20
川口静香が降りた後のドアを、松本健太はしばらく見つめていた。
電車が速度を上げるにつれ、青葉町のホームは暗闇の向こうへ遠ざかっていく。さっきまで窓の向こうにいた静香の姿も、もう見えない。
けれど、健太の手元には、彼女を描いたページが残っていた。
そして静香の手元には、そのページの写真が残っている。
同じ電車に乗り合わせただけの二人が、互いの中に小さな痕跡を残して、別々の夜へ戻っていった。
健太は鉛筆を握り直した。
描きたいものは、まだ車内に残っているような気がした。
その時だった。
短く、震える音がした。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
スマートフォンの振動音だった。
音の方へ目を向けたのは、健太だけではない。
村田聡もまた、すぐ近くに立つ藤田悠斗の手元を見ていた。
悠斗は、両手でスマートフォンを握りしめている。
通知が届くたびに、画面が白く光る。
けれど、悠斗はそれを開こうとしなかった。
先ほど、阿部恵子の紙袋を拾った時の彼は、震えながらも、確かに誰かの前へ進んでいた。
恵子から礼を言われた時には、ほんのわずかではあったが、その表情に温度が戻っていた。
だが今、その顔は再び青白くなっている。
むしろ、電車が止まっていた時よりも、ずっと苦しそうだった。
村田は、悠斗の手元を見た。
見ようとしたわけではなかった。
ただ、通知によって画面が光るたび、そこに短い言葉が表示されてしまう。
『既読つけろよ』
画面が消える。
また震える。
『次、降りる駅だろ』
悠斗の指が、さらに強くスマートフォンの端を握った。
次の通知が表示される。
『改札で待ってるから』
村田は、息を止めた。
先ほどまで、自分は人の表情を見て、その奥にあるものを想像することを楽しんでいた。
疲れている。
寂しい。
怒っている。
幸せなのだろう。
勝手に心の中で名前をつけ、分かったような気になっていた。
だが今、目の前にいる少年が抱えているものは、想像で眺めて済ませられるものではなかった。
これは、今まさに彼を追い詰めている何かだ。
村田は、声をかけようとして、ためらった。
声をかけていいのだろうか。
知らない大人に突然踏み込まれたら、この少年はもっと怯えるかもしれない。
見ないふりをした方が、彼にとっては楽なのかもしれない。
けれど、その考えが浮かんだ瞬間、村田は自分に嫌気がさした。
また、自分が傷つかない場所へ戻ろうとしている。
相手のためだという顔をして、本当は関わることを恐れているだけではないのか。
悠斗のスマートフォンが、また震えた。
今度は、彼の指が反射的に画面を消した。
その動きが、あまりにも必死だった。
村田は、ゆっくりと口を開いた。
「大丈夫ですか」
悠斗の肩が、びくりと揺れた。
顔を上げる。
目が合った瞬間、悠斗は慌ててスマートフォンを制服のポケットへ押し込んだ。
「……大丈夫です」
それは、考えて答えた言葉ではなかった。
何度も繰り返してきた言葉だった。
教師に聞かれた時。
家族に聞かれた時。
クラスの誰かが、冗談半分に気づいたふりをした時。
大丈夫です。
別に何もありません。
そう言えば、その場は終わる。
何も変わらない代わりに、それ以上傷つくこともない。
村田には、その言葉が、あまりにも薄く聞こえた。
「そうですか」
一度は、そう返した。
無理に聞き出すことはできない。
自分には、この少年との関係など何もない。
けれど、悠斗のポケットの中で、またスマートフォンが震えた。
悠斗は、その振動を止めようとするかのように、ポケットの上から手を強く押し当てた。
村田は、もう一度だけ言った。
「次の駅で、降りるんですか」
悠斗の目が、わずかに動いた。
車内放送が流れる。
「次は、霞ヶ丘、霞ヶ丘です」
その駅名を聞いた瞬間、悠斗の唇から色が失われた。
村田には、それで十分だった。
「降りたくないんですか」
悠斗は答えなかった。
ただ、俯いたまま、両肩を震わせていた。
少し離れた場所で、坂本竜司も二人の様子に気づいていた。
彼は、すぐに近づこうとして、止まった。
自分がいきなり近づけば、少年を余計に怖がらせるかもしれない。
そのことを、坂本はよく知っていた。
見た目だけで距離を取られることには、もう慣れている。
それでも、今は離れたまま見ているのも違う気がした。
坂本は、少年を驚かせないように、少し距離を残したまま声をかけた。
