第325話 静かに放たれた一手
〈聖女〉は、祈りの間に差し込む淡い光の中で、静かに目を伏せていた。香の残り香が空気に溶け、外界の喧騒は厚い石壁の向こうに遮断されている。だが、その静寂は決して安らぎではない。今この瞬間にも、枢機卿たちがどこで、誰と、どのような策を巡らせているのか分からないからだ。
(動き出したことを悟られてはいけない)
その思いが、胸の奥で冷たい重みとなる。だが同時に、確かな支えもあった。聖都の守りを担う聖騎士団。その中枢にあたる者たちの過半数が、密かに〈聖女〉の意思を支持している。千に及ぶ剣と盾が、声なき誓いとともに彼女の側にあるという事実は、何よりも心強かった。彼らに連なる兵士たちもまた、命令ではなく信念によって従う。
──クラリス、セリーヌ。
二人の名を、心の中でそっと呼ぶ。彼女たちが日々積み重ねてきた地道な働きが、今こうして形となって現れている。派手な勝利でも、劇的な革命でもない。だが、確実に根を張った支持は、どんな策謀よりも強い。
(……覚悟を決めなければ)
〈聖女〉は深く息を吸い、顔を上げた。揺らぎそうになる心を、祈りではなく決断で支える時だ。枢機卿たちの動向には引き続き目を光らせる。その一方で、次の一手を密やかに放つ。
選ばれたのはセリーヌだった。
夜明け前、まだ聖都が眠りの底にある時間。セリーヌは簡素な外套をまとい、身分を隠して門を抜けた。彼女に託された言葉は重い。旧鉱山跡で起きた出来事について、教皇と枢機卿会議に代わり、〈聖女〉の名のもとで正式に謝罪すること。そして必要とあらば賠償金を支払う用意があることを、王国に明確に伝えること。さらに、その誠意をもって、帝国との間に立つ仲裁を依頼する。
それは、権威を盾にした命令ではない。過ちを認め、頭を下げ、未来を繋ぐための選択だった。
(セリーヌ、お願いしますね……)
見送ることすら叶わなかったが、〈聖女〉は祈りの間で静かに指を組む。彼女の祈りは神にではなく、人に向けられていた。剣と策謀が支配するこの国で、言葉と誠意が通じる道を信じるために。
密やかな動きは、まだ始まったばかりだ。だがこの一歩が、聖教国の未来を左右することを、〈聖女〉自身が誰よりも理解していた。
◆
「……聖教国、いや、〈聖女〉からの使者、か」
報告を聞き終え、王アルヴァン四世は玉座に深く腰掛けたまま、小さく息を吐いた。その声音には驚きよりも、むしろ「来るべきものが来た」という静かな納得が滲んでいる。
「して、いつ到着するのか?」
視線を向けられ、宰相レオナードは一歩前に出て、無駄のない口調で答えた。
「五日後を予定しております。護衛は最小限、形式ばらぬ訪問とのことです」
「ふむ……」
王は顎に手を当て、しばし天井を仰いだ。脳裏に浮かぶのは、旧鉱山跡で起きた一連の出来事と、その後も続くぎこちない沈黙だ。
「〈聖女〉からの使者、ということであれば……無下にはできん、な」
その言葉に、宰相は静かに頷く。
「陛下のお考えの通りかと。使者の用向きは、おそらく関係修復でしょう。謝罪と、賠償の話も含まれると見ております」
王は苦笑に近い表情を浮かべた。
「枢機卿会議の連中ではなく、〈聖女〉自らの名で、か。随分と思い切った手に出たものだ」
「はい」
宰相は一拍置いてから、さらに続けた。
「現在、聖教国は明確に二つに割れつつあるとの報告が来ております。枢機卿会議を中心とする強硬派と、〈聖女〉派。聖都の守備を担う聖騎士団の多くが〈聖女〉側に傾いているとのことです」
「……なるほどな」
王の目が細められる。その視線は、宰相の向こう──まだ見ぬ盤面の先を見据えていた。
「〈聖女〉が、いよいよ表に出てきたというわけか」
「ええ。聖教国にとっては、大きな転換点でしょう。内向きの争いに終始するか、外との関係を立て直すか。その岐路に立っているように見えます」
