第捌話 視界の混濁、あるいは聖域の崩壊
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往診カルテ No.008
患者:御門瞳(聖クリストファー女子医科大学 眼科医/叔父の娘、私の従姉)
来院目的:厚労大臣の「もう一つだけ」のお願い(貸し、二つ目)
主訴:本人いわく「眼は独立した光学機器よ」
麗の診察:過度の責任感からくるドライアイ併発腸
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会場の入り口で、私は自分の名札を見下ろした。
『御門麗様 お席:Aテーブル(御門彰様のお隣)』
「……大臣」
「や、やあ、麗様! よく来てくださいました!」
厚生労働大臣・青山が、満面の笑みで駆け寄ってきた。
都内の超一流ホテル、大広間。
青山が主催する、医療系の政治資金パーティーだ。製薬会社、医療機器メーカー、医師会の重鎮たち。その真ん中で、御門一族の人間が、見えない糸を引いている。
「この席順は、何かしら」
「いやあ、偶然ですよ、偶然。たまたま、空いていたのがそこだけで」
Aテーブルには、空席が二つしかなかった。
私の席と、その隣の兄の席だ。
「兄様は?」
「それが……先ほど、ご連絡がありまして」
青山は、スマホの画面を見せた。
『大臣の茶番に付き合う暇はありません。――御門彰』
――ぐう。
大臣のお腹が、小さく鳴いた。
「……お見通しね、兄様は」
「な、何のことでしょう。は、ははは」
青山は、乾いた笑い声を残して、人ごみの中へ逃げていった。
総理の椅子が、少しだけ遠のいた背中だった。
◇ ◇ ◇
ひとりになった私は、会場の中央に目をやった。
そこには、巨大なピラミッドがそびえていた。
黄金色のサプリメントの瓶が、何百本も積み上げられている。シャンパンタワーのように、きらきらと光を反射して。
頂上には、ひときわ大きな瓶。そして、その背後に、大きなパネルが掲げられていた。
『眼科医が選ぶ、黄金のルテイン ――監修:聖クリストファー女子医科大学 御門瞳』
パネルの中で微笑む女性の顔を、私はよく知っていた。
「――あら」
背後から、冷たい声がした。
「キャバクラに身を落とした分際で、よくもこの聖域に足を踏み入れられたものね、麗」
振り返ると、そこに、本物がいた。
御門瞳。
聖クリストファー女子医科大学の眼科医。叔父・宗十郎の一人娘で、私の四つ上の従姉。どんなに小さな異常も見逃さない診断眼から、眼科学会では「クリスタルレンズ」と称される若き天才眼科医である。
艶のある黒髪を、細いヘアバンドで留めている。昔から変わらない。
縁の細い眼鏡の奥から、切れ長の目が私をとらえた。
「お久しぶりです、瞳お姉様。相変わらず、そのヘアバンド、素敵ね」
「お世辞は結構よ」
瞳お姉様は、ハンドバッグから小さな目薬を取り出した。
ぴちょん。
右目に、一滴。
ぴちょん。
左目に、一滴。
「……でも、目を細めて睨んでも、お姉様の探している『真実』は見つからないわよ」
「何ですって?」
ぴちょん。
三滴目だった。
◇ ◇ ◇
私は、お姉様の顔をじっと観察した。
完璧な化粧。完璧な姿勢。
けれど、目の下には、ファンデーションでも隠しきれない青黒いくま。白目は、うっすらと赤い。そして、ドレスの腰回りが、ほんの少しだけ窮屈そうだった。
「お姉様。そのルテイン、ご自分でも飲んでいるの?」
「当然でしょう。一日二粒。網膜を光の害から守る、眼科医の常識よ」
「それなのに、目薬が手放せないのね」
お姉様の指が、目薬の容器の上で止まった。
「……ドライアイよ。徹夜の手術と、論文の締め切りが続いただけ。眼の問題は、眼で解決するわ」
「眼は、独立した光学機器だと思っているのね」
「何を言っているの?? その通りじゃない。角膜、水晶体、網膜。眼は、人体でもっとも精密な光学機器。腸だの菌だの、関係ないわ」
ぴちょん。
四滴目。
「お姉様」
私は、声を落とした。
「最後にお通じがあったのは、いつ?」
お姉様の顔が、さっと赤くなった。
白目まで、さらに赤くなった気がした。
「な……っ、ここをどこだと思っているの! 厚生労働大臣のパーティーよ!」
「だから小声で聞いているの。四日? 五日?」
「…………五日」
消え入りそうな声だった。
「でしょうね」
◇ ◇ ◇
「お姉様。加齢黄斑変性の患者さんで、腸内細菌の顔ぶれが違っていたという報告があるのは、ご存じ?」
「……知っているわ。でも、相関よ。因果ではないわ」
「ええ。でも、マウスの研究では、食事を変えると腸の菌が変わって、網膜の傷み方まで変わった。腸と網膜は、血液を通じてつながっている。腸の壁が荒れて、炎症の火種が血液に乗れば、その煙は、目にまで届くのよ」
私は、黄金のピラミッドを指さした。
「ルテインは、脂に溶けて、腸から吸収される成分よ。腸がボロボロのままなら、どれだけ高い瓶を積み上げても、体に届く前に流れていくかもしれない。それじゃあ、ただの『高価な排泄物』よ」
「こ、高価な……」
お姉様の唇が、わなわなと震えた。