「なあ」
悠斗が、ゆっくりと顔を向ける。
坂本は、なるべく穏やかに言った。
「降りたくないなら、降りんでええんちゃうか」
その言葉を聞いた瞬間、悠斗の表情が歪んだ。
「でも……」
初めて、声が出た。
掠れた、小さな声だった。
「降りなかったら……明日、もっと……」
最後まで言えなかった。
言葉にしてしまえば、本当に怖くなる。
自分が受けていることが、ただの冗談でも、我慢すれば終わることでもなくなってしまう。
悠斗は、ずっとそう思っていた。
今日だけ耐えればいい。
この時間だけやり過ごせばいい。
言われた通りにすれば、酷くならないかもしれない。
笑って流せば、空気を壊さずに済むかもしれない。
けれど、何度そう思っても、終わらなかった。
むしろ、少しずつ、自分の中から何かが削られていった。
家を出るのが怖い。
学校へ向かう電車に乗るのが怖い。
通知音が鳴るのが怖い。
笑い声が聞こえるだけで、自分のことを笑われているように感じる。
それでも、誰にも言えなかった。
言えば、自分が弱い人間になってしまう気がした。
「明日、もっと何かされるかもしれないんですね」
村田は、静かに言った。
悠斗は答えなかった。
答えられなかった。
その沈黙を、村田は否定しなかった。
「怖いですよね」
悠斗の目が、揺れた。
怖い。
その言葉を、自分の代わりに誰かが口にした。
その瞬間、これまで必死に押し込めていたものが、喉の奥まで一気に上がってきた。
「……怖いです」
声が震えた。
「降りたくないです」
その一言を言うだけで、悠斗の目から涙がこぼれた。
彼は慌てて顔を伏せた。
泣いているところを見られたくなかった。
男なのに。
高校生なのに。
たった数人に何か言われているだけなのに。
そんな思いが、また自分を責めようとする。
けれど、その時、坂本が低い声で言った。
「怖い時に、怖いって言えるんは、弱いことちゃうで」
悠斗は、顔を上げられないまま、その言葉を聞いた。
坂本は続けた。
「俺は、何があったか知らん。だから、簡単に大丈夫やとも言えん。でも、嫌なところに一人で降りる必要はないと思う」
村田も頷いた。
「次の駅で降りなくてもいいです。次の大きな駅で、駅員さんに相談することもできます。家の人に電話することもできます」
「でも……お母さんには……」
悠斗の声が、さらに小さくなる。
「言ってないんです。学校で、こんなことになってるって」
「言いたくないですか」
「……心配かけたくないし」
悠斗は、ポケットの中のスマートフォンを握った。
「それに……言ったら、学校に連絡するとか、先生に言うとか……大ごとになるから」
村田は、すぐには答えなかった。
大ごとにしたくない。
その気持ちは分かる。
誰かに助けを求めれば、今まで隠してきたことが明るみに出る。
自分が耐えていた時間も、自分が傷ついていたことも、周りに知られてしまう。
それは、傷つけられることとは別の怖さを持っている。
「大ごとにしたくない気持ちは、分かります」
村田は言った。
「でも、あなたが怖い思いをしながら一人で降りることより、今夜だけでも安全な場所に行くことの方が大事だと思います」
悠斗は、何も言わなかった。
電車の速度が、ゆっくりと落ちていく。
霞ヶ丘のホームが近づいていた。
窓の外に、駅の照明が見える。
その光を見た瞬間、悠斗の呼吸が浅くなった。
ポケットの中のスマートフォンが、また震えた。
今度は、悠斗は取り出さなかった。
それでも、自分を待っているであろう相手の顔が、はっきりと浮かぶ。
改札の前で笑っている顔。
逃げたらどうなるかを、楽しそうに話す声。
明日、教室の扉を開けた瞬間に向けられる視線。
怖い。
けれど、降りなければならない。
いつもなら、そう思っていただろう。
逃げても意味がない。
抵抗すればもっと酷くなる。
だから、言われた通りにするしかない。
悠斗はずっと、そうやって自分を納得させてきた。
電車が、霞ヶ丘の駅へ入っていく。
ホームに立つ人々が、窓の向こうを流れる。
その中に、悠斗は見覚えのある制服を見つけた。
三人。
柱のそばに立ち、スマートフォンを見ながら、時折こちらへ視線を向けている。
悠斗の身体が、固まった。
「……いる」
声にならないほど小さく、そう呟いた。
村田は、窓の外を見た。
どの人物がそうなのかは分からない。
けれど、悠斗の身体が伝えている恐怖だけは、疑いようがなかった。
ドアの上のランプが点滅する。
