第324話 仮初めの講和、その向こう側
現在、聖教国における実権は、「急進派」と称される一部の枢機卿たちによって掌握されている。彼らは、主の代理人たる教皇がその責務を放棄したこともあり、帝国との交渉に失敗し、その術中にはまり、なしくずしに戦争へと踏み切った。その結果、今日に至るまで権力の座を維持しているのである。
しかしその最中、霊山として崇められてきた西の白き霊峰に魔物が出現したことで、状況は一変した。もはや帝国との戦争どころではなく、否応なく魔物との戦いに注力せざるを得なくなったのだ。とはいえ、帝国と講和したわけではない。帝国もまた、国内の立て直しに追われており、両国は事実上の休戦状態にあるに過ぎなかった。
聖騎士団は、戦争と魔物討伐の双方に駆り出され、権力を握った枢機卿会議は、震災によって甚大な被害を受けた国民を顧みることなく、戦争と魔物に振り回され、余裕を失っていた。
そうした中で、国民の救済に尽力していたのが、〈聖女〉派と呼ばれる一部の聖騎士、そして若手の修道僧や神官たちであった。〈聖女〉は国内復興のために彼らの協力を求め、彼らもまた、〈聖女〉こそが聖教国を導く存在であると認識していた。
その一方で、国民を省みない教皇と枢機卿会議に対する批判の声は、日増しに高まりつつあった。〈聖女〉の協力を得ることも、取り込むこともできない枢機卿会議は、自らの失政を認めることなく、極端な他責思考の末に〈聖女〉の排除を胸中に抱くようになる。
(〈聖女〉の協力は得られず、取り込むこともできない。このままでは我々の立場が危うい)
彼らは、国民や聖騎士たちの間で高まり続ける〈聖女〉への支持に、次第に恐怖を覚えていた。そして、その危険な動きのすべてが〈聖女〉のもとへ筒抜けになっていることに、彼らはまだ気付いていなかった。
〈聖女〉派は枢機卿会議の動向に警戒しつつも、自らの手で聖教国を立て直すという強い気概に満ちていた。〈聖女〉のもとには日々、様々な情報が集まってくる。中でも近頃目立つのは、帝国との戦争を終結させ、国内復興を望む国民の声であり、それは〈聖女〉派の考えとも一致していた。
◆
「──国内では、一刻も早く戦争を終わらせ、復興を望む声が広がっています」
「事ここに至っては、枢機卿会議を排除し、我々がこの国を立て直すべきでは?」
「とはいえ、我々はまだ戦力的に少数だ。軽挙妄動は避けるべきだ」
「しかし、このままでは国そのものが立ち行かなくなるのも時間の問題です」
様々な意見が飛び交う場を離れ、〈聖女〉に仕えるクラリスが報告をまとめる。
「──以上が現在の状況です。一刻も早く国を立て直すためには、教皇と枢機卿会議を排し、周辺諸国との関係修復を図るべきだという空気が強まっています」
「……確かに、その通りですね……」
〈聖女〉は沈んだ表情で呟いた。
「……その件についてですが、少しお耳に入れておきたいことがあります」
セリーヌが口を挟む。
「最近、急激に終戦を望む声が広まった背景には、帝国の策があるのではないかという報告が上がっています」
「……帝国の?」
「はい。あまりにも広まり方が急でしたので、不審に思い調べさせたところ、帝国の間者が潜入している可能性が浮上しました。まだ確たる証拠は掴めていませんが……」
〈聖女〉はしばし考え込み、やがて厳しい表情になる。
「まさか、帝国は……」
「おそらく帝国こそが、我々との講和を望んでいるのではないでしょうか」
「どういうことですか?」
クラリスの問いに、セリーヌが続ける。
「帝国は黒い巨人によって戦力を大きく失い、さらに我が国と同様、魔物の出現への対応を迫られています。戦争が終結すれば、国内復興に注力できる点も同じです。そこに、両国が歩み寄る余地があるのだと思われます」
「では、間者を送り込んでいる理由は……?」
「我が国にも終戦を望む声を広め、講和へと導こうとしているのでしょう」
その言葉に、〈聖女〉は静かに目を閉じた。
聖教国の行く末を左右する選択が、すぐそこまで迫っていることを、彼女は感じ取っていた。
(……確かに、歩み寄る余地はある。しかし、帝国の野心が潰えたわけではないはず……)
〈聖女〉は静かに思考を巡らせる。
(これは仮初めの講和に過ぎない。それでも──民は救われ、この国を立て直すための猶予が得られるのも事実……)
胸の奥に、重く澱んだものが沈む。
(問題は、講和がすんなりと成るかどうか……。帝国は、どのような条件を突き付けてくるつもりなのか……)
〈聖女〉が沈黙の中で考え込む一方、側に控えるクラリスとセリーヌもまた、帝国の思惑を探るべく小声で意見を交わしていた。
「それにしても……なぜ帝国は、わざわざ間者などを送り込んできたのでしょうか?」
クラリスの疑問に、セリーヌが小さく首を傾げる。
「確かに不自然ですね……。あまりにも回りくどい。講和を望むのであれば、正式に使者を送ってくれば済む話ですのに……」
「何を考えているのでしょう……?」
二人の会話を背に、深い思索に沈んでいた〈聖女〉が、ふと顔を上げた。
