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持たざる者は、世界に抗い、神を討つ  作者: シベリアン太郎


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第330話 魔女が仕込んだ毒

 薄暗い室内に、低い報告の声が落ちた。

 重厚な調度も、〈黒翼〉の紋章もない。ここが〈黒翼〉の本拠地、〈アスフォデル〉ではないことは、一目でわかる。黒羽ノ令嬢が私的に用いている、いくつもある隠れ処の一つ──その静寂の中であった。


「……やはり、ラドニアにはおらぬか」


 令嬢の声音は淡々としていたが、わずかな失望が滲んでいる。

 膝をついていた手の者は、首を垂れたまま答える。


「は。確認できた範囲では、該当する動きはありません。潜伏、あるいは既に国外へ出た可能性も」

「……」


 黒羽ノ令嬢は返事をせず、指先で肘掛けをなぞった。沈黙が流れる。

 思考に沈んだその横顔は、彫像のように動かない。


「現在のラドニアは、いまだ帝国の占領下……だったな」

「は。港は封鎖され、出入りは厳重に管理されています」

「港が閉ざされている以上、海を渡ることは叶わぬ。事態が好転するのを待つか──あるいは」


 そこで言葉が途切れる。

 令嬢は視線を伏せ、再び考え込んだ。


「……独自に船を調達し、強引に海を渡るか。……だが、それは賭けが過ぎる」


 その間を見計らったように、手の者がさらに口を開く。


「もう一点、報告が。聖教国が、密かに王国へ使者を送ったとの情報が入っております」


 令嬢の視線が、わずかに動いた。


「聖教国内では、厭戦感情が広がっているとのこと。表向きは沈黙を保っておりますが……停戦の仲裁を、王国に依頼する意図があるのではないかと」

「……なるほど」


 令嬢は小さく息を吐いた。


「となると、無理をせず待つが吉、か。だがそれは──あの連中にとっても、同じ条件。それにうまくいくとは限らぬ。いずれにしても……」


 ゆっくりと顔を上げ、冷ややかな光を宿した瞳で前を見る。


「先んじなくてはならぬ。……手を打つか」


 空気が引き締まる。


「ラドニアにて、港の監視を強化せよ。港湾の使用が解放され次第、即座に船の調達に入れるよう手配を」

「は」

「同時に、その動きを〈冥主〉たちに悟られるな。虚偽の情報を流す」


 令嬢は一息もつかず、指示を重ねる。


「内容はこうだ。──レオンは王国北部、“魔の森”へ向かった。王国の要請を受け、魔物討伐の支援に赴いた、とな」


 手の者がわずかに目を見開く。


「〈黒翼〉の注意を、そちらへ引きつけろ。真の狙いは悟らせるな」

「承知しました」

「急げ。だが慎重にだ」


 令嬢の声が低くなる。


「我らの動きを、気取られてはならぬ」

「はっ」


 手の者は深く頭を下げると、音もなく室内を後にした。

 残されたのは、黒羽ノ令嬢と──その背後に溶け込むように佇む影。


「……」


 令嬢は振り返らずに告げる。


「我らも動く。用意せよ」


 影が、無言で一礼した。

 次の瞬間、そこにあった気配は、すっと霧散するように消え失せる。

 再び室内は静寂に包まれた。

 ただ、確かに何かが動き始めた──その予兆だけを残して。



 〈黒翼〉の本拠地──〈アスフォデル〉。

 黒石で組まれた円形の会議室には、常と変わらぬ重苦しい空気が満ちていた。高い天井から垂れ下がる燭台の灯が、幹部たちの顔に濃い影を落としている。

 ただその円卓には一つ、欠けているものがあった。

 黒羽ノ令嬢の姿である。


「……なぜ、ここにおらぬのか?」


 沈黙を破ったのは、最上座に座す老幹部だった。老獪なその視線が、報告員へと突き刺さる。

 報告員──黒羽ノ令嬢の手の者は、一歩前に進み、恭しく頭を下げた。


「はい。令嬢は、“速やかに動く必要がある”と。“影の使徒”がいない今、我々幹部が働かねばならぬ、と申されまして」