重苦しい沈黙が、謁見の間に落ちる。窓の外では、城下のざわめきが遠く聞こえるだけだ。
「ふむ……」
王は、ゆっくりと立ち上がった。王衣が静かに揺れ、床に影を落とす。
「確かに、これは好機かもしれんな。感情で突っぱねれば、枢機卿どもを利するだけだ。だが、〈聖女〉の手を取るなら、我らにも得るものがなくてはならん」
その言葉に、宰相は一礼する。
「陛下のお言葉の通りです。この機会を有効に使うか否かで、今後の帝国との関係、ひいては大陸全体の均衡も変わりましょう」
王は窓際に歩み寄り、外を見下ろした。
「五日後、か……」
その呟きは、期待とも警戒ともつかぬ響きを帯びている。
「使者を迎える準備を整えよ。形式は抑えつつも、誠意は示す。〈聖女〉が何を差し出し、何を望むのか──それを見極める」
「はっ」
宰相の返事を背に、王は静かに微笑んだ。
(盤は、動き始めたな)
その一手が、聖教国の未来を救うのか、それとも新たな火種となるのか。
答えは、五日後に姿を現す使者が握っている。
◆
王都の城壁が見えてきた頃、セリーヌは無意識のうちに手綱を強く握っていた。
〈聖女〉の名を掲げた使節団は、必要最低限の人数で編成されている。形式ばった威容よりも、誠意と慎みを示すためだ。だが、王都へ至る道すがら、その判断が正しかったことを、誰もが痛感させられていた。
街道は、ところどころで寸断されている。
本来なら荷馬車が行き交い、商人や旅人の声で賑わうはずの道は、地割れと崩落で無残な姿を晒していた。迂回のために仮設の道が設けられている場所もあるが、修復はまだ追いついていない。倒れた里程標、横倒しになった荷車、放棄されたままの積み荷──震災の爪痕が、生々しく残っていた。
「……王国も、被害は大きいようね……」
セリーヌの呟きは、風に溶けるように小さい。だが、その声には確かな重みがあった。
王都の門をくぐると、その実感はさらに強まる。
石造りの建物が連なる通りでは、壁が崩れ、屋根が落ちたままの家屋が目に入った。瓦礫は片付けられつつあるものの、広場の一角には未だ崩落した石材が積み上げられ、通行止めの柵が設けられている。仮設の支柱で辛うじて立っている建物も多く、いつ崩れてもおかしくない緊張感が、街全体を覆っていた。
人々の表情も、どこか沈んでいる。
行き交う住民たちは足早で、談笑する声は少ない。配給を待つ列、修繕のために瓦礫を運ぶ兵士や職人たち。誰もが疲労を抱えながら、それでも前に進もうとしているのが痛いほど伝わってくる。
(……これほどまでに)
セリーヌは胸の奥が、きゅっと締め付けられるのを感じた。
使節として、感情に溺れるわけにはいかない。だが、人として、この惨状を前に心を動かさずにはいられなかった。
胸の奥に、重たい影が落ちる。
暗い気持ちが、じわじわと広がっていく。それでも彼女は、背筋を伸ばした。ここに来た理由は、悔いるためだけではない。謝罪し、償い、そしてこれ以上の悲劇を止めるためだ。
(〈聖女〉様……)
心の中で名を呼び、セリーヌは前を向く。
瓦礫の向こうにそびえる王城は、傷を負いながらもなお、変わらぬ威容を保っていた。そこへ至るこの一歩一歩が、王国と聖教国の未来を繋ぐ道になることを、彼女は信じようとしていた。
王城の正門をくぐった瞬間、空気が一変した。
厳かな静けさと、整えられた秩序。震災の傷跡は城内にも残っているものの、王国の中枢としての威厳は揺らいでいない。セリーヌを先頭とする〈聖女〉の使節団に対し、衛兵たちは槍を交差させることなく、静かに道を開いた。
「〈聖女〉よりの使節団の皆様、ようこそお越しくださいました」
迎えに現れたのは、落ち着いた物腰の青年貴族だった。端正な顔立ちに、控えめながらも隙のない所作。胸元の徽章が、彼が宰相府に連なる者であることを示している。
