18
電車が桜木台の駅を離れてから、車内には妙な静けさが残っていた。
先ほどまで阿部恵子が座っていた席と、田中ヨシエが座っていた席。二つの空席が、そこだけ時間の抜け落ちた場所のように並んでいる。
誰もすぐには座ろうとしなかった。
つい数分前まで、そこには顔色を失った女性がいて、その背中を支える老婦人がいた。見知らぬ乗客たちの視線が集まり、声が飛び交い、誰かのために人が動いた場所だった。
けれど、電車は何事もなかったように走っている。
窓の外には、同じようなマンションの灯りが並び、コンビニの看板が一瞬だけ明るく車内を照らして、すぐに後ろへ流れていく。
日常は、戻ってくるのが早い。
大きく動いた心を置き去りにするように、いつもの速度で先へ進んでいく。
木村美咲は、膝の上に置いていた鞄を強く握っていた。
スマートフォンの画面には、現在時刻が表示されている。
午後八時二十二分。
本当なら、もうすぐ駅に着くはずだった。
そこから急いで歩けば、まだ大丈夫だと思っていた。少しくらい遅くなっても、笑って謝れば済むと思っていた。
けれど、電車は止まった。
誰かが体調を崩したのだから仕方がない。そんなことは分かっている。自分だって、さっきの女性のことが心配だった。無事に駅員へ引き渡された時には、心からほっとした。
それでも。
心のどこかで、焦っている自分がいた。
迎えを待っている娘の顔が浮かぶ。
朝、眠たそうな目を擦りながら、「今日は早く来てね」と言った小さな声。
「うん、今日は早く行くよ」
そう答えた自分の声。
約束というほど大げさなものではない。ただの日常の中の、短いやり取りだった。
けれど、子どもにとっては違う。
母親が来る時間は、時計の数字ではなく、安心そのものだ。
美咲は、スマートフォンを持ち上げた。
連絡だけでも入れなくては。
遅くなることを伝えれば、少しは安心するかもしれない。迎え先にも迷惑をかけずに済む。
画面の右上に、小さな赤い表示が見えた。
残量、一パーセント。
「あ……」
思わず、声が漏れた。
朝、充電し忘れていた。
昼休みに気づいていたのに、仕事が立て込み、そのままになっていた。帰りの電車で少し連絡を確認しただけで、もう電池が尽きかけている。
美咲は慌てて連絡先を開き、通話ボタンを押した。
呼び出し音が一回。
二回。
三回。
その間にも、画面の明るさが急に落ちた。
「お願い……」
小さく呟いた時、電話がつながった。
『もしもし?』
聞き慣れた声だった。
「あ、ごめん。今、電車が少し遅れてて。迎えが——」
そこで、画面が暗くなった。
何の前触れもなく、通話が切れた。
美咲は、黒くなった画面を何度も指で叩いた。
反応はない。
電源ボタンを長押しする。
一瞬だけ充電不足のマークが表示され、すぐに消える。
「最悪……」
喉の奥から、震えるような声が出た。
連絡が途中で切れた。
遅れることは伝わったかもしれない。けれど、どれくらい遅れるのかも、どこの駅にいるのかも伝えられていない。
何より、娘の声を聞けなかった。
自分が迎えに来ることを、もう一度ちゃんと伝えたかった。
大丈夫、今向かっているよと。
美咲は周囲を見渡した。
誰かにスマートフォンを借りる。
それだけのことだ。
本当に困っているのなら、頼めばいい。
さっき、あの女性のために何人もの人が動いたではないか。
けれど、自分のことになると、なかなか声が出なかった。
急いでいるだけ。
電池が切れただけ。
そんなことで他人を煩わせていいのだろうか。
隣に立っている会社員は、疲れた顔でスマートフォンを見ている。向かいに座る男性は、イヤホンをつけたまま目を閉じている。少し離れた場所には、先ほど声を上げた静香が、まだ立ったままドアの方を見つめている。
皆、それぞれに疲れている。
それぞれに帰る場所がある。
美咲は、暗くなったスマートフォンを両手で包み込み、唇を噛んだ。
その様子を、山口彩香は見ていた。
彩香の耳には、まだイヤホンが入っていた。
画面では、先ほどまで見ていたライブ映像が一時停止したままになっている。青い照明を浴びた推しの姿が、小さな画面の中で笑っていた。
けれど、彩香の目はもう画面を見ていなかった。
少し前に、車内で女性が倒れかけた時、彩香は何もできなかった。
