第331話 いつでも出来立て
台所は、まるで戦場のようだった。
かまどの火は絶え間なく揺れ、鍋の中では何かがぐつぐつと音を立てている。刻まれる食材の軽快な音、湯気に混じる香草と焼き魚の匂いが、狭い空間に充満していた。
調理台の前ではレティシアが手際よく包丁を走らせている。迷いのない動きで野菜を刻み、鍋に放り込み、味を確かめるように一瞬だけ視線を落とす。その横ではレンリが、出来上がった料理を次々と器に移し、手早く蓋付きの容器や保温箱へとしまっていく。
「次、これお願い」
「はい、了解」
言葉は短く、それでいて無駄がない。二人の動きは自然と噛み合っており、まるで何度も同じ場面を繰り返してきたかのようだった。
焼き色のついた魚、香ばしい匂いを放つ煮込み、色鮮やかな副菜──料理が完成するたび、レンリはそれを素早く回収する。
「これは先にしまっておくわね。冷めると味が落ちるから」
「ええ、それがいいわ」
そう言っている間にも、次の料理に取りかかっている。台所に淀む暇はない。
そこへ、扉が開いた。
「ただいまー!」
元気な声とともに顔を出したのはイルだった。その後ろから、籠を抱えたレオンが続く。
二人は、台所の光景を目にした瞬間、足を止めた。
「……」
レオンは、しばし無言のまま二人の奮闘を眺める。刻む、焼く、盛る、しまう。その流れが止まることはなく、台所全体が一つの生き物のように動いている。
やがて彼は小さく頭を振り、感心とも呆れともつかない溜息を漏らした。
「……凄まじいな」
それは率直な感想だった。
一方のイルは、目を輝かせながら調理台の方をじっと見つめている。鼻をひくひくと動かし、漂ってくる匂いを逃すまいとしている様子だ。
(この匂い……絶対、お魚……!)
焼かれた魚の香ばしさに、期待が膨らんでいるのだろう。視線は鍋やフライパンを忙しなく追いかけていた。
レオンはその様子を横目で見つつ、二人の邪魔にならないように静かに調理台の端へと近づく。
「ここに置いておくぞ」
そう言って、買い出してきた食材の籠をそっと下ろす。
返事を待つこともなく、彼は一歩引き、再び頭を振った。
「手伝おうにも、入り込む隙がないな……」
そう独り言を残し、レオンはイルを促すようにして、その場を後にした。
「イル、夕飯まで大人しく遊んでようぜ」
「うん!」
背後では、相変わらず調理の手が止まる気配はない。
鍋が空になれば、すぐに次の材料が放り込まれ、焼き上がった魚は皿に移される間もなく、レンリの手によって次々と収納されていく。蓋が閉じられ、箱が積み重なり、棚の一角があっという間に埋まっていく。
「次、火を強めるね」
「了解。こっちはもう出来てる」
淡々と交わされる短いやり取り。
だがその内容とは裏腹に、出来上がっていく料理の量は常軌を逸していた。
香ばしい匂いが幾重にも重なり、台所には湯気が立ち込める。
それでも二人は止まらない。疲れを見せることもなく、ただ黙々と、しかし確実に料理を生み出し続けていく。
完成した料理は、数を数える意味すら失うほどに増えていった。
──まるで、終わりがないかのように。
◆
食卓には、湯気を立てる料理が所狭しと並んでいた。
魚を香草と一緒に焼き上げたもの、煮込み、揚げ物──種類も量も、明らかに普段より多い。
大量に作った料理の一部であり、イルの希望にも応えて、今夜は魚料理が中心だ。
レオンは向かいに座る二人を見た。
「で、今日はどのくらい出来たんだ?」
問いかけに、レティシアは少し考えるように視線を上へ向け、それから肩をすくめる。
「ひとまず、だいたい……四日分くらいかな?」
「四日分……」
思わず繰り返したレオンに、レンリが苦笑混じりに頷く。
「さすがに疲れたわね。ずっと台所だったし」
そう言いながらも、二人の表情に後悔の色はない。
一方、イルはそんな会話にはほとんど耳を貸していなかった。
目の前の魚料理に、完全に意識を奪われている。
「……んー! おいしー!」
身をほぐし、夢中で口に運ぶ。骨を避けることすら惜しいといった勢いだ。
