11
大塚明の心臓を躍らせる「君」、それは、愛する人を心から喜ばせたいという純粋な願いと、その願いを形にすべく密かに進行する、温かく、そして幸福な計画そのものだった。その「君」は、手帳の行間から、柔らかな光を放っていた。
大塚は手帳を閉じ、満足げに頷いた。計画は順調だ。電車は光と闇の間を走り続ける。
その中で、特定の誰かや何かのためではなく、ただそれだけで満たされているかのような、静かな輝きを放つ人物がいた。窓側の席に座る、原田さくら(はらだ・さくら)だ。彼女は何もせず、ただ座っているだけ。だが、その口元には、微かだが確かに、心からの幸福を示すような笑みが浮かんでいる。その表情は、一点の曇りもなく穏やかだ。
うん、大丈夫。全て、これでいい。体の芯が、ぽかぽかと温かい。嫌なことは、今日の全てが終わる時に、すっと消えていった。空になった両手の代わりに、心の中に、確かなものが満ちている。それは、重たいものでも、焦がれるものでもない。ただ、そこにある。当たり前のように。
窓の外を流れる景色を見る。左側は、光がきらきらしている。夜景だ。遠くに見えるそれは、まるで夢の世界みたいに綺麗。でも、遠いからといって寂しくはない。右側は、真っ暗な山。見えにくいけど、形は分かる。怖いとも思わない。ただ、大きいな、と思うだけ。
光も、闇も、ただの景色だ。自分の中に、何も欠けていないから、外の世界に何かを過度に期待したり、恐れたりすることがない。ここにある全てで、十分だ。電車の揺れも、音も、座席の硬さも、全てが、今、自分が「いる」という確かな感覚を教えてくれる。息を吸って、吐いて。それだけのことが、なぜだかとても尊く感じられる。
他の人たちが、疲れていたり、難しそうな顔をしていたりするのが、視界の端に入る。大変なんだろうな。でも、皆も、どこかに、自分だけの「大丈夫」を持っているのかもしれない。
原田さくらの中に息づくのは、世界の全てを受け入れ、現在という瞬間に深く根ざした、満ち足りた静寂だった。その心に宿る「君」は、特別な形を持たず、ただ穏やかに微笑んでいた。
原田さくらの中に息づくのは、世界の全てを受け入れ、現在という瞬間に深く根ざした、満ち足りた静寂だった。その心に宿る「君」は、特別な形を持たず、ただ穏やかに微笑んでいた。
原田は静かに目を閉じた。穏やかな気配が彼女の周りを漂う。電車は光と闇の間を走る。
その中で、彼女とは異なる種類の、遠い光を内側に灯している人物がいた。窓側の席に座る、森田良太。彼は、膝の上に置いたスマートフォンを両手で持って見つめている。その顔には、疲れが見えるが、画面に向けられた視線は、どこか柔らかい。
今日の晩御飯はカレーか。優馬、美味しいって食べたかな。亜美は、また野菜残したんじゃないか?妻の恵子は、疲れてないだろうか。
スマホの画面に映るのは、少し前に送られてきた家族の写真だ。優馬が口の周りにカレーをつけて笑っている。亜美が、得意げに自分で服を着ている。そして、二人の後ろで、少しだけ困ったように笑っている恵子の顔。
俺は、今、この電車に乗っている。関西から、少しだけ離れた場所で単身赴任。月に一度しか、家に帰れない。このスマホの中の写真が、俺と家族を繋ぐ、一番確かなものだ。電車の揺れが、優馬を膝の上で揺らしているような錯覚を起こさせる。優馬の重み、亜美の小さな手の感触。画面の中の思い出が、鮮やかに蘇る。
窓の外、左側には、光り輝く街の夜景が広がっている。俺が今、家族のために働いている場所の景色だ。この明かりの一つ一つが、家族が安心して暮らせるための糧に繋がっている。右側には、闇の山。家族と離れて暮らす、静かで、少し寂しい時間そのもののような。
早く家に帰りたい。画面の中の優馬と亜美と恵子に、直接会いたい。声を聴きたい。笑い声を聞きたい。電車の進む速度が、ひどく遅く感じられる。この電車は、俺を家族から遠ざける時間も運んでいるのか、それとも、次会える日へ近づけてくれているのか。
森田良太の心を占めるのは、離れて暮らす家族への尽きない愛情と、彼らの日常を見守りたいという静かな願いだった。その内なる「君」は、スマートフォンの画面の中で、確かに息づいていた。