「私はユーインと申します。宰相補佐の任にある者です。本日より、皆様の滞在に関する責任者を務めさせていただきます」
「お迎えいただき、感謝いたします」
セリーヌが一礼すると、ユーインも同じだけ丁寧に頭を下げた。
「長旅でお疲れのことでしょう。まずは迎賓館へご案内いたします」
城内を進むにつれ、磨き上げられた回廊と、高い天井に吊るされた灯りが視界を流れていく。王城に隣接する迎賓館は、外の喧騒から切り離された静かな空間だった。
「まずは旅の疲れをお取りください」
ユーインは柔らかな声でそう告げる。
「食事と湯の用意は既に整えてあります。必要なものがあれば、遠慮なく侍従にお申し付けください」
その言葉に、同行していた使節たちの表情が、わずかに緩む。
「なお……」
ユーインは一瞬言葉を選ぶように間を置いた。
「陛下への謁見は、明後日を予定しております。それまでは、こちらで静養していただければと」
「承知しました」
セリーヌは落ち着いた声で応じた。内心では、その「明後日」という言葉の重さを噛み締めていた。
案内が一通り終わると、ユーインは改めて一礼する。
「何かございましたら、私にお知らせください」
「お気遣い、痛み入ります。ユーイン卿」
セリーヌははっきりと礼を述べた。その誠実な態度に、ユーインの表情がわずかに和らぐ。
扉が閉じ、迎賓館の一室に静けさが戻る。使節団の面々はそれぞれ荷を解き、思い思いに腰を下ろした。
だが──セリーヌだけは、心から休むことができなかった。
(明後日……)
胸の奥に、張り詰めた糸が絡みつく。自分は〈聖女〉の名を背負って、ここに立っている。言葉一つ、態度一つが、両国の行く末を左右しかねない。
失敗は許されない。感情に流されることも、曖昧な物言いも。
(うまく、やらなければ……)
窓辺に立ち、王都の屋根を見下ろしながら、セリーヌは静かに息を整えた。震災の爪痕を思い出す度、胸が痛む。その痛みこそが、使命の重さを忘れさせない。
やがて彼女は、ゆっくりと外套を外す。
「……今は、休まなくちゃ」
自分に言い聞かせるように呟き、旅装を解いていく。明後日に備え、心と身体を整える必要がある。
重い責任と緊張を胸に抱えたまま、それでもセリーヌはようやく休む準備に入った。
彼女の祈りはただ一つ──この使命を、最後まで果たせますように、という願いだった。
◆
「して、いかがであった?」
執務机から目を上げ、宰相は静かに問いかけた。
補佐役のユーインは一歩前に進み、背筋を正す。
「はい。こちらの対応に対しては、終始丁寧な礼を述べられておりました。……これまで接してきた聖教国の人間とは、どこか違う印象を受けました」
言葉を選びながらの報告だった。
ユーインは元来、聖教国に良い感情を抱いていない。宗教的優越を盾に、表では穏やかに振る舞いながらも、内心ではこちらを見下している──そうした者たちを、これまで幾度となく見てきたからだ。
露骨に態度に出す者も、決して少なくはなかった。
だが、今回の使者セリーヌからは、そうした空気をまったく感じなかった。
その胸中を察しているのだろう。宰相は「ほぅ……」と低く声を漏らし、小さく頷きながら耳を傾けていた。
「なるほど。やはり〈聖女〉からの使者、ということかな」
独り言のようにそう呟き、宰相は指先を組む。わずかに思案の間を置いてから、改めてユーインへと視線を向けた。
「そのことについては、陛下にも伝えよう。引き続き、使者への対応はお前に任せる」
「はっ。承知いたしました」
短く、しかし力強く答えると、ユーインは一礼して執務室を後にした。
扉が閉まった後、宰相はしばしその場に留まり、思索に沈む。
やがて決意したように立ち上がり、王への報告に向かって歩き出した。
〈聖女〉の動きが、いよいよ表に現れ始めている──そんな予感を胸に抱きながら。