よほど期待していたのだろう。頬を緩め、次の一切れにすぐ手を伸ばしている。
(……相変わらず、旨そうに食うなぁ)
レオンはその様子を眺めながら、ふと意識を過去へと引き戻された。
三日前──
それは〈アークノート〉から帰ってきた翌日のことだった。
四人はリビングに集まり、簡単な食事を終えた後も席を立たずにいた。
話題は自然と、今回の〈沈んだ神殿〉の調査で手に入れた古代の品々へと移っていく。
その最中、イルがふと首を傾げた。
「ねえ」
三人の視線が集まる。
「この袋に、ごはん入れたらどうなるのかな?」
その瞬間だった。
「「「……」」」
空気が、ぴたりと固まる。
誰もすぐに言葉を発しなかった。
だが三人の脳裏には、ほぼ同時に同じ記憶が蘇っていた。
──〈アークノート〉で、シルヴィアが語った言葉。
『その収納袋、中の時間が止まっているのよ』
物は劣化せず、状態も変わらない。
取り出した瞬間が、そのまま“今”になる。
「……そうか」
最初に口を開いたのは、レオンだった。
「時間が止まっているなら……」
その先を、レンリが引き取る。
「もしかして……いつでも、出来立ての食事が……?」
レティシアは一拍遅れて目を見開き、次の瞬間、思わず額を押さえた。
「そうだよ! なんで、今まで気付かなかったんだろう……!」
理解が一気に繋がったのだろう。
彼女の視線は、例の収納袋から離れない。
「温かいまま、焼きたての魚も」
「煮込みも、揚げ物も」
「保存を気にせず、全部そのまま……」
レンリも次第に声が弾んでいく。
「移動中でも」
「野営中でも」
「火を起こせない場所でも……」
レオンは、ゆっくりとイルの方を見た。
イルはきょとんとした表情で、三人を見回している。
「……え? なに?」
次の瞬間。
「イル」
レオンは真剣な顔で言った。
「お前は天才かっ!?」
「えっ!? そ、そうなの!?」
急に褒められ(?)、イルは目を丸くする。
レティシアは苦笑しつつも、深く頷いた。
「うん……この子がいなかったら、きっと気付くの、ずっと後だった」
「言われてみれば、当たり前なのにね」
レンリも肩をすくめる。
「“物”としてしか考えてなかった」
「“食事”を入れる発想が抜けてたわ」
レオンは腕を組み、納得したように息を吐いた。
「……なるほどな」
これから先、長い移動や予測不能な状況が待っている。
だがこの収納袋があれば、いつでも、どこでも、出来立ての食事が手に入る。
イルは少し得意そうに胸を張る。
「えへへ……じゃあ、またお魚入れといた方がいいよね?」
その一言に、三人は思わず笑ってしまった。
「……理屈はわかったけど」
レオンは収納袋を手に取り、口元を引き締める。
「実際に確かめないと、信用はできないな」
「そうだね」
レティシアは頷き、テーブルの上のお茶に目をやった。
淹れたてで、湯気も立っている。
「これで試そう」
「冷める暇もないし、ちょうどいい」
レンリが器を持ち上げ、慎重に収納袋の口元へ運ぶ。
「入れるわよ?」
「待って」
イルが少し不安そうに覗き込む。
「……こぼれたりしない?」
「大丈夫さ。たぶん」
レオンの「たぶん」に、イルは一瞬だけためらったが、結局は頷いた。
レンリがそっとお茶を袋の中へ滑り込ませる。
次の瞬間、器ごと、すっと消えた。
「……よし」
レオンは腕を組み、短く言う。
「じゃあ、時間をおいてから出してみよう」
レティシアが袋の中へ手を差し入れ、意識を集中させる。
「……あった」
取り出された器を見た瞬間、全員が息を呑んだ。
お茶は、つい今しがた淹れたものと、何一つ変わっていない。
湯気が、ふわりと立ち上った。
「……え」
イルが目を見開く。
「まだ、あったかい……?」
恐る恐る指先で触れたイルは、思わず声を上げた。
「あっ、ほんとだ!」
「熱いくらい!」
レンリも目を丸くしている。
「時間……本当に止まってるのね」
「見た目だけじゃなくて、温度まで」
レオンは無言のまま袋の中を確かめる。
「……大丈夫だ。零れてもいなそうだ」
その言葉に、全員が顔を見合わせた。