「それに、ドライアイ。目の乾きがひどい人ほど、腸内細菌の乱れが強かったという、小さな研究もあるわ。お姉様の目が乾いているのは、徹夜のせいだけじゃない。五日も出ていないお腹が、SOSを出しているのかもしれないのよ」
「……腸と、眼が?」
「そう。『腸眼相関』。かつて一族で『天才』と呼ばれた私の、妄言だと思う?」
「......も、妄言よ」
お姉様は、即答した。
「しかし、かつての御門の天才が、とんだ妄言を吐くようになったものね」
ぴちょん。
五滴目は、狙いを外れて、頬を伝った。
まるで、涙のように見えた。
◇ ◇ ◇
「お姉様」
私は、一歩近づいた。
そして、お姉様のドレスのポケットに、小さなガラスの小瓶を、そっと滑り込ませた。
「……な、何をしたの」
「菊芋のイヌリン。水に溶ける強力な食物繊維よ。明日の朝のコーヒーに、ひとさじ入れなさい。最初は少しずつね」
「だ、誰が、そんなものを」
「眼の健康を語るなら、まず自分の『出口』の管理から。網膜より先に、腸を診なさい。天才眼科医なら、できるでしょう?」
お姉様は、ポケットの上から小瓶を握りしめた。
取り出して、突き返すかと思った。
けれど、お姉様は、そうしなかった。
「……ふぅ......麗、あなたは、昔からそうだったわね」
「何が?」
「人の話を、聞かないところよ」
お姉様は、くるりと背を向けた。
「それから、麗。あなたこそ、ちゃんと目を休ませなさい。……キャバクラの照明は、網膜に悪いわ」
その背中は、人ごみの向こうに消えていった。
ヘアバンドだけが、最後まで、まっすぐだった。
◇ ◇ ◇
ホテルの化粧室。
鏡の前で、御門瞳は、ポケットの小瓶を取り出していた。
――麗……相変わらず、真っ直ぐな子ね……。
小瓶のラベルには、手書きの文字があった。
『瞳お姉様へ。毎朝ひとさじ。眼より先に、腸を診てね。 麗』
――昔は、お腹の医学書を読んでとせがんできた、小さな子だったのに。
瞳は、小瓶をバッグの奥にしまった。
目薬の、さらに奥に。
――あなたの目は、私が一生診てあげるって、約束したでしょう。
――一族から飛び出て、どこをほっつき歩いているのよ。本当にバカな妹ね。
鏡の中の自分の白目は、まだ少し赤かった。
◇ ◇ ◇
パーティー会場を出たところで、私は、ふと立ち止まった。
廊下のシャンデリアが、にじんで見えた。
光の輪郭が、ほんの一瞬だけ、ぼやける。
まばたきをすると、元に戻った。
「……疲れているは、私も同じかもね......」
ポケットの中で、スマホが震えた。
青山からだった。
『麗様、本日はありがとうございました。彰さんとのお席、次こそは必ず。 ――青山』
「……三つ目の貸しは、作らせないわよ」
それから、もう一件。
妹の結愛からだった。
『麗ねぇ、今どこいんのよ? お腹すいたじゃん!!。早く帰ってきて。帰ってこないと、麗ねぇの部屋の壁のよくわかんない白髭ジジイの絵の上に、勝手に絵を描くからね』
私は、小さく笑って、タクシーをつかまえ、妹の待つ家路についたのだった。
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麗の腸活ワンポイント
「腸眼相関」=腸の状態が、炎症や血液を通じて、目の健康にも影響しているかもしれないという考え方。
目のサプリを飲む前に、まずは腸に食物繊維を届けなさい。目薬を手放せない人ほど、出口の管理を忘れがちよ。
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――次回、第玖話「ピンクの反逆児、黄金のバナナを追え!」。
私の部屋に居候している、ピンク頭の末っ子。……あの子の腸は、昔、ゴミ箱だったのよ。
麗のEvidence Log(参考文献)
・Rowan S, et al. (2017) Involvement of a gut-retina axis in protection against dietary glycemia-induced age-related macular degeneration. Proceedings of the National Academy of Sciences of the USA 114(22): E4472–E4481.
・Zinkernagel MS, et al. (2017) Association of the intestinal microbiome with the development of neovascular age-related macular degeneration. Scientific Reports 7: 40826.
・Moon J, et al. (2020) Gut dysbiosis is prevailing in Sjögren's syndrome and is related to dry eye severity. PLoS One 15(2): e0229029.
※本作はフィクションです。作中の医学的な説明は一般的な研究知見をもとにしていますが、診断や治療の代わりにはなりません。目の不調が続く方は、眼科を受診してください。