「……それで、赴いたと?」

「そういうことです」


 短いやり取りののち、会議室に微かなざわめきが走る。


「ならば、任せようではないか」


 別の幹部が、肩をすくめるように言った。


「左様」


 これまた気楽に別の幹部も頷く。


「彼女が赴いたとあれば──無為には終わらぬであろうよ」


 会議室に、安堵にも似た空気が流れかけた。

 その流れを断つように、報告員が一歩踏み出す。


「そのことですが」


 報告員が、静かに声を挟む。


「令嬢より、言伝を預かっております」

「言伝じゃと?」


 老幹部の視線が鋭くなる。


「はい」


 報告員は一瞬だけ間を置き、静かに言葉を続けた。


「『今回は全力を挙げてでも事を為さねばならぬ。失敗は許されない。幹部を始め、戦力となるものは、速やかに後に続くように』──とのことです」


 空気が、一気に張り詰めた。


「……また、命令か……!」


 声を荒げたのは、若い幹部だった。

 これまでも幾度となく、彼は黒羽ノ令嬢に噛みついてきた。だがその強気は、いつも途中で失速する。


「どれだけ……上から物を言えば……!」


 怒りに震える拳。

 だが、その視線は令嬢の不在を確認するように、宙を彷徨っている。

 本心では理解しているのだ──恐れているのだと。

 力でも、立場でも、決して敵わぬ相手であることを。


「尚」


 報告員の冷ややかな声が、若い幹部の言葉を断ち切った。


「令嬢は、〈冥主〉の許可を得られて動かれております」

「……ッ!」


 若い幹部の顔色が変わる。

 怒りは一瞬で引き、代わりに貼り付いたような沈黙が訪れた。


 〈冥主〉。

 その名が出ただけで、この場の空気は一段──いや、二段は重くなる。

 〈黒翼〉において、〈冥主〉の命令は絶対。

 異論も、反論も、許されない。


「……ならば、動かねばならぬでしょう」


 誰もが口を閉ざす中、仮面を付けた幹部が、ゆっくりと口を開いた。

 その顔は仮面によって完全に覆われている。

 無機質なその仮面には表情と呼べるものはなく、ただ目の位置に穿たれた二つの孔の奥で、赤い光が微かに揺らめいていた。

 生きているのか、それとも別の何かなのか──判断を許さぬ、不気味な輝き。

 全身は漆黒のローブに包まれ、肌は一切見えない。

 指先すらも覆われ、そこに人の温もりを想起させる要素はない。

 〈黒翼〉の幹部でありながら、誰一人としてその真の姿を見た者はいない存在。

 仮面の奥の表情は、当然ながら窺えない。

 声音もまた、感情を削ぎ落としたかのように平坦で、逆にそれが耳に残る。


「令嬢の命令は、〈冥主〉が許可を出したもの。それが何を意味するか──ここにいる者なら、理解しているはずです」


 その言葉は静かだった。

 だが、会議室の空気を確実に押し潰す重みを帯びていた。

 反論は、出なかった。

 〈冥主〉の裁可。

 それはすなわち、〈黒翼〉そのものの意思。

 若い幹部は、歯を食いしばりながら視線を伏せる。

 従わねばならない。

 それ以外の選択肢が存在しないことを、誰よりも理解しているからだ。


 仮面の幹部は、静かに視線を伏せる。

 赤い光が、わずかに下を向く。

 その仮面の下で、どのような表情を浮かべているのか──

 それを知る者は、いない。

 そもそも、人の表情と呼べるものが存在するのかすら、誰も確信できなかった。


 王国北部、“魔の森”。

 そこへ向けられた〈黒翼〉の視線。

 ──それこそが、黒羽ノ令嬢が〈黒翼〉に仕込んだ毒。


 仮面の幹部は顔を上げる。

 赤い光が、闇の中でわずかに細められたように見えた。

 会議室の闇に溶けるように──

 仮面の下で、誰にも見えぬ微笑を浮かべながら。


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