「……やばいね、これ」
レティシアが小さく呟く。
「うん、やばい」
レンリも同意する。
「移動中でも」
「夜でも」
「戦闘の後でも……」
イルはぱっと顔を輝かせた。
「いつでも、おいしいごはん食べられるってことだよね!?」
「そういうことだ」
レオンは深く頷いた。
しばしの沈黙の後、彼は改めて収納袋を見つめる。
胸の奥に、じわりと現実的な感情が湧き上がった。
「……これでもう、あの糞マズイ保存食に悩まされずに済むな」
思わず口元が緩みかけた、その瞬間。
「……いや、人前では“保存食”だからね?」
レティシアの冷静な一言が、容赦なく飛んできた。
「…………」
レオンはぴたりと固まる。
「……そうだった」
肩から、がくりと力が抜けた。
頭の中で思い描いていた“豪華な食事をさりげなく取り出す自分”の幻が、音を立てて崩れていく。
(結局、表向きはあの硬くて味気ない保存食を食ってる体、か……)
深い溜息が、自然と零れた。
イルは状況がよく分からないまま、きょとんと首を傾げていたが──
「でも、誰にも見られなければ、おいしいごはんなんだよね?」
その一言に、レオンはわずかに救われたように目を細める。
「……ああ、それだけは間違いない」
内心の落胆を飲み込みながら、彼は再び収納袋に視線を落とした。
「……しかし、また大変な事になったな」
腕を組み、溜息混じりに言う。
「とりあえず、収納袋をなんとかしないとだろ?」
「そうだね。あのままだと目立ちすぎる。偽装しなくちゃならないね」
「どうするの?」
レンリが首を傾げる。
レティシアは少し考え込むように顎に指を当て、それからふと思い出したように顔を上げた。
「イル、ちょっと来て」
「なーに?」
呼ばれて、イルが軽い足取りで近づいてくる。
レティシアは何も言わず、収納袋を手に取ると、イルの背中にそっと当ててみた。
イルはきょとんとしたまま、されるがままになっている。
「……うん」
一度距離を取って全体を眺め、もう一度頷く。
「やっぱり、いいかもしれないね」
その言葉に、レオンとレンリの視線が集まる。
レティシアは三人の方を向き、落ち着いた口調で説明を始めた。
「袋自体の大きさは、そこまで大きくない。見た目だけなら、普通の荷物袋と大差ないよ? いやちょっと小さい分、イルの背中にちょうどいい」
そう言って、再びイルの背中を軽く叩く。
「丈夫な紐をつけて背負えるようにするか……もしくは、今ある子供用の背負える物にしまってしまうのも、ありかなって思ってる」
説明を聞きながら、レオンは無意識にイルと収納袋を見比べた。
(確かに……大人が持つより、違和感は少ないか)
レティシアは最後に、少しだけ笑って言った。
「これなら、なんとか誤魔化せると思う。どうかな?」
短い沈黙の後、レンリがあっさりと答える。
「いいんじゃない?」
その一言で、方針はほぼ決まったようなものだった。
イルはきょとんとしたまま、自分を指差す。
「え、わたし?」
「責任重大ね」
レンリはそう言いつつも、表情は柔らかい。
「でも、イルなら任せられる」
イルは少し照れたように頭を掻き、それから胸を張った。
「じゃあ、わたしがごはん係だね!」
「それだけじゃない」
レオンは真剣な顔で言う。
「この袋は、俺たちの生命線だ。無理はするな。危なくなったら、すぐ離れる」
「うん、わかった!」
収納袋は、こうして正式にイルの背へと託されることになった。
それはただの荷物ではない。
いつでも帰れる場所のような、温かさそのものだった。
そしてそれを背負う役目は、
小さな少女にとって、少し誇らしい仕事となったのだった。
──そして現在。
レオンは再び目の前の料理へと視線を戻す。
テーブルの上には、まだ料理が残っている。
イルは相変わらず魚に夢中で、次の皿に手を伸ばしていた。
(……すべては、イルの柔軟な発想だったな)
そう思いながら、レオンも静かに食事を続ける。
──こうして、台所で量産された大量の料理は、
“未来のための切り札”として、静かに収納袋の中へと収められていったのだった。




