あなたは無意識にわたしを試す
淑華は野草の薬効などを学びながら、田舎生活に慣れていった。
その生活は、あらかじめ決められた運命かのように、しっくりと心に馴染み、彼女を驚かした。
──自分のことを一番わかってないのは、本当は自分かもしれない。それなのに、心の一部で威龍になすりつけ、責任から逃れようと考えるなんて、わたくしはひどい女にちがいないわ。
威龍は戻ってこなかった。
ただ待つだけの日々は辛い。いっそ待たなければいいのにと、卑屈に考える自分を醜いと思う。
彼の不在を忘れるため、強いて自分を励まし、山菜を摘み、『薬草択』に書かれた絵と見比べる日々を送る。
宇空は威龍の師匠だけあって、さまざまな学問に通じ薬学にも詳しい。
彼の蔵書を片手にカゴを背負って野歩きする姿を、宇空はいつも皮肉に笑いながら、からかった。
「医師か薬剤師にでもなるおつもりか」
「それも悪くないわ。何かを知ることや、勉強することが楽しいなんて、若いときにはわからなかったことですもの」
子どもの頃、自由に野原を駆け回っていた彼女は、贅沢で退屈な生活よりも、雄大な自然に囲まれ多くの知識を吸収することのほうに、生きるはりを感じる。
家を管理するバアバとジイジは、そんな淑華を我が子のように世話を焼いた。時に煩わしいほどのお節介が、後宮の冷たい争いを見てきた彼女には新鮮だった。
「そんな、本ばかり読んでいますとじゃ、頭が痛うなってしまわれませんか」
「楽しいのよ、これが」
「これだから。宇空さまの従姉妹も、やはり変わり者じゃわ」
その宇空が実際には何をしているのか、淑華は聞かない。
彼は本宅に戻り、その数日後に髪を整え、髭を剃った姿で戻ってきた。
シワは多いが、その顔は年齢を経た男の魅力にあふれ、地位の高い官吏のようだった。彼が未だにひとり者でいる理由がわからないが、その理由を聞くと面倒なことになりそうで、淑華は放っておいた。
「ところで、最新の情報をお聞きになったか。都で、それは聡く美しいと謳われた貴妃さまが、お亡くなりになったそうです」
帝や都の動向などは、官報で時間差をおいて宜州に届く。宇空の報告に淑華は笑った
「そんな話がここまで届いているの? 都は遠いのに」
「官報が届くのです。まあ、それ以外にも情報源は持っていますが」
「それで、その貴妃はどうして亡くなったの」
「急な病であっけなくね。威龍がうまくやったようです。さすが、わが弟子」
「師匠を超えていませんか?」
宇空は皮肉な様子で頭を掻くと、独白のように、「これだから、恋ってのは盲目で手にあまる。このわたしを超えるのは百年早い」などと、これ見よがしに呟いている。
「なにか言われた?」
「いや、何も。すべて事もなしです」
「それでは、うまく辻褄合わせをしたのですね。後宮に賊が入ったなどと公にはできませんもの。でも、この報告に納得する方は少ないでしょうけど、貴妃が消えたことを喜ぶ人は後宮にも朝廷にも多そうですが」
「これはまた、寂しいことをおっしゃる」
「そういう世界ですから」
孫娘を後宮に入れた丞相を筆頭に、娘を皇后にしたい者は多いだろう。
「ここに来られたことを後悔しますか?」
「いいえ、少しも」
「痩せ我慢でもなく」
「疑り深い方ね」
「だから、いい男でしょう」
淑華は首を軽く振りながら笑った。
「世界が単純であることが、とても嬉しいのです。楽しいことを楽しいといい。嫌なことを嫌と忖度なく言えること。その幸せに浸っております」
そうやって、日々が落ち着くにつれ、威龍の不在がなんでもないことのように思えた。
ひとりで生きていけると確信できるほど、彼女は自分にうぬぼれさえした。
威龍にとって、彼女は恋焦がれてきた初恋の相手、その思いに自分は流されてしまったのだろうか。あるいは、後宮での虚しい日々、その心の隙間に彼がカチリと収まったのか、その二つを混同したのかもしれない。
なぜなら、威龍は美しすぎた。
それゆえに、淑華も誤解した。多くの女たちが彼に惹かれるように、彼の容姿に目が眩んだのかもしれないと。
そうして四ヶ月が過ぎた。
都の情勢は官報によって、数日から十数日遅れて届く。噂となると、もう少し早い。
宇空には別の情報源があるのだろう。時に伝書鳩によって知らされる威龍の状況を断片的に知らせてきた。
「わが弟子は西部州の治水工事に、帝の代理として向かったらしい」
「暴動も起きている治水工事は、危険なことが多いそうですが。大丈夫でしょうか」
「威龍は皇子で、皇太子候補です。おそらく、帝の考えとしては責任者として赴任させて実績をつけさせ、その功績でもって立太子として遇するつもりだと思いますね」
「では、彼は、もう戻ってこないかもしれない」
『一ヶ月、いや、もう少し待っていてくれないか。必ず迎えにいくから』と、威龍は言っていた。
「さあ、どうでしょうかな」
数日後、力仕事を請け負う青年が、町に買い出しに行って、顔色を変えて別宅に戻ってきた。
