16
山口彩香の手の中で、スマートフォンの画面だけが、止まった車内とは無関係に輝き続けていた。
画面の中では、何度も見たライブの映像が流れている。色とりどりのペンライトが波のように揺れ、ステージの上の彼らは、汗を光らせながら笑っている。音は出していない。それでも彩香の頭の中には、あの日の歓声も、胸を震わせた音楽も、鮮明に蘇っていた。
だが、現実の車内には、音楽の代わりに不自然な静けさがあった。
電車が止まってから、どれほど時間が経ったのだろう。実際には数分にも満たないはずなのに、動かない夜景と、窓に張り付いた暗い山の輪郭が、時間そのものを止めてしまったように感じられる。
誰もが、何かを待っている。
再び電車が動き出すことを。
自分の日常が、何事もなかったように先へ進むことを。
その時だった。
小さく、何かが床に落ちる音がした。
紙袋だった。
通路を挟んで少し前の席に座っていた阿部恵子の手から、抱えるように持っていた紙袋が、するりと滑り落ちたのだ。
恵子は慌てて拾おうと身をかがめた。だが、その動きは途中で止まった。
胸の奥が、急に締め付けられるように苦しくなる。電車が動いていた時には気にならなかった車内の暖かさが、今は妙に息苦しい。胃の奥からこみ上げるような不快感と、頭の中が遠くなる感覚。視界の端が白く霞んでいく。
大丈夫。
大丈夫だから。
家に帰るまで、あと少しだから。
健太に伝えるまでは、この喜びを、ちゃんと自分の中に抱えていたい。
そう思うのに、体が言うことをきかなかった。
恵子の指先が、床に落ちた紙袋の取っ手に触れる。その瞬間、身体が大きく傾いた。
肩が、隣の仕切り板にこつんと当たる。
大きな音ではなかった。
けれど、動かない車内では、そのわずかな音が妙に鮮明に響いた。
何人かが、顔を上げた。
村田聡は、その様子を観察するように目を細めた。池田剛は眉間の皺を深くしたまま、何か起きたことには気づいているが、すぐには動かなかった。田中ヨシエの編み針が、膝の上で静かに止まった。
そして、誰よりも早く、その異変を見ていた者がいた。
川口静香だった。
彼女は、車両の後方、ドアに近い席で、いつものように小さく座っていた。誰の視線にも触れず、誰の意識にも残らないように、自分という存在を薄くしながら。
だが、静香は見ていた。
先ほどまで、紙袋を大切そうに抱えていた女性の顔から、急に血の気が引いていくのを。
笑っているように見えた口元が、今は必死に苦しさを隠そうと震えているのを。
誰かが声をかけるだろう。
そう思った。
自分ではない、もっと自然に声を出せる誰かが。人に見られることを怖がらない誰かが。困っている人に手を差し伸べる役目は、自分のような人間ではなく、もっと明るくて、もっと堂々としていて、もっとこの世界に馴染んでいる誰かのものだ。
けれど、誰も動かなかった。
皆、見ている。
だが、見ているだけだった。
恵子の身体が、もう一度小さく傾いた。片手は紙袋を拾おうとして床に伸びたまま、もう片方の手は、無意識に自分の腹部を庇うように添えられていた。
その手を見た瞬間、静香の胸の奥で、何かが跳ねた。
分からない。
何があるのかは分からない。
けれど、この人を、ただ見ているだけではいけない。
喉が張り付くように乾いていた。
心臓が、耳のすぐそばで鳴っているようだった。
声を出しても、届かないかもしれない。
届いたら届いたで、皆がこちらを見る。
怖い。
それでも。
静香は、膝の上で握っていた両手をほどいた。
「あの……」
声が、かすれた。
自分の声なのに、ひどく遠く聞こえた。
誰も反応しない。
やっぱり届かない。
そう思った時、恵子が苦しそうに息を漏らした。
静香は立ち上がった。
「あの、すみません!」
今度の声は、自分でも驚くほど大きかった。
車内の視線が、一斉に静香へ集まった。
全身が逃げ出したいほど熱くなる。けれど、静香はもう俯かなかった。震える指で、恵子の方を示した。
「この方……具合が悪そうです」
その一言が、止まっていた車内の空気を動かした。
最初に立ち上がったのは、池田剛だった。
先ほどまで彼の内側で渦巻いていた怒りは、行き場を失った熱のように彼の身体に溜まっていた。だが今、その熱は、別の方向へ向かって放たれた。
「大丈夫ですか」
池田は恵子の前にしゃがみ込むと、周囲へ顔を上げた。
「すみません、少し場所を空けてもらえますか。横になれるように」
言葉は少し強かった。けれど、そこに先ほどまでの苛立ちはなかった。誰かを責めるためではなく、目の前の人を守るための強さだった。
すぐに、田中ヨシエが編みかけの小さなベストを鞄にしまい、立ち上がった。
「こちらへ。無理に動かなくていいですよ。ゆっくり、息をしてくださいね」
その柔らかな声は、毛糸のように静かで、温かかった。
恵子は何かを答えようとしたが、声にならなかった。息を整えようとするほど、胸が苦しくなる。恥ずかしさと不安と、なぜこんな時にという戸惑いが、一度に押し寄せてくる。
紙袋が、まだ床に落ちていた。
