今日もお疲れさまです。報酬は、いつも通りに?」
ギルドの受付で、職員が慣れた口調で問いかける。
「ええ、口座にお願いします」
「わかりました」
短いやり取りの間に、書類が処理され、手続きは滞りなく進んでいく。
カウンターの前に立っているのは、レティシアとレンリだ。
最近は、こうした流れがすっかり定着していた。
魔物の駆除数が多すぎる。
そのため、よほど貴重なものでない限り、討伐素材や魔石の買い取りは行われなくなっている。
理由は主に二つある。
一つは、素材の値崩れを防ぐため。
もう一つは、職員たちの疲労軽減だ。
持ち込まれる量が、あまりにも多すぎる。
魔石についても同様だった。
需要自体はある。
だが供給がそれを上回り、魔道具への消費も追いついていない。
結果として、市場は飽和しつつある。
(これじゃ、冒険者のやる気も削がれるよな)
それを理解しているからこそ、ギルドは対策を取っていた。
依頼料を上乗せし、時にはポーションを配布する。
多少なりとも、冒険者たちの不満を和らげるためだ。
掲示板の前では、レオンとイルが並んで依頼書を眺めていた。
張り出されているのは、ほとんどが魔物駆除。
枚数も内容も、以前より明らかに多い。
「……これが、日常になりつつある、か」
レオンが低く呟く。
「うん……」
イルも視線を依頼書から離さず、ぽつりと続けた。
「いつまで、続くのかな」
二人の胸に広がるのは、言葉にしづらい違和感だった。
危険な仕事に慣れること自体は、冒険者として避けられない。
だが──。
この状況は、どこかおかしい。
そう思いながらも、今はまだ、確かな答えは見つからない。
掲示板に並ぶ依頼の紙だけが、無言で現実を突きつけていた。