体が動かなかった。
声も出せなかった。
静香という女性が立ち上がり、池田という男性がしゃがみ込み、少年が紙袋を拾い、老婦人が付き添って降りていくのを、ただ見ていた。
それが悪いことだとは思わない。
誰もがすぐに動けるわけではない。
自分にできることが分からない時だってある。
それでも、胸の奥には、小さな引っかかりが残っていた。
もし自分にも何かできることがあったのなら。
もし、ほんの少しでも手を伸ばせたのなら。
そんなことを考えていた時、美咲のスマートフォンが暗くなるのを見た。
そして、黒い画面を握りしめたまま、泣きそうな顔で周囲を見渡すのを見た。
彩香は、自分の鞄の中にあるものを思い出した。
小さなモバイルバッテリー。
白い本体に、好きなグループのロゴが入ったシールを貼っている。ライブの日には必ず持ち歩くもので、今日もなんとなく鞄に入れたままにしていた。
スマートフォンの充電が切れたら、電子チケットも見られなくなる。写真も撮れなくなる。帰り道で余韻に浸るための動画も見られなくなる。
だから、彩香にとってそれは、ライブへ行く日の小さな必需品だった。
今日はライブの日ではない。
ただ、疲れた自分を励ますために、帰りの電車で過去の映像を見ていただけだった。
彩香は、鞄の中へ手を入れた。
指先に、四角いバッテリーの感触が触れる。
だが、取り出したまま、すぐには声をかけられなかった。
声をかけて、余計なお世話だったらどうしよう。
見ず知らずの人から急に話しかけられたら、困らせるかもしれない。
そもそも、充電器の端子が合うかも分からない。
そんな考えが、次々と浮かんだ。
少し前までなら、それを理由に、彩香はまた画面へ目を戻していたかもしれない。
自分の世界へ戻れば、誰かに拒まれることも、気まずい思いをすることもない。
けれど、目の前にある二つの空席が、彩香の視界の端に入った。
あの席に座っていた女性は、誰かが声をかけたことで、無事に電車を降りることができた。
あの時、川口静香はきっと、怖くなかったわけではない。
怖くても、声を出したのだ。
彩香は、イヤホンを片方だけ外した。
「あの……」
自分の声が、思ったよりも小さかった。
美咲は気づかない。
彩香は、もう一度、少しだけ声を大きくした。
「あの、すみません」
美咲が顔を上げた。
目の前には、少し派手なネイルをした若い女性が立っていた。片手には、小さな白いモバイルバッテリーが握られている。
「もしかして、充電……切れました?」
美咲は、驚いたように目を瞬いた。
「あ……はい。すみません、電話の途中で切れてしまって……」
「これ、使えます。たぶん、ケーブルも合うと思います」
彩香は鞄の中からケーブルを取り出した。何本かまとめて持ち歩いているうちの一本だった。
「え、でも……いいんですか?」
「はい。私、今すぐ使わないので」
彩香は、少しだけ笑った。
本当は、自分でも驚いていた。
知らない人に声をかけることなど、普段ならほとんどない。電車の中では、イヤホンをして、できるだけ誰とも関わらずに過ごすことの方が多い。
それでも、今は声をかけてよかったと思えた。
美咲は、両手でモバイルバッテリーを受け取った。
「ありがとうございます。本当に、助かります」
その声には、先ほどの恵子が紙袋を拾ってくれた悠斗に向けたものと同じような、まっすぐな感謝があった。
彩香は、胸の奥がくすぐったくなるのを感じた。
「いえ……充電、少しつけば電話くらいはできると思うので」
ケーブルをつなぐと、黒かった画面に小さな充電マークが灯った。
美咲は、息を止めるようにして、その光を見つめた。
たった一つの小さなマーク。
けれど今の美咲にとっては、窓の外に流れるどんな夜景よりも明るく見えた。
しばらくして、スマートフォンの電源が入る。
美咲は、すぐに先ほどの番号へ電話をかけた。
今度は、呼び出し音が鳴る前に相手が出た。
『もしもし? 美咲? 途中で切れたから心配したよ』
「あ、ごめん。充電切れちゃって……。電車が少し遅れてて、今向かってる」
『分かった。こっちは大丈夫だから、焦らず来なさい』
その声の向こうから、小さな声が聞こえた。
『ママ?』
美咲の目が、わずかに潤んだ。
「うん。ママだよ」