まもなく、扉が開く。
悠斗の足が、無意識にドアの方へ向かいかけた。
降りなければ。
そうしなければ。
身体に染みついた命令が、彼を動かそうとする。
その時だった。
「降りなくていい」
村田の声が、はっきりと聞こえた。
悠斗の足が止まった。
村田は、少年の前に立ちはだかるのではなく、隣に立った。
逃げ道を塞ぐためではなく、一人にしないために。
「あなたが決めていいんです」
坂本も、少し離れた場所から頷いた。
「今日は、降りんでええ」
ドアが開いた。
夜の冷たい空気が車内へ流れ込む。
ホームの柱のそばにいた三人のうち、一人が、車内を覗き込むように顔を上げた。
悠斗と目が合った。
相手の表情が変わる。
スマートフォンを操作する手が動く。
悠斗のポケットの中で、すぐに振動が鳴った。
一度。
二度。
三度。
呼び出されるように、責め立てられるように、振動が続く。
悠斗は、ドアの向こうを見ていた。
いつもなら、ここで降りていただろう。
怖くても、足を動かしていた。
相手の顔色を窺いながら、笑われても、命令されても、自分が悪いのだと思いながら。
けれど今、彼の隣には村田がいた。
少し後ろには坂本がいた。
座席では、池田剛がスマートフォンを持ったまま、こちらを見ていた。
さらに奥では、松本健太が鉛筆を止め、心配そうに視線を向けている。
皆、名前も知らなかった人たちだ。
自分の学校も、家も、過去も知らない。
明日以降、自分がどうなるのかを代わりに背負ってくれるわけでもない。
それでも今、この瞬間だけは、自分が一人ではないと思えた。
悠斗は、震える足を、一歩だけ後ろへ下げた。
ホームから。
開いたドアから。
自分を待つ恐怖から。
逃げたのではない。
少なくとも、今夜の悠斗は、そう思いたかった。
自分を守るために、自分で選んで下がったのだ。
ホームにいた一人が、何かを言った。
声は車内まで届かなかった。
ただ、口元が歪み、スマートフォンを手にこちらを睨んでいるのが見えた。
悠斗は、視線を逸らした。
ドアが閉まる。
扉のガラス越しに、三人の姿が切り取られる。
一瞬、逃げ場を失ったような恐怖が胸を締め付けた。
明日はどうなる。
次はどうなる。
そんな考えが、すぐに頭の中へ押し寄せてくる。
けれど、電車は動き始めた。
三人の姿が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
今まで降りなければならないと思っていた駅を、電車が通り過ぎていく。
悠斗は、震える息を吐いた。
そして、その場にしゃがみ込みそうになる身体を、必死に支えた。
「大丈夫ですか」
村田が、そっと声をかける。
悠斗は、首を横に振った。
今度は、大丈夫ですとは言わなかった。
「……大丈夫じゃないです」
その言葉を聞いた村田は、小さく頷いた。
「そうですよね」
否定しなかった。
励まそうともしなかった。
すぐに良くなるとも、気にするなとも言わなかった。
ただ、大丈夫ではない悠斗を、そのまま受け止めた。
それだけで、悠斗の涙はまた溢れた。
池田剛が、少し離れた席から立ち上がった。
「次の駅、駅員さんがいるところですよね」
車内の路線図を見ながら言う。
「たぶん、次の中央口駅なら駅員室があります。そこで一度、落ち着ける場所に案内してもらった方がいい」
池田の声は、仕事の指示を出す時のように整理されていた。
けれど、そこに苛立ちはなかった。
急かすのではなく、目の前の少年が選べる道を一つずつ見える形にしているだけだった。
悠斗は、涙を拭うことも忘れて、池田を見た。
「駅員さんに……何て言えばいいんですか」
「怖くて、自分の駅で降りられなかったと言えばいいです」
村田が答えた。
「全部を一度に説明しなくていい。まず、安全な場所にいたいと言えばいいんです」
「家には……」
悠斗の声が詰まる。
坂本が、静かに言った。
「電話するかどうかも、今すぐ全部決めんでええ。でも、迎えに来てもらえる人がおるなら、頼ってもええと思う」
悠斗の脳裏に、母親の顔が浮かんだ。
朝、玄関で「行ってきます」と言った時、何も知らずに「気をつけてね」と答えた母親。
夕食を用意して待っているかもしれない。
帰りが遅いと、心配して連絡してくるかもしれない。
言えないと思っていた。
言ったら、迷惑をかけると思っていた。
自分がもっと我慢すれば済むことだと思っていた。
けれど、今日、電車の中で見た。
具合が悪くなった女性は、知らない人たちに支えられて電車を降りた。
