17
電車が動き出した瞬間、誰もが少しだけ息を吐いた。
車輪がレールの継ぎ目を踏む音。窓の外を流れ始めた灯り。止まっていた日常が、何事もなかったかのように再び進み始める。
けれど、阿部恵子の周りだけは、まだ動き出していなかった。
田中ヨシエに背中を支えられながら、恵子は座席に身体を預けている。顔色は先ほどより少し戻っていたが、唇にはまだ力がない。
「次の駅で、駅員さんに来てもらえるそうです」
通話装置から離れて戻ってきた川口静香が、そう伝えた。
その声は、さっきよりも小さかった。
大きな声を出したことで、全身の力を使い果たしてしまったようだった。けれど、静香は自分の席には戻らなかった。戻れば、また元のように、誰にも気づかれない場所へ消えてしまう気がした。
恵子は、紙袋を胸に抱いたまま、静香を見上げた。
「本当に……ありがとうございました」
「いえ……私は、ただ……」
静香は言葉に詰まった。
ただ、気づいただけ。
ただ、声を出しただけ。
そう言おうとした。
けれど、それがどれほど難しかったかを、静香自身が一番よく知っていた。
「座りますか?」
ヨシエが、恵子の隣に少しだけ場所を空けて言った。
静香は慌てて首を振った。
「私は、大丈夫です」
「そうですか」
ヨシエは無理に勧めなかった。
ただ、静香を見る目は穏やかだった。その視線には、無遠慮な好奇心も、形だけの感謝もなかった。静香が今ここに立っていることを、そのまま受け入れているような目だった。
静香は、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
向かい側の吊り革につかまったまま、池田剛は携帯電話の画面を見ていた。
画面には、何件もの通知が溜まっている。
上司からの連絡。
同僚からの確認。
明日の会議資料についての催促。
少し前までなら、電車が止まったことに苛立ち、運が悪いと舌打ちし、遅れた理由を誰かのせいにしていたかもしれない。
実際、数分前まではそうだった。
仕事では、部下の動きが遅いことに腹を立てる。家庭では、妻の言い方に腹を立てる。電車が遅れれば鉄道会社に腹を立てる。自分の思い通りに進まないあらゆるものに対して、彼はいつも怒りという形で反応していた。
けれど、目の前で顔を青くした女性を見た時、怒る暇などなかった。
身体が勝手に動いた。
自分でも意外だった。
通知の一つが、画面上に表示された。
妻からだった。
『帰り、牛乳買える? 無理なら大丈夫』
ほんの短い文だった。
池田はしばらく、その文字を見つめた。
いつもなら、疲れているのに面倒だと思っただろう。
なぜ自分ばかり、と感じたかもしれない。
だが今は、少し違って見えた。
無理なら大丈夫。
その言葉の中には、妻が彼を気遣っている時間があった。自分は、それに気づこうとしていただろうか。
池田は、ゆっくりと文字を打った。
『買って帰る。少し電車が遅れてる』
送信ボタンを押した後、少し迷って、もう一文を付け足した。
『何か他にいるものある?』
送信した直後、気恥ずかしさのようなものが湧いた。
たったそれだけのことなのに。
だが、そのたったそれだけのことを、彼は長い間してこなかったのかもしれない。
電車は、速度を落とし始めていた。
次の駅が近づいている。
車内放送が流れる。
「次は、桜木台、桜木台です。体調の優れないお客様がおられますため、駅係員が対応いたします。お急ぎのお客様にはご迷惑をおかけいたします」
恵子の肩が、わずかに縮こまった。
自分のせいで、電車が遅れる。
自分のせいで、知らない人たちの帰宅を遅らせる。
そんな申し訳なさが、表情に滲んだ。
「すみません……皆さん、お疲れなのに……」
「そんなこと、気にしなくていいですよ」
ヨシエがすぐに言った。
その声は、諭すようでも、慰めるようでもなかった。
当然のことを言っているだけのような声だった。
「具合が悪い時は、お互い様です。電車はまた走ります。でも、あなたの身体は一つしかないでしょう」
恵子は、紙袋を抱く指に力を込めた。
その隣で、藤田悠斗は俯いたまま立っていた。
もう、自分にできることは何もない。
紙袋を拾った。それだけで十分だ。これ以上ここに立っていると、むしろ邪魔かもしれない。
そう思って席へ戻ろうとした時だった。
恵子が、悠斗へ顔を向けた。
「さっき……本当にありがとうね」
突然声をかけられ、悠斗の身体が固まった。
「い、いえ……」
「大事なものが入ってたから。拾ってくれて、助かりました」
大事なもの。
悠斗は、紙袋の中に一瞬見えた冊子を思い出した。
それはきっと、この女性にとって、これまでの人生を変えてしまうほど大切なものなのだろう。
自分は、それを拾った。
ただ落ちたものを拾っただけなのに、彼女はこんなにも真剣に礼を言ってくれている。
悠斗は、どう返せばいいのか分からなかった。
だから、ほんの少しだけ頭を下げた。
すると、隣に立っていた大柄な男が、悠斗の肩越しに言った。
「ちゃんと動けるの、えらいな」
悠斗は驚いて顔を上げた。
黒い半袖のシャツから、腕に入ったタトゥーが覗いている男。最初に車内で見かけた時、怖い人だと思った。目を合わせてはいけない種類の人だと、勝手に決めつけていた。
坂本竜司だった。
坂本は、車内の隅に置いてあった恵子の小さな荷物を手に取ると、通路の邪魔にならない位置へ寄せていた。
