第329話 選ばれなかった道
王都中枢、謁見の間。
高い天井から降り注ぐ光が、磨き上げられた石床に反射し、整然と並ぶ列柱の影を落としていた。
玉座には王アルヴァン四世。その一段下、王の右手には宰相レオナード、左右に各省の大臣、高官たちが居並ぶ。
その視線の先、赤絨毯の中央を進み出たのは、聖教国使節団の代表──セリーヌであった。
形式に則った挨拶が厳粛に交わされる。
声の抑揚、立ち居振る舞い、その一つ一つに過不足はなく、過去に王国が相対してきた聖教国の使節とは、どこか趣を異にしていた。
「──では、用向きを述べよ」
王の言葉に促され、セリーヌは一歩前に進み、胸元から封を施された書状を取り出す。
「〈聖女〉セラフィーナより、アルヴァン四世陛下へ。両国の関係修復についての親書にございます」
近侍を介して渡された書状に、王は静かに目を落とした。
そこに記されていたのは、教皇及び枢機卿会議の暴走を謝罪し、王国との関係改善を望む旨、そして帝国との講和に向けた仲裁を願い出る内容であった。
読み終えた王は、しばし沈黙する。
その沈黙は、謁見の間にいる者すべてに重くのしかかった。
「……申し出の趣、確かに受け取った」
やがて王は口を開く。
「我が国としては、聖教国が関係改善を望むというのであれば、それを一概に拒むつもりはない」
セリーヌの表情に、わずかな安堵が浮かぶ。
「ただし──」
王の声音が、わずかに低くなった。
「正式な謝罪が必要だ。教皇及び枢機卿会議の判断により、会談の最中にもかかわらず聖騎士団を国境の共同管理地へ派遣し、結果として三国入り乱れての戦闘に発展した。その責任を明確にせねばならぬ」
謁見の間に、緊張が走る。
「加えて、我が国が被った被害への賠償。この二点を条件として提示しよう」
セリーヌは一礼し、落ち着いた口調で応じた。
「その条件、確かに承りました。帰国次第、〈聖女〉様へ詳細を報告し、然るべき対応を検討することをお約束いたします」
その応答に、王国側の空気がわずかに緩む。
関係改善への道筋が、確かに示された瞬間であった。
だが、話題が帝国との講和に及ぶと、空気は再び張り詰める。
「帝国との仲裁については──即答はできぬ」
王は慎重に言葉を選ぶ。
「我が国の行く末に関わる重要案件だ。関係各位と協議を重ねねばならぬ」
居並ぶ大臣たちも、無言のうちにその姿勢を支持する。
王国として、軽々に引き受ける意志はない──その意思表示は明確であった。
セリーヌは、その空気を正確に読み取ったのだろう。
小さく息を整え、穏やかな笑みを浮かべて口を開く。
「今回は、あくまでお願いでございます。もし、それが叶わぬのであれば……それもまた、致し方のないことと存じます」
その言葉に、王は内心ほっと胸を撫で下ろした。
不興を買うのではないかという懸念は、どうやら杞憂に終わりそうだった。
宰相が一歩前に出る。
「もし、我が国が仲裁を引き受けられぬ場合、聖教国としてはどのようにお考えか?」
一瞬の沈黙。
セリーヌはわずかに肩を落とし、困ったように微笑んだ。
「その場合は……別の方法を模索するほかないでしょう」
それ以上は語られない。
王が「その方法とは?」と問いかけても、セリーヌは柔らかく首を振る。
「申し訳ございませんが……国家機密に当たる事柄にございますので。今この場でお話しできるものではありません」
にこやかな物腰は崩さぬまま、しかしそれ以上踏み込ませぬ明確な線引きが、そこにはあった。
謁見の間にいる者たちは、彼女が意図的に言葉を濁していることを理解しつつ、それ以上追及することはできなかった。
かくして謁見は終わりを告げた。
形式の上では、王国が主導権を握り、条件を提示した形である。
しかし、玉座を降りた王の胸中では、
──恩を売れるかもしれぬという打算と、
