12
森田はスマホをポケットにしまい、深く息を吐いた。電車の揺れは続く。夜の帳は深い。静かに流れる車窓の光景は、それぞれの乗客の内面を、際立たせる背景となる。
その中で、周囲の喧騒から隔絶されたように、深く沈黙している人物がいた。窓から二つ目の通路側の席に座る、小林吾郎だ。彼は、疲れたような顔で窓の外の闇を見つめている。だが、その視線は何も見ていないかのようで、その目は、自らの内側にある重苦しい何かを凝視しているようだった。
もう、やめたい。全部。この嘘も、この重さも、この息苦しさも。今日、また彼女から電話があった。会社の休憩室で、震える手で通話ボタンを押した。誰も見ていないか、と四方を確認しながら。あの時の胸のざわめきが、まだ残っている。
妻には、言えない。知られるわけにはいかない。あんなに信頼してくれている妻の顔を、直視できなくなる。子供たちの笑顔も、きっと偽物に見えてしまうだろう。俺は、完璧な夫、完璧な父親を演じている。だが、その演技が、もう限界だ。体中の血が、鉛のように重い。
窓の外を流れる夜景は、ただの光の点に過ぎない。俺の心の中の闇の方が、ずっと濃い。あの光の一つ一つが、俺の罪を見ているような気がして、目が眩む。右手の山は、深々と黒く、俺が抱える秘密の深淵のようだ。どこまで行っても、光は差さない。逃げ場がない。
誰かに打ち明けて、楽になりたい。でも、打ち明ければ、全てを失う。今のこの平穏な生活、築き上げてきたもの、全てが崩れ去る。その代償を考えると、喉が詰まる。だから、飲み込むしかない。この嘘を、罪悪感を、毎日、毎日、飲み込んで、何食わぬ顔で生きるしかない。
電車は、どこへ向かっているのか。俺をどこへ連れていくんだ。終点に着けば、この重さも少しは軽くなるだろうか。いや、これは、どこまで行ってもついてくる。俺の背中に張り付いて、片時も離れない。鏡を見れば、そこにいるのは、別人だ。見慣れた俺の顔の奥に、見知らぬ、醜い「それ」が棲みついている。
小林吾郎の心臓を締め付ける「君」、それは、人には決して言えぬ過去の「過ち」と、それがもたらす現在進行形の「罪悪感」そのものだった。その「君」は、彼の心臓の奥底で、重く、深く、脈打っていた。
小林は静かに息を詰める。電車の規則的な揺れは、彼にとって、自らの鼓動を誤魔化すための、唯一の救いだった。窓の外は、相変わらず左手に夜景、右手に深い山が流れていく。
その中で、小林のような重い「秘密」とは異なる、しかしやはり誰にも見えない「揺らぎ」を抱えている人物がいた。彼の数メートル前、通路側の席に座る山田綾子だ。彼女は、キャリアウーマン風のきちんとしたスーツを身につけ、閉じたノートパソコンを膝に置いている。その表情は一見平静だが、微かに眉間に寄せられた皺と、時折無意識に唇を噛む仕草が、彼女の内なる葛藤を物語っていた。
どうするべきか。答えが出ない。この一週間、ずっと考えているのに。A案か、B案か。どちらを選んでも、リスクがある。A案は、成功すれば大きいが、失敗すれば会社に大きな損害を与える可能性がある。B案は、安全だが、現状維持に過ぎない。このプロジェクトは、私のキャリアにとって、大きな岐路となる。
上司は「お前に任せる」と言った。期待されている。分かっている。だからこそ、間違えられない。この夜景の光一つ一つが、まるで私の決断の重さを増しているように思える。あの光の海は、私が築き上げてきたキャリアの象徴であり、同時に、一歩間違えれば全てを失うかもしれない巨大なプレッシャーでもある。
右手の、漆黒の山を見る。あの山は、私の決断の先にある未知だ。踏み込んでいくべきか、それとも慎重に迂回するべきか。どちらを選んでも、険しい道のりであることは変わらない。この疲労は、単に仕事が原因ではない。この決断の重さ、そして、もし失敗した時の責任を考えると、胃のあたりがずしんと重くなる。
今の自分に、本当にその資格があるのか。この大きな船を動かす舵を取る力が、私にあるのか。過去の成功体験が、自信ではなく、かえって重圧になっている。あの時も、運が良かっただけではないのか。この電車の速さが、決断を迫る時間の流れのように感じられる。
山田綾子の中に、静かに、しかし確かな重みを持って存在する「君」、それは、キャリアの岐路に立つ「重大な決断」と、それに伴う「責任と不安」そのものだった。その「君」は、彼女の膝に置かれた、閉じたノートパソコンの下で、じっと息を潜めていた。