「ジイジ、聞いたか。噂だけどさ。皇子さま、ほら、こっちに幽閉されていた、あの麗しい第二皇子さまがさ、治水工事の濁流にのみ込まれたとよ」
「はあ? 威龍さまがか」
「まだ、確信は持てないが、威龍さまは、この地で人気があったから、そりゃもう、すごい噂になっていて。無事を祈るって、みな寺に祈りに向かってるけどよ。どうも絶望的らしいよ。遺体が見つかったとか」
「そりゃあ、いつの話だ」
「もう、七日も前のことだってさ。ここまで知らせが届くのは遅いから」
「官報で確認したのか」
「あんなもん、誰も信じていないよ」
寒い日だった。
台所で薬草を煎じていた淑華は、少し考えた末に棚に置いてあった酒をひと口ふくんだ。それから窓の外をながめた。
都では、まったく見たことのない雪が降っている。
細かく白い粉雪に興味を引かれ、寒さで縮んだ扉を押し開けた。粉雪をつかむと、手のひらの上で、すうっーと溶けていく。
彼女は扉の横にある長椅子に腰をおろそうとして、それから、ふるえが止まらない自分の手をながめた。
「今年は、雪が多い」と、バアバが呟いている。
酒に弱い彼女は、かっと身体が熱くなるのを感じた。
きっと酔ったのだろう。
目の前にある長椅子に腰を下ろそうとして、その単純であるはずの動作が、とつぜん、ひどく難しいものだと気づいた。
──すわらなきゃ。じゃないと、きっと、ここで倒れてしまう。バアバたちを、心配、させる。
手の激しいふるえが止まらない。
「威龍……」
淑華は小さくつぶやいた。
──彼は約束した。待ってと。だから、待つしかない。
長椅子の縁につかまり、まるで幽霊でも見たかのようにふるえる全身をおさえ、腰をおろした。
雨ざらしで濡れた長椅子は冷たく、氷のようだった。こんなときにも身体は不快に正しく反応することが、なぜか、悪い冗談のように思えた。
雪が降っていた。
大地を、どこまでも幻想的に真っ白に染める。威龍が昔、雪の風景のことを話してくれた。その言葉が思い出せない。
あの時の彼の顔。
彼の懐かしそうな顔だけが思い浮かぶ。
「お寒いですから、中に入りませんと」と、バアバが毛皮を彼女の膝にかけたのも、上の空で聞いた。
この場所から動くわけにはいかない。
──そう、彼を、ここで待たなきゃ。
雪はさらに強く降りだした。
しばらくして、ジイジが長椅子の横に火鉢を置いてくれた。バチバチと火の爆ぜる音以外に、なんの物音もしない世界。
真っ白な色のない世界は、音もなく、なにもない。
どれくらい時が過ぎただろう。
吹雪の間を馬で駆けてくる人間が見えた。きっと宇空が慰めに来たのだろう。
今は会いたくなかった。
宇空によってもたされる決定的な知らせに耐えられる気がしない。
馬に乗った人物は、雪に抵抗しながら疲れ切った人のように、……前屈みになって進んでくる。宇空よりも背が高く細い身体つき。
「まさか」
信じられない思いを押し殺して、かじかんだ手で目をこする。
「まさか」
淑華は立ちあがろうとしたが、力が出ない。
「威龍……」
馬の蹄が聞こえる。これは幻想だろうか。小川のあたりを渡ってくるのは誰だろう。橋の板をカタカタと音をさせている。
「威龍……」
淑華は立ち上がると、膝の毛皮を落として、雪の中を走った。威龍が馬から降り、こちらに向かってくる。
雪に足を取られ、転びそうになったとき、彼の手に支えられた。
「淑華」
威龍の声だった。泥まみれの顔、寒さに震え、それでも、情熱的な目で彼女を見つめる彼の姿。
──ああ、この人は、これほどまでに美しい。
「もう、だめ」
「淑華……」
「このバカ、どうしようもないバカ! なんで、こんなに、バカで、バカで、あなたなんて……」
彼が彼女をきつく抱きしめて言葉を遮った。それでも彼女はうわごとのように囁いた。
「もっと強く抱いて、もっと」
威龍が笑い出した。
「そんなに待っていてくれたのか。苦労したかいがあったな」
「苦労したの」
「ああ、ものすごく……、本当に大変だったんだ」
「わたしは」
「待たせ過ぎて、僕を忘れたのか」
「うん、いいえ、でも」
威龍が身体を抱く腕をゆるめ、彼女の顔を見た。
「僕を待っていた?」
彼女は首をふった。
「傷つくぞ」
「あなたは知らないでしょうけど。本当は、わたし、とても意地悪なの」
「知っているよ」
「本当は、すぐ怒ったりするの」
「そうか」
「きっと、これから嫌な女になって、きっと怒って、喧嘩をふっかけるわ」
「そうか」
「そんな女でも好きなの」
威龍は嬉しそうにほほ笑んだ。
「そんな女しか見えないんだ」
彼は泥に汚れた顔を乱暴に手で拭うと、最初は額に、頬に、そして、ゆっくりと長く、愛おしそうに唇に口づけした。
「もう、けっして離さない」
雪が降っていた。
ー完ー
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