第9話
夕暮れが、大学の廊下を淡い橙色に染めていた。
窓の外では、風に揺れた木々がさらさらと音を立てている。
その中を、恭子は一人、ゆっくり歩いていた。
最近、教授と話す時間が増えた。
「今日は寒いね」
「その本、面白かった?」
「煙草、少し減ったんですね」
そんな何気ない会話を交わすたび、胸の奥がじんわりと温かくなる。
教授が自分を見て笑ってくれる。
自分の名前を呼んでくれる。
それだけで幸せだった。
――でも。
その幸せが大きくなるほど、恭子の胸には別の感情も芽生えていた。
怖い。
もし教授が本当に自分を好きになったら。
もし、自分も「観察」ではなく、普通の恋をしてしまったら。
そしていつか、両親みたいに――裏切られたら。
その考えが浮かぶたび、胸がぎゅっと苦しくなる。
最近は教授を避けてしまう日すらあった。
廊下の窓辺で立ち止まっていると、不意に後ろから優子の声がした。
「……また難しい顔してる」
振り返ると、優子が呆れたように笑っていた。
恭子は小さく俯く。
「私……怖いの」
「教授のこと、好きになればなるほど……怖くなる」
優子は静かに隣へ立つ。
茶化さない。
いつもの軽い調子ではなく、まっすぐ恭子を見つめた。
「……あんたは、色々あったもんね」
その一言だけで、恭子の胸が熱くなる。
「でもさ、恭子。全部の人間が、あんたの両親みたいなわけじゃないよ」
優子は、そっと恭子の肩を叩いた。
「愛することを怖がってたら、幸せになれない」
「だからまずは、自分を愛しな」
その言葉を聞いた瞬間、恭子の目からぽろりと涙がこぼれた。
今までずっと、自分は愛される価値のない人間だと思っていた。
誰かに好かれても、それは嘘だと思っていた。
でも。
もし――本当に。
こんな自分でも、愛してもらえるのだとしたら。
恭子は震える指で、優子の手をぎゅっと握った。
「……こんな私でも、いいのかな」
「好きになってもらえるかな……」
優子は一瞬目を丸くしたあと、にっと笑った。
「なに言ってんの」
「あんたたち、私から見たらとっくに両想いだよ」
そして、廊下の向こうを指差す。
「ほら、行ってきな!」
恭子は涙を拭い、こくりと頷いた。
次の瞬間、スカートを揺らしながら駆け出す。
胸が苦しい。
怖い。
でも、それ以上に――教授に会いたい。
***
一方その頃。
最後の講義を終えた教授は、静かな教室で一人、書類をまとめていた。
窓の外は夕暮れ。
机に落ちる西日が長い影を作っている。
ふと、視線を上げる。
最近、恭子が顔を見せない。
以前なら、柱の影から覗いていた。
変顔をして逃げていった。
授業中、熱心にこちらを見つめていた。
それが、ここ数日はない。
教授は小さく息を吐く。
「……やっぱり、気まぐれだったのかな」
そう呟いた瞬間。
――ガラッ!!
勢いよく教室の扉が開いた。
教授が驚いて振り向く。
そこには、息を切らした恭子が立っていた。
肩で呼吸をしながら、頬を赤く染め、真っ直ぐこちらを見つめている。
夕日が彼女の黒髪を柔らかく照らしていた。
「……教授っ」
震える声。
教授は目を見開く。
静まり返った教室に、彼女の荒い呼吸だけが響いていた。
恭子は胸元をぎゅっと掴み、涙を滲ませながら叫ぶ。
「私のこと……どう思ってますか……!」
教授の心臓が大きく跳ねた。
恭子は涙をこぼしながら、必死に言葉を続ける。
「私は、教授が好きです……っ」
「愛してます……!」
沈黙が落ちる。
夕暮れの光だけが、静かに二人を包んでいた。
教授はしばらく何も言えなかった。
やがて、深く息を吐く。
そして、ゆっくりと恭子へ歩み寄った。
「……僕も、君が好きだ」
低く、優しい声。
「まだ君のことを全部知ってるわけじゃない」
「でも、もっと知りたいと思ってる」
教授は少し照れたように笑った。
「君を……大切にしたい」
「愛したいんだ」
その瞬間。
恭子の瞳から、大粒の涙が溢れた。
張り詰めていた糸が切れたように、その場へへたり込む。
「……っ、う、ぁ……」
教授は慌てて駆け寄る。
「大洗さん……!」
そっと肩に触れ、優しく立ち上がらせる。
そしてポケットから、丁寧に折り畳まれたハンカチを取り出した。
教授らしい、几帳面な折り目。
そのハンカチで、恭子の涙をそっと拭う。
優しい手。
温かい指先。
恭子は泣きながら、その手にそっと頬を寄せた。
まるで、ようやく安心できる場所を見つけた子猫のように。
教授の胸が、強く締め付けられる。
次の瞬間。
気づけば彼は、恭子を抱きしめていた。
華奢な身体。
甘いシャンプーの香り。
腕の中で震える体温。
恭子もまた、教授のスーツをきゅっと掴む。
どくん、どくん――。
激しく鳴る心臓の音が重なる。
それが自分の音なのか、相手の音なのか、もうわからなかった。
ただ一つだけ、確かなことがある。
長い間、遠くから見つめ続けていた恋は――
ようやく、同じ温度で触れ合えたのだった。