「俺なんか、何したらいいか分からんくて、立ってただけやからな」
坂本はそう言って、少し照れくさそうに笑った。
悠斗は、ますます何も言えなくなった。
怖いと思った相手が、自分に向かって笑っている。
それも、馬鹿にする笑いではない。
学校で向けられる笑いとは、まったく違う。
「あ……」
声を出そうとして、やはり詰まった。
けれど、何も返さないのは嫌だった。
悠斗は、勇気を振り絞るように、小さく言った。
「ありがとうございます」
坂本は、一瞬きょとんとした後、口元を緩めた。
「俺、何もしてないで」
「でも……」
悠斗は、それ以上続けられなかった。
それでも坂本は、何も急かさず、ただ一度頷いた。
その様子を、村田聡は少し離れた場所から見ていた。
先ほどまで、彼にとってこの車両は、一つの観察対象だった。
疲れた会社員。
幸せそうな女性。
孤独な老人。
自信のなさそうな少年。
目立たない女性。
強面の男。
乗客たちを眺め、それぞれが抱えているであろうものを想像する。それは彼にとって、退屈な帰路を少しだけ面白くする遊びだった。
自分は、人より少しだけ、人のことが見えている。
そう思っていた。
だが、彼は静香が立ち上がるとは思わなかった。
池田があんなにも素早く動くとも思わなかった。
タトゥーの男が、あれほど柔らかく少年に声をかけるとも思わなかった。
そして、自分自身が何もできず、ただ見ていただけであることにも、今まで気づいていなかった。
観察することと、理解することは違う。
理解することと、手を差し伸べることは、もっと違う。
窓ガラスに映る自分の顔を見た。
いつもと同じ、感情の読み取りにくい顔だった。
人の心を見ているつもりで、自分だけは安全な場所から一歩も動いていなかった。
電車が、ホームへ滑り込んだ。
ドアの向こうでは、制服を着た駅員が二人、待機しているのが見えた。
扉が開く。
冷たい夜の空気が、車内へ流れ込んできた。
「体調を崩されたお客様は、こちらですね」
駅員が駆け寄ってくる。
恵子は立ち上がろうとしたが、足元がまだ頼りなかった。
「私、ついて行きます」
ヨシエが言った。
恵子は目を見開いた。
「でも……ご予定が……」
「急ぐ用事はありません」
ヨシエは、膝の上に置いていた鞄を肩に掛けた。中には、編みかけの小さなベストが入っている。
本当は、帰れば一人の部屋が待っているだけだった。
今夜中に編み進めなくてはいけない理由もない。
それなら、目の前で不安そうにしている若い女性に付き添う方が、ずっと大切なことのように思えた。
「ご主人が来られるまで、隣にいますよ。知らないおばあちゃんでよければ」
恵子は、堪えるように唇を噛んだ。
「……ありがとうございます」
声が、震えていた。
恵子とヨシエが、駅員に支えられながらホームへ降りていく。
その時、恵子は振り返った。
車内には、ついさっきまで知らなかった人たちがいる。
静香。
悠斗。
池田。
坂本。
そして、名前も知らない何人もの乗客。
「本当に……ありがとうございました」
恵子は、深く頭を下げた。
ドアの近くに立っていた静香も、ぎこちなく頭を下げた。
その拍子に、目から一粒だけ涙が落ちた。
なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。
ただ、あの女性が無事に電車を降りられたことが嬉しかった。
自分の声が届いたことが、まだ信じられなかった。
ドアが閉まる。
ホームに残った恵子とヨシエの姿が、ゆっくりと後ろへ遠ざかっていく。
それを見送りながら、松本健太は、鞄の中から小さなスケッチブックを取り出していた。
描けない日が続いていた。
何を描いても空っぽで、自分にはもう何も残っていないような気がしていた。
けれど今、描きたいと思った。
止まった電車の中で、見知らぬ人が立ち上がった瞬間を。
拾われた紙袋を。
怖そうに見えた男の笑顔を。
泣きそうな顔で、初めて誰かを助けた女性を。
健太は、震える電車の中で鉛筆を走らせた。
最初の一本の線は、ひどく歪んでいた。
それでも、彼は消さなかった。
電車は、また夜の中を走り始める。
二人が降りたことで、車内にはわずかな空席が生まれていた。
けれどそこには、誰かがいた痕跡が、確かに残っていた。
川口静香の中にいた「君」は、声を出すことで、誰かの孤独に触れた。
藤田悠斗の中にいた「君」は、感謝されることで、自分にも誰かを支えられる瞬間があると知った。
池田剛の中にいた「君」は、怒りではなく、気遣いの言葉を選ぼうとした。
坂本竜司の中にいた「君」は、見た目では届かなかった優しさを、ほんの少しだけ誰かに届けた。
田中ヨシエの中にいた「君」は、降りるはずではなかった駅で、知らない命の傍らに立つことを選んだ。
そして、村田聡の中にいた「君」は、ようやく気づき始めていた。
人は、眺めているだけでは分からない。
同じ電車に乗っているだけでは、触れられない。
けれど、ほんの一歩、自分の場所から踏み出した時。
見知らぬ誰かの人生は、一瞬だけ、自分の人生と重なるのだ。
村田は、閉じられたドアを見つめていた。
次に誰かが苦しんでいる時、自分は立ち上がれるだろうか。
その問いだけが、走り出した電車の中で、いつまでも彼の胸に残っていた。