「……恐らく、我々の側から講和を望むという“形”を取りたいのでしょうね」
その一言に、クラリスとセリーヌは息を呑み、思わず互いの顔を見合わせた。
「この戦争の発端は、枢機卿会議の暴走です。さらに交渉の場でも誤った選択を重ね、帝国に開戦の口実を与えてしまった……」
〈聖女〉は淡々と、しかし確信をもって続ける。
「帝国は自尊心の強い国です。長らく我が国を敵視し、この戦争においても、自らが“許す側”であるという構図を崩したくはないのでしょう」
「……つまり、帝国が我が国を許す、という形で戦争を終わらせたい、と?」
「そうです。そうでなければ、彼らの誇りが傷つく」
セリーヌが眉をひそめる。
「……傲慢にも程がありますね」
〈聖女〉は小さく息を吐いた。
「帝国は本来、そういう国です。自ら講和を口にすることはないでしょう。まして、現状が事実上の休戦状態である今なら、なおさらです」
クラリスが慎重に問いを重ねる。
「しかし……帝国が、あの枢機卿会議を相手に講和を求めるでしょうか?」
「確かに……」
セリーヌが頷く。
「この戦争の責任が枢機卿会議にある以上、簡単にはいかないはずです」
しばしの沈黙の後、〈聖女〉が再び口を開いた。
「……相手による、ということではないでしょうか」
二人の視線が一斉に〈聖女〉へ向く。
「戦争のきっかけを作った枢機卿会議ではなく──別の誰かであれば、ということです」
「……それは……」
クラリスの声が、わずかに震える。
「〈聖女〉様、ということですか?」
「はい」
〈聖女〉は静かに肯いた。
「それであれば、帝国は自尊心を保ったまま我が国と講和を結べる。しかも、“正義を取り戻した聖教国”を導く存在と交渉した、という形も得られる。そうなれば、帝国は優位に立ったまま戦争を終えたと内外に示すことができるでしょう」
その言葉の重みに、室内の空気が張り詰める。
セリーヌは黙って頷き、理解を示した。
「……帝国は、〈聖女〉様が枢機卿会議を排除し、自ら講和を求めてくることを期待している……」
クラリスはそう呟き、ゆっくりと言葉をまとめる。
「帝国にとって、それが最も都合の良い結末……というわけですね」
〈聖女〉は答えず、ただ静かに目を伏せた。
その沈黙は、帝国の思惑の深さと同時に、これから自らが背負うであろう選択の重さを、雄弁に物語っていた。
「……しかし、帝国がどのような条件を突き付けてくるか。それが最大の問題です」
〈聖女〉は、先ほどまで胸中に留めていた懸念を、静かに言葉にした。重く澱んだ沈黙が一瞬、室内を満たす。
「戦争責任を取らせようとするのは、まず間違いありません。謝罪要求に、多額の賠償金……そして、教皇や枢機卿会議の処分まで含めてくるでしょうね」
クラリスは沈んだ表情のまま、低く呟いた。その声には、覚悟と同時に、国が背負わされるであろう重荷への憂慮が滲んでいる。
「ですが……」
今度はセリーヌが一歩踏み込む。
「帝国もまた、不当にラドニアを併合しています。彼らが一方的な被害者であるとは言えません。こちらにも、交渉の場で戦える材料はあるのではないでしょうか」
「確かに、それは事実です」
クラリスも小さく頷く。
「ただ……帝国の思惑にそのまま乗るのは、あまりにも危険です。こちらから講和を望む形を取れば、主導権を完全に握られてしまうでしょう」
「しかし、だからといって何もしないのも……」
セリーヌの言葉が宙に残る。どの選択にも、明確な危険が伴っていた。
〈聖女〉がゆっくりと顔を上げた。
迷いを孕みながらも、その眼差しには確かな意志が宿っている。
「……王国に、仲裁を求めてはいかがでしょうか」
二人は同時に息を呑んだ。
「王国、ですか?」
「はい」
〈聖女〉は静かに続ける。
「幸い、王国との関係は完全に断絶しているわけではありません。まずは王国との関係修復を図り、その上で、帝国との講和に向けた使者を立てるのです」
「第三国を挟むことで、帝国の一方的な要求を抑えられる……」
セリーヌが即座に理解を示す。
「ええ。帝国の条件を丸呑みするのではなく、交渉の場を“均衡”させる必要があります。その際、我が国がこれまでの過ちを認めるべきところは認める。しかし──」
〈聖女〉の声が、わずかに強まった。
「ラドニアの解放については、明確に求めます。それこそが、帝国の侵略性を白日の下に晒す要点になるでしょう」
クラリスはしばらく考え込み、やがて深く頷いた。
「……確かに。我が国単独で講和に動くよりも、王国を介した方がはるかに有利です。帝国も、王国の目がある以上、あからさまな強硬策は取りづらいでしょう」
「帝国の顔も立てつつ、こちらの譲れない一線も守れる……」
セリーヌがそう締めくくる。
三人の視線が自然と重なった。そこにあったのは、容易ではない道を選ぶ覚悟と、それでもなお国と民を救おうとする共通の意思だった。
「では──」
〈聖女〉は静かに宣言する。
「まずは王国へ使者を送り、仲裁を正式に依頼しましょう。聖教国は、独りでこの局面を乗り切ろうとするべきではありません」
その決断は、まだ脆く、しかし確かに未来へと続く一歩だった。




