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100人の電車  作者: どどんこ


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18/20

17

電車が動き出した瞬間、誰もが少しだけ息を吐いた。


車輪がレールの継ぎ目を踏む音。窓の外を流れ始めた灯り。止まっていた日常が、何事もなかったかのように再び進み始める。


けれど、阿部恵子の周りだけは、まだ動き出していなかった。


田中ヨシエに背中を支えられながら、恵子は座席に身体を預けている。顔色は先ほどより少し戻っていたが、唇にはまだ力がない。


「次の駅で、駅員さんに来てもらえるそうです」


通話装置から離れて戻ってきた川口静香が、そう伝えた。


その声は、さっきよりも小さかった。


大きな声を出したことで、全身の力を使い果たしてしまったようだった。けれど、静香は自分の席には戻らなかった。戻れば、また元のように、誰にも気づかれない場所へ消えてしまう気がした。


恵子は、紙袋を胸に抱いたまま、静香を見上げた。


「本当に……ありがとうございました」


「いえ……私は、ただ……」


静香は言葉に詰まった。


ただ、気づいただけ。


ただ、声を出しただけ。


そう言おうとした。


けれど、それがどれほど難しかったかを、静香自身が一番よく知っていた。


「座りますか?」


ヨシエが、恵子の隣に少しだけ場所を空けて言った。


静香は慌てて首を振った。


「私は、大丈夫です」


「そうですか」


ヨシエは無理に勧めなかった。


ただ、静香を見る目は穏やかだった。その視線には、無遠慮な好奇心も、形だけの感謝もなかった。静香が今ここに立っていることを、そのまま受け入れているような目だった。


静香は、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。


向かい側の吊り革につかまったまま、池田剛は携帯電話の画面を見ていた。


画面には、何件もの通知が溜まっている。


上司からの連絡。


同僚からの確認。


明日の会議資料についての催促。


少し前までなら、電車が止まったことに苛立ち、運が悪いと舌打ちし、遅れた理由を誰かのせいにしていたかもしれない。


実際、数分前まではそうだった。


仕事では、部下の動きが遅いことに腹を立てる。家庭では、妻の言い方に腹を立てる。電車が遅れれば鉄道会社に腹を立てる。自分の思い通りに進まないあらゆるものに対して、彼はいつも怒りという形で反応していた。