充電が切れた母親は、知らない女性から小さな電池を借りて、娘に声を届けた。
声を出せなかった静香は、声を出したことで、誰かに見つけられた。
誰かに頼ることは、負けることではないのかもしれない。
悠斗は、ポケットからスマートフォンを取り出した。
通知は、さらに増えていた。
画面いっぱいに並ぶ言葉を見た瞬間、また胸が苦しくなる。
けれど、今度は画面を隠さなかった。
通知を閉じ、連絡先を開く。
『母』
その文字の上で、指が止まった。
押せない。
怖い。
何を言えばいいか分からない。
もし怒られたら。
なぜもっと早く言わなかったのかと責められたら。
心配させたくなかった自分の気持ちまで、間違いだったことになったら。
悠斗の指は、長い間、画面の上で震えていた。
「最初は、一言でいいと思います」
村田が言った。
「迎えに来てほしい、とか。今、一人で帰るのが怖い、とか」
悠斗は、唇を噛んだ。
そして、通話ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
その短い時間が、ひどく長く感じられた。
三回目の前に、電話がつながった。
『もしもし、悠斗? どうしたの? もう帰ってくる時間でしょう』
聞き慣れた母親の声。
それだけで、悠斗の喉が詰まった。
「あ……」
言葉が出ない。
電話の向こうで、母親の声が少し変わった。
『悠斗? 何かあったの?』
「お母さん……」
その呼び方を口にした瞬間、悠斗の中で堪えていたものが崩れた。
「ごめん……迎えに、来てほしい」
『どこにいるの?』
「電車……乗ってて……次、中央口駅で……」
『分かった。すぐ行く』
母親の声には、問い詰める響きはなかった。
なぜなのか。
何があったのか。
そう聞くより先に、ただ、すぐ行くと言った。
悠斗は、手で口元を押さえた。
涙が止まらなかった。
「ごめん……」
『謝らなくていいから。駅に着いたら、明るいところにいて。駅員さんのいるところに行ける?』
「……うん」
『電話、切らなくてもいいよ。お母さん、ずっとつないでるから』
悠斗は、声を出さずに頷いた。
電話の向こうには見えないのに、それでも何度も頷いた。
村田は、そっと悠斗から距離を取った。
もう、自分が声をかけ続ける必要はなかった。
少年の手の中には、今、彼を迎えに来ようとしている人の声がある。
坂本も、何も言わずに窓の外へ顔を向けた。
池田は、路線図で中央口駅までの時間を確認し、そのまま静かに席へ戻った。
健太は、スケッチブックの上に鉛筆を置いたまま、描くのを止めていた。
今の悠斗の姿は、簡単に絵にしていいものではないように思えた。
描きたいのではなく、見届けたい。
初めて、そう思った。
電車は、夜の街を走っていく。
先ほど通り過ぎた霞ヶ丘の駅は、もう見えない。
けれど、悠斗の中には、まだ恐怖が残っている。
明日から何もかも解決するわけではない。
通知が消えるわけでもない。
学校へ行くことへの怖さが、すぐに消えるわけでもない。
それでも、彼は今夜、初めて降りなかった。
初めて、自分が怖いと思う場所から離れることを選んだ。
初めて、大丈夫ではないと言った。
初めて、母親に迎えに来てほしいと頼んだ。
電車の窓には、暗い外の景色と、車内の灯りが重なって映っていた。
その窓の中で、悠斗は電話を耳に当てたまま、涙を拭っている。
声はまだ震えている。
身体もまだ震えている。
けれど、彼の足はもう、恐怖に命令されるままではなかった。
藤田悠斗の中にいた「君」は、傷つくことに耐え続けるしかない、弱い存在ではなかった。
怖いと言い、大丈夫ではないと言い、誰かに迎えに来てほしいと願うことのできる存在だった。
それは、誰かに守られるだけの弱さではない。
これ以上、自分を一人で傷つけさせないための、精一杯の強さだった。
そして、村田聡の中にいた「君」は、ようやく観察者の席を立っていた。
人の心は、眺めて想像するためにあるのではない。
目の前で震えている誰かがいるなら、分からないままでも、声をかけることができる。
答えを持っていなくても、隣に立つことはできる。
電車は、まもなく中央口駅へ着く。
ホームの先には、まだ姿の見えない母親が、少年の声を頼りにこちらへ向かっている。
夜の電車は、一人の少年を、怖い場所から少しだけ遠ざけた。
そして同時に、彼がもう一度、自分の人生へ戻るための場所へと、静かに運んでいた。




