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第14話

その日の帰り道。

大学の正門を出る頃には、空はすっかり夜の色へ変わっていた。 淡い藍色の空に、春の月がぼんやりと浮かんでいる。

街灯の灯りが等間隔に歩道を照らし、夜風がふわりと長い黒髪を揺らした。

恭子はバッグの紐を握りしめながら、一人静かに歩いていた。

――「何があったの!?」

思い返して、自分でも少し恥ずかしくなる。

あんなふうに、感情をむき出しにしてしまうなんて珍しい。 でも、それくらい気になってしまったのだ。

藤堂は結局、

『まあ……ちょっと言い合いしただけ』

と苦笑して誤魔化していた。

けれど、あの赤くなった目を見れば、“ちょっと”では済んでいないことくらい分かる。

恭子は小さく息を吐いた。

その時だった。

ポケットのスマホが、ぶるりと震える。

画面に表示された名前を見た瞬間、胸がどくんと跳ねた。

【倉持教授】

指先が少しだけ熱くなる。

恭子は足を緩めると、どこか落ち着かない気持ちのまま通話ボタンを押した。

「……もしもし」

『こんばんは』

低く落ち着いた声が耳に届く。

それだけで、不思議なくらい心がほどけていく。

さっきまで胸の奥に残っていた重たい気持ちが、少しずつ溶けていくようだった。

『今、帰り?』

「はい……教授は?」

『まだ研究棟。少し片付けが残っててね』

電話の向こうで、紙をめくる音が微かに聞こえる。

静かな研究室の空気まで伝わってくるようで、恭子は思わず目を細めた。

少しの沈黙。

けれど嫌な静けさではない。 むしろ、互いの存在を確かめ合うような優しい間だった。

恭子はそっと口を開く。

「……今日、藤堂くんとなにかありましたか?」

電話の向こうが静かになる。

数秒遅れて、小さな吐息が聞こえた。

『……会ったよ』

やっぱり。

恭子は歩みを止める。

街灯の光が、アスファルトへ淡い影を落としていた。

「何を言われたんですか?」

『まあ、色々と』

どこか困ったような声。

その瞬間、恭子の胸がきゅっと痛んだ。

「……教授、傷ついてないですか?」

『え?』

「私のせいで……ごめんなさい」

夜風が頬を撫でる。

恭子はスマホを握る手に、少しだけ力を込めた。

「藤堂くん、結構怒ってたし……」

「教授、優しいから」

「全部まともに受け止めちゃいそうで……」

しばらく沈黙が落ちる。

やがて、電話越しに低い笑い声が滲んだ。

優しくて、どこか甘い声。

『……君は、本当に僕のこと好きだね』

恭子の顔が一気に熱くなる。

「っ……そういうこと、普通に言わないでください……」

『事実だろう?』

「うぅ……」

思わず顔を覆う。

見えているわけでもないのに、全部見透かされている気がした。

電話越しの教授は、少し楽しそうだった。

けれど次に聞こえた声は、静かで、ひどく優しかった。

『大丈夫だよ』

その一言が、胸へそっと触れる。

『藤堂くんの言うことは、ある意味正しいからね』

『年齢差もあるし、立場の問題もある』

『僕自身、悩んでないわけじゃない』

穏やかな声だった。

でも、その奥にある迷いを、恭子は感じ取ってしまう。

胸が苦しくなる。

教授はきっと、大人だから。 色んなものを考えて、我慢してしまう。

だから――。

恭子は夜空を見上げ、小さく息を吸った。

「……それでも」

『ん?』

街灯の灯りが瞳に映る。

「それでも私は、教授がいいんです」

鼓動がうるさい。

逃げたくなるくらい恥ずかしいのに、それでも言葉は止まらなかった。

「教授じゃなきゃ、嫌」

夜風がふわりと吹き抜ける。

電話の向こうが静かになった。

何も聞こえない。

けれど、その沈黙が痛いほど甘かった。

やがて――。

電話越しに、長く息を吐く音がした。

まるで理性を落ち着かせるみたいに。

『……参ったな』

困ったように笑う声。

でもその声は、どうしようもなく嬉しそうだった。

『そんなこと言われたら』

低い声が、耳元へ落ちてくる。

『もう、手放せなくなる』

その瞬間。

胸がぎゅうっと甘く締め付けられる。

頬が熱い。 息が苦しい。 なのに、幸せだった。

恭子はそっと夜空を見上げる。

春の月は淡く滲み、 まるで二人だけを静かに照らしているみたいだった。

誰かを好きになるだけで。

世界はこんなにも苦しくて、 こんなにも、愛おしくなるのだと思った。

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