けれど、目の前で顔を青くした女性を見た時、怒る暇などなかった。


身体が勝手に動いた。


自分でも意外だった。


通知の一つが、画面上に表示された。


妻からだった。


『帰り、牛乳買える? 無理なら大丈夫』


ほんの短い文だった。


池田はしばらく、その文字を見つめた。


いつもなら、疲れているのに面倒だと思っただろう。


なぜ自分ばかり、と感じたかもしれない。


だが今は、少し違って見えた。


無理なら大丈夫。


その言葉の中には、妻が彼を気遣っている時間があった。自分は、それに気づこうとしていただろうか。


池田は、ゆっくりと文字を打った。


『買って帰る。少し電車が遅れてる』


送信ボタンを押した後、少し迷って、もう一文を付け足した。


『何か他にいるものある?』


送信した直後、気恥ずかしさのようなものが湧いた。


たったそれだけのことなのに。


だが、そのたったそれだけのことを、彼は長い間してこなかったのかもしれない。


電車は、速度を落とし始めていた。


次の駅が近づいている。


車内放送が流れる。


「次は、桜木台、桜木台です。体調の優れないお客様がおられますため、駅係員が対応いたします。お急ぎのお客様にはご迷惑をおかけいたします」


恵子の肩が、わずかに縮こまった。


自分のせいで、電車が遅れる。


自分のせいで、知らない人たちの帰宅を遅らせる。


そんな申し訳なさが、表情に滲んだ。


「すみません……皆さん、お疲れなのに……」


「そんなこと、気にしなくていいですよ」


ヨシエがすぐに言った。


その声は、諭すようでも、慰めるようでもなかった。


当然のことを言っているだけのような声だった。


「具合が悪い時は、お互い様です。電車はまた走ります。でも、あなたの身体は一つしかないでしょう」


恵子は、紙袋を抱く指に力を込めた。


その隣で、藤田悠斗は俯いたまま立っていた。


もう、自分にできることは何もない。


紙袋を拾った。それだけで十分だ。これ以上ここに立っていると、むしろ邪魔かもしれない。


そう思って席へ戻ろうとした時だった。


恵子が、悠斗へ顔を向けた。


「さっき……本当にありがとうね」


突然声をかけられ、悠斗の身体が固まった。


「い、いえ……」


「大事なものが入ってたから。拾ってくれて、助かりました」


大事なもの。


悠斗は、紙袋の中に一瞬見えた冊子を思い出した。


それはきっと、この女性にとって、これまでの人生を変えてしまうほど大切なものなのだろう。


自分は、それを拾った。


ただ落ちたものを拾っただけなのに、彼女はこんなにも真剣に礼を言ってくれている。


悠斗は、どう返せばいいのか分からなかった。


だから、ほんの少しだけ頭を下げた。


すると、隣に立っていた大柄な男が、悠斗の肩越しに言った。


「ちゃんと動けるの、えらいな」


悠斗は驚いて顔を上げた。


黒い半袖のシャツから、腕に入ったタトゥーが覗いている男。最初に車内で見かけた時、怖い人だと思った。目を合わせてはいけない種類の人だと、勝手に決めつけていた。


坂本竜司だった。


坂本は、車内の隅に置いてあった恵子の小さな荷物を手に取ると、通路の邪魔にならない位置へ寄せていた。


「俺なんか、何したらいいか分からんくて、立ってただけやからな」


坂本はそう言って、少し照れくさそうに笑った。


悠斗は、ますます何も言えなくなった。


怖いと思った相手が、自分に向かって笑っている。


それも、馬鹿にする笑いではない。


学校で向けられる笑いとは、まったく違う。


「あ……」


声を出そうとして、やはり詰まった。


けれど、何も返さないのは嫌だった。


悠斗は、勇気を振り絞るように、小さく言った。


「ありがとうございます」


坂本は、一瞬きょとんとした後、口元を緩めた。


「俺、何もしてないで」


「でも……」


悠斗は、それ以上続けられなかった。


それでも坂本は、何も急かさず、ただ一度頷いた。


その様子を、村田聡は少し離れた場所から見ていた。


先ほどまで、彼にとってこの車両は、一つの観察対象だった。


疲れた会社員。


幸せそうな女性。


孤独な老人。


自信のなさそうな少年。


目立たない女性。


強面の男。


乗客たちを眺め、それぞれが抱えているであろうものを想像する。それは彼にとって、退屈な帰路を少しだけ面白くする遊びだった。


自分は、人より少しだけ、人のことが見えている。


そう思っていた。


だが、彼は静香が立ち上がるとは思わなかった。


池田があんなにも素早く動くとも思わなかった。


タトゥーの男が、あれほど柔らかく少年に声をかけるとも思わなかった。


そして、自分自身が何もできず、ただ見ていただけであることにも、今まで気づいていなかった。


観察することと、理解することは違う。


理解することと、手を差し伸べることは、もっと違う。


窓ガラスに映る自分の顔を見た。


いつもと同じ、感情の読み取りにくい顔だった。


人の心を見ているつもりで、自分だけは安全な場所から一歩も動いていなかった。


電車が、ホームへ滑り込んだ。


ドアの向こうでは、制服を着た駅員が二人、待機しているのが見えた。


扉が開く。


冷たい夜の空気が、車内へ流れ込んできた。


「体調を崩されたお客様は、こちらですね」


駅員が駆け寄ってくる。


恵子は立ち上がろうとしたが、足元がまだ頼りなかった。


「私、ついて行きます」


ヨシエが言った。


恵子は目を見開いた。


「でも……ご予定が……」


「急ぐ用事はありません」


ヨシエは、膝の上に置いていた鞄を肩に掛けた。中には、編みかけの小さなベストが入っている。


本当は、帰れば一人の部屋が待っているだけだった。


今夜中に編み進めなくてはいけない理由もない。


それなら、目の前で不安そうにしている若い女性に付き添う方が、ずっと大切なことのように思えた。


「ご主人が来られるまで、隣にいますよ。知らないおばあちゃんでよければ」


恵子は、堪えるように唇を噛んだ。


「……ありがとうございます」


声が、震えていた。


恵子とヨシエが、駅員に支えられながらホームへ降りていく。


その時、恵子は振り返った。


車内には、ついさっきまで知らなかった人たちがいる。


静香。


悠斗。


池田。


坂本。


そして、名前も知らない何人もの乗客。


「本当に……ありがとうございました」


恵子は、深く頭を下げた。


ドアの近くに立っていた静香も、ぎこちなく頭を下げた。


その拍子に、目から一粒だけ涙が落ちた。


なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。


ただ、あの女性が無事に電車を降りられたことが嬉しかった。


自分の声が届いたことが、まだ信じられなかった。


ドアが閉まる。


ホームに残った恵子とヨシエの姿が、ゆっくりと後ろへ遠ざかっていく。


それを見送りながら、松本健太は、鞄の中から小さなスケッチブックを取り出していた。


描けない日が続いていた。


何を描いても空っぽで、自分にはもう何も残っていないような気がしていた。


けれど今、描きたいと思った。


止まった電車の中で、見知らぬ人が立ち上がった瞬間を。


拾われた紙袋を。


怖そうに見えた男の笑顔を。


泣きそうな顔で、初めて誰かを助けた女性を。


健太は、震える電車の中で鉛筆を走らせた。


最初の一本の線は、ひどく歪んでいた。


それでも、彼は消さなかった。


電車は、また夜の中を走り始める。


二人が降りたことで、車内にはわずかな空席が生まれていた。


けれどそこには、誰かがいた痕跡が、確かに残っていた。


川口静香の中にいた「君」は、声を出すことで、誰かの孤独に触れた。


藤田悠斗の中にいた「君」は、感謝されることで、自分にも誰かを支えられる瞬間があると知った。


池田剛の中にいた「君」は、怒りではなく、気遣いの言葉を選ぼうとした。


坂本竜司の中にいた「君」は、見た目では届かなかった優しさを、ほんの少しだけ誰かに届けた。


田中ヨシエの中にいた「君」は、降りるはずではなかった駅で、知らない命の傍らに立つことを選んだ。


そして、村田聡の中にいた「君」は、ようやく気づき始めていた。


人は、眺めているだけでは分からない。


同じ電車に乗っているだけでは、触れられない。


けれど、ほんの一歩、自分の場所から踏み出した時。


見知らぬ誰かの人生は、一瞬だけ、自分の人生と重なるのだ。


村田は、閉じられたドアを見つめていた。


次に誰かが苦しんでいる時、自分は立ち上がれるだろうか。


その問いだけが、走り出した電車の中で、いつまでも彼の胸に残っていた。

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