その近くに立っていた藤田悠斗は、しばらく動けずにいた。
誰かのために何かをすることなど、自分にはできない。学校では、いつも下を向いて、標的にならないよう息を殺しているだけだ。声を上げたところで、笑われる。手を出したところで、邪魔になる。
そう思っていた。
けれど、床に転がった紙袋の口から、小さな冊子が半分だけ覗いているのが見えた。
赤ちゃんの写真が表紙に載った、淡い色の冊子だった。
悠斗は、無意識にしゃがみ込んだ。
紙袋を拾い、飛び出しかけた冊子をそっと中へ戻す。中身を見てはいけない気がして、すぐに袋の口を閉じた。そして、恵子のすぐそばまで歩み寄る。
「あ、あの……これ……」
声は震えていた。
恵子は、ぼんやりとした視界の中で、差し出された紙袋を見た。
「あ……ありがとうございます……」
その言葉を聞いた瞬間、悠斗の手がわずかに止まった。
ありがとう。
自分に向けられた言葉。
学校で聞く笑い声でも、舌打ちでも、名前を呼び捨てにする声でもない。自分がしたことに対して、誰かがまっすぐに返してくれた言葉。
胸の奥に、針の先ほどの小さな熱が灯った。
それはまだ、夜景のように眩しい光ではなかった。
けれど、右側の暗い山に飲み込まれそうだった彼の中で、確かに消えずに残る、小さな明かりだった。
「車掌さんに、連絡した方が……」
誰かが呟いた。
その時、静香は再び口を開いた。
「私、します」
声はまだ震えていた。
だが、今度は消えなかった。
静香はドア横の非常通話装置へ歩いていく。視線が自分の背中に集まっていることは分かっていた。怖い。足元が頼りない。それでも、一歩ずつ前へ進んだ。
これまでずっと、誰にも気づかれないことを恐れていた。
存在しているのに、見えていないように扱われることが苦しかった。
だが今、彼女は初めて、自分から誰かの世界へ踏み込もうとしていた。
目立たないためではなく。
消えないためでもなく。
目の前にいる誰かを、見失わないために。
通話装置のボタンに、静香の指が触れる。
その直前、恵子が小さく声を出した。
「すみません……たぶん、少し、気分が悪くなっただけで……」
「無理に話さなくて大丈夫ですよ」
ヨシエが優しく答える。
恵子は小さく首を振った。紙袋を胸元に抱き直し、息を整えながら、途切れ途切れに言葉を続けた。
「今日……分かったばかりで……まだ、主人にも、言ってなくて……」
それだけで、ヨシエには伝わった。
彼女の目が、ほんの少しだけ潤む。
膝の上にしまった編みかけのベスト。まだ見ぬ孫を思って選んだ淡い水色の毛糸。その柔らかな温もりが、目の前の若い女性の震える手と、不思議なほど重なって見えた。
「そうでしたか」
ヨシエは、それ以上は何も聞かなかった。
ただ、恵子の背中にそっと手を添えた。
「大事な方なんですね。あなたにとっても、その子にとっても。だから今は、ゆっくり休みましょう」
恵子の目から、一筋だけ涙がこぼれた。
夫に最初に伝えるはずだった秘密を、見知らぬ人たちの前で口にしてしまった。そんな小さな悲しさはあった。けれど同時に、胸の奥に、思いがけない温かさが広がっていくのを感じていた。
数分前まで、この車両には、誰も自分の幸福を知らないと思っていた。
誰も、自分の中にある小さな命に気づいていないと思っていた。
けれど今、知らない誰かが自分を気遣い、知らない誰かが紙袋を拾い、知らない誰かが声を上げ、知らない誰かの手が背中を支えている。
ひとりで抱えていた幸福が、壊れたのではない。
守られたのだ。
「……ありがとうございます」
恵子は、静香の方を見た。
「気づいてくれて」
静香は、何も答えられなかった。
自分の名前を呼ばれたわけではない。
けれど、それ以上に、自分という存在をまっすぐ見つけてもらえた気がした。
誰かを見つけたから、自分も見つけられた。
胸の奥で、これまで暗闇の中を漂うだけだった小さな光が、初めて別の誰かの光と触れ合った。
その時、車内放送が再び流れた。
「お客様にお知らせいたします。安全確認が取れましたので、まもなく運転を再開いたします。なお、体調の優れないお客様がおられる場合は、乗務員までお知らせください」
静香の指は、通話装置のボタンの上に置かれたままだった。
彼女は一度だけ、恵子を見た。
恵子は、ヨシエに支えられながら、小さく頷いた。
静香は、ボタンを押した。
車内に、短い電子音が響いた。
そして、その音に遅れるように、電車がわずかに揺れた。
ゆっくりと、窓の外の夜景が動き始める。
止まっていた光が、再び流れていく。
だが、先ほどまでと同じ景色ではなかった。
同じ車両に乗っていたはずの三十人は、もう、完全に無関係な三十人ではなくなっていた。
川口静香の中にいた「君」は、誰かに見つけられることだけを待つ、か弱い光ではなくなっていた。
それは、苦しんでいる誰かを見つけ、恐れながらも声を届けようとする、確かな勇気だった。
そして、その声によって、この電車の中に閉じ込められていたいくつもの「君」が、初めて、他者の世界へ向かって動き始めた。