『まだ?』
「ごめんね。もう少しで着くから。ちゃんと迎えに行くから、待っててね」
『うん。待ってる』
それだけの短い会話だった。
けれど、美咲の身体から、張り詰めていたものが少しずつ抜けていった。
「ありがとう。もうすぐ着くからね」
電話を切った後、美咲は、しばらく画面を見つめていた。
迎えには遅れる。
約束通りの時間には間に合わなかった。
けれど、声を届けることはできた。
待っている娘に、自分は向かっていると伝えることができた。
それだけで、今夜の自分は、少しだけ母親として立ち直れた気がした。
美咲は、彩香に向き直った。
「本当に、ありがとうございました。娘が待っていて……連絡できなかったら、きっと不安にさせてしまっていたので」
「娘さん、起きて待ってるんですね」
「はい。今日は早く行くって言ってしまったので」
美咲は、困ったように笑った。
その笑顔には、疲れと申し訳なさと、それでも娘を思う柔らかさが入り混じっていた。
彩香は、何と返せばいいか少し迷った。
子どもを育てたことはない。
迎えを待つ誰かが家にいる生活も、自分にはまだ分からない。
けれど、その女性が今、どれほど帰りたがっているのかは分かった。
「きっと、声が聞けただけでも安心してると思います」
彩香は、ゆっくりと言った。
「私も……待ってる時って、声が聞けるだけで、ちょっと安心するので」
美咲は、その言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
「そうですよね」
それ以上、二人は何も話さなかった。
だが、沈黙は気まずいものではなかった。
美咲はスマートフォンを充電しながら、窓の外を見た。
彩香は、片方だけ外していたイヤホンを、すぐには耳に戻さなかった。
それまで彼女にとって、電車の中は、自分を守るために音楽で閉じる場所だった。
疲れた日には、推しの声を聞く。
嫌なことがあった日には、ライブ映像を見る。
自分のことを誰も知らない車内で、画面の中の笑顔に救われる。
それは、決して逃げではなかった。
誰かを好きでいることによって、自分の心を支えることは、彩香にとって必要なことだった。
けれど今日、彼女は初めて気づいた。
自分を支えてくれていたものが、いつか誰かを支えることもあるのだと。
ライブのために持ち歩いていたモバイルバッテリーが、今、母親と娘の声をつないだ。
自分が大切にしてきたものが、知らない誰かの大切な時間を守った。
それは、彩香にとって、これまでとは少し違う嬉しさだった。
少し離れた場所で、松本健太は、その二人の姿をスケッチブックの端へ描き加えていた。
モバイルバッテリーから伸びる細いコード。
その先にあるスマートフォンを、大切そうに握る女性の手。
そして、その横で、イヤホンを片方だけ外したまま立つ若い女性。
目立つ場面ではない。
倒れた人を助けるほど劇的でもない。
けれど、健太には、その細いコードが、ただの充電ケーブルには見えなかった。
それは、知らない者同士の間に一瞬だけ伸びた、細く頼りない、けれど確かな線だった。
絵に描くには、あまりにささやかな線。
けれど、今の自分には、それがとても大切なものに思えた。
鉛筆の先が、紙の上を走る。
今度の線は、先ほどより少しだけ迷いがなかった。
村田聡もまた、二人を見ていた。
少し前までの彼なら、きっとこう分析していただろう。
若い女性は、困っている母親に充電器を貸した。
母親は、娘への連絡が取れて安心した。
ただそれだけの、小さな出来事だと。
だが、今は違った。
声をかける前に、若い女性がどれほど迷ったのか。
電話がつながった瞬間、母親の肩からどれほど力が抜けたのか。
イヤホンを外した女性が、なぜすぐにそれを戻さなかったのか。
それらは、表情だけを眺めていて分かるものではなかった。
人は、ただそこに座っているだけでは、何も起きていないように見える。
だが、その胸の中では、誰かへ手を伸ばすか、伸ばさないかという小さな選択が、何度も繰り返されている。
それに気づいた時、村田は初めて、自分の手の中にあるスマートフォンがひどく重く感じられた。
画面を見ているふりをして、また観察者の場所へ戻ろうとしていた自分。
安全な場所から、人の変化だけを眺めている自分。