──〈聖女〉の胸の内に潜む深慮遠謀に対する、拭いきれぬ怖れとが、静かに、しかし確かに交錯していた。
その表情を、誰一人として見ることはなかった。
◆
謁見が終わり、聖教国使節団が退出した後。
王アルヴァン四世は玉座を離れ、奥の小会議室へと向かった。
本来であれば宰相レオナードが同席する場であるが、今は別件の対応に追われており不在である。
集められたのは、外務、軍務、財務、内政を担う主要な大臣と数名の高官のみ──より率直な意見が飛び交う顔触れだった。
「さて……」
王は腰を下ろすと、短く切り出す。
「どう見る?」
問いは簡潔だが、その内包する意味は重い。
最初に口を開いたのは内務卿クロフォード公爵だった。
「少なくとも、これまでの聖教国とは違う、という印象は間違いではないでしょう。使節の態度、言葉選び、いずれも慎重でした」
「慎重、か」
王は小さく頷く。
「〈聖女〉が表に出る決断をした、という見立ては妥当かと。教皇や枢機卿会議の意向が前面に出ていた時代とは、明らかに色が違います」
内務卿の言葉を受け、小会議室に短い沈黙が落ちた。
だがそれは、思考を巡らせるための静けさではなかった。
「しかし、油断はなりませんぞ」
低く、しかし明確な声で軍務卿グレイフォード公爵が口を挟む。
「〈聖女〉とて聖教国の人間。いずれ教皇や枢機卿会議と同じ轍を踏まぬ保証はない。今は穏やかに見えても、力を得た途端に態度を翻す可能性は否定できぬ」
「同感だ」
内務卿が頷く。
「表に出るということは、責任も権限も集中するということ。支持を固めれば、かえって強硬に出る余地も生まれる」
「それよりも──」
財務卿ライエン侯爵が指を組み、苛立ちを隠さず口を開いた。
「我が国が帝国との仲裁を引き受けなかった場合の動きが、まったく読めぬ。あの“国家機密”なる言い回し……あれが何を意味するのか」
「確かに」
軍務卿が眉をひそめる。
「帝国との戦争を続けるつもりなのか。それとも、別の形で終結を図るのか……」
「帝国と直接、何らかの取引をする可能性は?」
誰かが問いかける。
「……まさか」
内務卿が首を横に振る。
「帝国が応じるとは思えません。聖教国の内情は、向こうも把握しているでしょう」
「では、別の国は?」
「連盟も動かんだろう」
軍務卿が即座に答える。
「あの国は、聖教国とも帝国とも折り合いが悪い。仲裁役を引き受ける理由がない」
再び、沈黙。
「それとも……力による解決か」
軍務卿が、わずかに声を落とした。
王は黙したまま、考えを巡らせる。
恩を売る好機であることは、誰の目にも明らかだった。
一方で、聖教国の影響力が再び王国内に浸透する危険性も、決して小さくない。
「仲裁を引き受ければ──」
外務卿ファルナート侯爵が、慎重に言葉を選ぶ。
「我が国は、三国の中心に立てるのでは?」
「過去を忘れてはならぬ」
軍務卿の声には、苦い感情が滲んでいた。
「煮え湯を飲まされてきたのは事実だ。今回の〈聖女〉がどれほど誠実であろうと、聖教国という国が変わったと断じるのは早計でしょう」
期待と警戒、打算と不信。
いずれもが拮抗し、決定打にはなり得ない。
やがて王は、静かに息を吐いた。
「……結論は、出ぬな」
誰も反論しなかった。
王は机に置いた指先を、軽く叩く。
乾いた音が、会議室に響いた。
「……結局のところ」
王は静かに言った。
「我々は、〈聖女〉が何を考えているのかを知らぬ、ということだな」
穏やかな微笑みの裏に隠された“国家機密”──その意味の重さを、ここにいる全員が理解していた。
「ならば、急ぐ必要もあるまい」
王は視線を上げ、集まった者たちを見回す。
「仲裁の件については、検討中として保留する。聖教国には、後日改めて返答する──それでよい」
異論は出なかった。
