第10話
倉持教授と恭子が付き合い始めてから、しばらくが経っていた。
最初は、大学内で少し話す程度だった二人の距離も、今では自然に並んで歩けるほど近くなっている。
講義後に廊下で立ち止まって会話をしたり、空き時間に中庭のベンチで他愛もない話をしたり。
それは恋人同士としてはささやかな時間だったが、恭子にとっては夢のような日々だった。
そして、その変化に気づき始める学生も少しずつ増えていた。
「あれ、今の倉持先生と大洗さんじゃない?」
「最近よく一緒にいるよね」
「え、もしかして付き合ってる?」
そんな噂が、静かに大学内へ広がり始めていた。
もちろん、恭子は相変わらず教授を目で追っていた。
講義中、教授がメガネを外す仕草に胸を高鳴らせ、煙草をふかす横顔に見惚れる。
だが以前とは違う。
今は教授もまた、彼女を探すように視線を向けるのだった。
そんなある日の夕方。
講義を終えた学生たちが談笑しながら帰っていく中、倉持教授は研究棟へ向かって一人歩いていた。
すると、背後から硬い声が飛ぶ。
「……倉持先生」
振り返ると、そこには藤堂和志が立っていた。
普段の柔らかな笑顔は消え、どこか張り詰めた表情をしている。
「少し、お時間いいですか」
倉持教授は一瞬だけ目を細めたあと、静かに頷いた。
「……いいよ」
***
人気の少ない中庭。
風が木々を揺らし、落ち葉が足元を転がっていく。
藤堂は拳を握りしめたまま、まっすぐ教授を見つめていた。
「……先生、恭子さんと付き合ってますよね」
単刀直入な言葉だった。
倉持教授は少しだけ沈黙し、やがて静かに答える。
「……ああ」
その瞬間、藤堂の顔が強張る。
「やっぱり……」
吐き出すように呟く。
「先生、自分でおかしいと思わないんですか」
風が吹く。
藤堂は感情を押し殺しながら続けた。
「年齢差だってある。先生と学生って立場だってある」
「周りに知られたらどうなるかわかってるんですか?」
倉持教授は黙ったまま聞いていた。
「恭子さんはまだ若いんですよ!」
「先生みたいな大人に優しくされたら、そりゃ好きになるに決まってるじゃないですか!」
藤堂の声が徐々に熱を帯びていく。
「なのに先生は、それを受け入れた!」
「……本当に、彼女のこと考えてるんですか」
空気が張り詰める。
倉持教授はしばらく目を伏せていた。
その横顔には、一瞬だけ苦い影が落ちる。
図星だった。
年齢差。
教授と生徒。
自分でいいのかという迷い。
そんなもの、最初から何度も考えていた。
だが――。
教授はゆっくり顔を上げる。
「……藤堂くん」
低く落ち着いた声。
「彼女は、立派な大人の女性だよ」
藤堂が息を呑む。
「教授とか学生とか、そういう肩書き以前に……彼女は自分の意思で考えて、自分で選んでいる」
倉持教授はまっすぐ藤堂を見た。
「ふさわしいかどうかを決めるのは、君じゃない」
「……僕たち自身だ」
静かな言葉だった。
怒鳴りもしない。
威圧もしない。
なのに、その言葉には揺るがない意思があった。
藤堂の顔が、かぁっと赤く染まる。
悔しさ。
怒り。
どうしようもない敗北感。
拳を震わせながら、藤堂は叫ぶ。
「……俺は認めませんから!」
そのまま踵を返し、走り去っていく。
バタバタと遠ざかる足音。
やがて、中庭には静寂だけが残った。
倉持教授はその背中を見送ったあと――。
「……はぁぁぁ……」
長く、深いため息を吐いた。
次の瞬間、その場へへたり込むようにベンチへ腰を下ろす。
思った以上に神経を使っていたらしい。
額を押さえ、しばらく空を見上げる。
夕空が赤く染まり始めていた。
「……若いなぁ……」
ぽつりと呟く。
だが、その声にはどこか苦笑も混じっていた。
教授はポケットから煙草を一本取り出す。
慣れた手つきで火をつけると、白い煙がゆっくり夕空へ溶けていった。
煙を吐き出しながら、教授は静かに目を閉じる。
――本当は、自分だって怖い。
彼女の未来を奪っていないか。
自分のような男でいいのか。
それでも。
彼女を手放したくないと思ってしまった。
煙草の先が、赤く小さく灯っていた。