村田は、スマートフォンの画面を消した。
そして、初めて、目の前の吊り革につかまって立っている坂本竜司に声をかけた。
「あの」
坂本が振り向く。
「はい?」
村田は、一瞬だけ言葉に詰まった。
何を話したいのか、自分でも分かっていなかった。
ただ、黙ったまま再び一人の世界へ戻ることが、少しだけ嫌だった。
「さっき……すぐ動かれていましたよね」
坂本は、自分のことを言われていると理解するまで、少し時間がかかった。
「俺ですか?」
「はい。荷物を動かしたり、あの少年に声をかけたり」
坂本は、照れたように首の後ろを掻いた。
「いや、何もしてないですよ。あの女の人が声かけて、あのおばあちゃんが一緒に降りて。俺は本当に、ちょっと立ってただけです」
「それでも」
村田は言った。
「何もしなかった自分から見ると、違います」
坂本の表情から、笑みが消えた。
代わりに、少し戸惑ったような、少し寂しそうな顔になった。
「……俺も、普段は何もせんことの方が多いですよ」
「そうなんですか」
「怖がられることもあるし。俺が近づいたら、かえって嫌がられるかなって思うこともあるんで」
坂本は、自分の腕に見えるタトゥーへ、無意識に視線を落とした。
村田は、何も言えなかった。
自分も、最初にこの男を見た時、少し警戒した。
乱暴そうだ。
人に関わるのを嫌いそうだ。
そんなふうに、何も知らないまま決めつけていた。
「でも今日は」
坂本は、遠ざかっていく窓の外を見ながら言った。
「あの細い女の人が、あんな大きい声を出したから。なんか、俺も立たなあかん気がしたんですよね」
村田は、ドアの近くに立つ静香を見た。
彼女は、まだ自分が誰かの行動を動かしたことに気づいていないようだった。
小さく俯きながら、走る電車の揺れに身体を合わせている。
「声って、届くんですね」
村田が呟いた。
坂本は、少しだけ笑った。
「届く時は、届くんでしょうね」
次の駅を告げる放送が流れた。
電車は、またゆっくりと速度を落としていく。
木村美咲は、借りたモバイルバッテリーを大切そうに手にしたまま、ドアの近くへ移動した。
「次で降ります」
彩香に向かって言う。
「充電器、ありがとうございました」
「もう大丈夫ですか?」
「はい。連絡できたので、大丈夫です」
美咲は、もう一度、深く頭を下げた。
「娘に会ったら、今日、知らないお姉さんに助けてもらったって話します」
彩香は、恥ずかしそうに笑った。
「そんな、大げさなことじゃないです」
「大げさじゃないです」
美咲は、はっきりと言った。
「私にとっては、本当に助かりました」
ドアが開いた。
美咲はホームへ降りる。
その足取りは、電車が止まった直後よりも、ずっと力強かった。
彼女はきっと、この後、駅の階段を急いで上り、少し息を切らしながら、待っている娘のもとへ向かうのだろう。
そして、遅くなってごめんねと言いながら、小さな身体を強く抱きしめるのだろう。
彩香は、閉まるドアの向こうに美咲の背中が見えなくなるまで、静かに見送った。
その手の中には、返してもらったモバイルバッテリーがある。
同じ白い箱。
同じシール。
同じケーブル。
けれど、彩香には、それが少しだけ違うものに見えた。
山口彩香の中にいた「君」は、画面の中の光に救われるだけの存在ではなくなっていた。
自分を支えてくれた光を、ほんの少し、誰かへ手渡すことのできる存在になっていた。
木村美咲の中にいた「君」は、遅れてしまった自分を責めるだけの母親ではなく、助けを受け取りながら、それでも待っている娘のもとへ帰ろうとする母親だった。
松本健太の中にいた「君」は、何も描けない空白の中から、人と人の間に生まれる細い線を見つけ始めていた。
そして、村田聡の中にいた「君」は、ようやく、観察する側から降りようとしていた。
電車には、人が乗り、人が降りる。
一緒にいる時間は短い。
名前を聞くこともなく、二度と会わないことの方が多い。
それでも、その短い時間の中で、誰かの声が届き、誰かの手が伸び、誰かがほんの少しだけ救われることがある。
夜の電車は、また一人をホームへ降ろし、新しい乗客を乗せて走り出した。
そして、その車内で生まれた小さな温度だけは、まだ消えずに残っていた。