結局会議は、明確な答えを出さぬまま、静かに散会となった。
◆
会議の結果は、席を外していた宰相にも速やかに報告された。
(なるほど……警戒が上回った、ということか)
報告書に目を通しながら、宰相は内心で整理する。
(関係修復そのものは歓迎する。だが、帝国との仲裁については言質を与えず、可能な限り引き延ばす……余計な面倒事を避けるための判断、というわけだな)
無難ではある。
だが同時に、踏み出す勇気を欠いた選択でもあった。
一方その頃、聖教国使節代表セリーヌは、既に王国の態度を見極めていた。
昨日の謁見とその後の空気──それだけで十分だった。
(仲裁を引き受ける可能性は、低い)
彼女は一連のやり取りと自身の判断を、通信用の魔道具を用いて〈聖女〉へと報告している。
ほどなくして返ってきたのは、簡潔で、しかし迷いのない最終指示だった。
◆
翌日、再び謁見の間。
玉座に座す王は、整然と並ぶ高官たちを背に、セリーヌと向き合っていた。
「昨日の会議の結果についてだが──」
王は静かに告げる。
「現時点では、結論には至っていない。帝国との仲裁という重大事については、なお慎重な検討を要する。なるべく早く答えは出すが……正式な返答は、後日としたい」
それ以上の言葉はなかった。
曖昧で、しかし拒絶でもない表現。
セリーヌは一礼する。
「……残念ではありますが、何とも致し方のないことにございます」
声は穏やかで、表情も変わらない。
だが、その一瞬、彼女の瞳が冷たく光ったことに、果たして何人が気付いただろうか。
◆
やがて謁見は終わり、使節団は王城を後にする。
その見送り役を務めたのは、宰相補佐ユーインであった。
肩書きとは裏腹に、彼に与えられている役目は、実質的には事務処理ばかり。
今回の交渉にも、直接関わることは許されていない。
すべてが終わった後で、ようやく事情を聞かされた。
(……話にならん)
城門へ向かう使節団の背を見送りながら、ユーインは唇を噛む。
(悪手もいいところだ。この国の上層部に、ここまで外交感覚が欠如しているとは思わなかった)
中立とは、何もしないことではない。
踏み出すべき時に踏み出さねば、それはただの傍観に過ぎない。
(これでは、王国の立場は一気に悪くなるだろうな)
彼は歩調を合わせ、セリーヌに声をかけた。
「……聖教国の方々には、どうやらとんだ無駄足となってしまったようで」
それは謝罪とも、皮肉とも取れる言い方だった。
だが、その直後、ユーインは小さく息を吐き、今度は隠す気もなく言い放つ。
「あれが──中立気取りの王国ですよ」
明らかに、毒の混じった言葉だった。
セリーヌは足を止め、振り返る。
その表情は柔らかい。
(なるほど……)
彼女は内心で頷く。
(恐らく、ユーイン卿だけは、この結果を本気で憂えている)
セリーヌは足を止めると、ゆっくりと振り返った。
そして、ユーインの前に立ち、静かに頭を下げる。
「……この度は、何かとお世話になりました」
形式的な礼ではなかった。
声音にも、仕草にも、打算は感じられない。
「ユーイン卿のお気遣いと誠意は、確かに受け取りました。私個人としても……心から感謝いたします」
「こちらこそ、何もお力になれぬことをお詫びいたします」
「国王陛下のお考えですから。私は〈聖女〉にすべてを伝えました。あとは……〈聖女〉が、どう判断なさるか、ですね」
そう告げると、彼女は再び使節団の先頭へと戻り、歩き出す。
(ユーイン卿のような人物が、王の周りにいれば多少は違っただろうに……)
ユーインは、その背中を見送りながら、胸の奥に重いものが沈んでいくのを感じていた。
この国は、いま確かに、“理解者”のいる側を選ばなかったのだ、と。
この選択が、何を招くのか──それを、理解している者は、あまりにも少なかった。




