第漆話 清浄なる檻、閉ざされた多様性
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往診カルテ No.007
患者:御門湊(関東医療創生大学 医学部三年/私の弟)
来院目的:本人の希望(ただし、外で会うのは怖いらしい)
主訴:本人いわく「僕は、生まれつき菌に弱いんだ」
麗の診察:箱入りの無菌腸
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家を出て、菌を愛でる毎日を選んだ。
御門の名前も、白い巨塔の椅子も、全部置いてきた。
――けれど、血のつながりまでは、除菌できなかった。
◇ ◇ ◇
関東医療創生大学のキャンパスから、歩いて五分。
古い商店街の外れに、「喫茶パイエル」という小さな店がある。
小腸の壁にある、免疫の見張り所――パイエル板と同じ名前だ。誰が名付けたのかは知らない。けれど私は、この店名が、嫌いではない。
ドアベルが、からん、と鳴った。
焦げ茶色の木のカウンター。色あせたビロードの椅子。壁には振り子時計。
カウンターの端では、太った三毛猫が一匹、置物のように丸まっている。
窓際のいちばん奥の席に、弟がいた。
御門湊。
関東医療創生大学医学部の三年生。超一流とは言えないまでも、関東圏全域に大きな影響力を持つ私立のエリート医大生。私の、弟だ。
しかし、本当なら、父や兄と私をはじめとし、御門一族の登竜門、帝王大学医学部に進むはずだった。
けれど、あの子の体は「御門」の重さに耐えきれず、試験の前日に高熱を出して倒れたのだ。
「……姉さん」
湊が、怯えた仔鹿のような目で顔を上げた。
シュッ。
その手には、医療用の除菌ジェル。
テーブルの上には、アルコールで拭かれたらしい、まだ濡れているメニュー。
「久しぶりね、湊。除菌ジェルは……まだ手放せていないのね」
「ご、ごめん。外で会うの、ちょっと怖くて。母さんがいつも、『外の空気は菌だらけだ』って言うから」
シュッ。
二回目。
私は向かいに座り、弟の手を見た。
消毒液のせいで、指先は白く粉をふき、関節のところがひび割れて赤くなっている。
――日本美容皮膚科学会の会長の息子の手が、この店でいちばん荒れている。
「いらっしゃいませ」
白髪のマスターが、音もなく水を二つ置いた。七十は過ぎているだろう。表情というものが、ほとんどない。
湊は、水のグラスの縁をウェットティッシュで拭いた。
シュッ。
三回目。
「ブレンドを二つ。それと、この子にトーストを」
「ね、姉さん、僕、パンは――」
「食べられないの?」
湊は、小さくうなずいた。
「この前、学食のパンを一口食べただけで、ひどくお腹を壊したんだ。アレルギーもあるし、風邪もすぐひく。季節の変わり目には、必ず寝込む」
「風邪をひいたら、どうしているの」
「母さんの知り合いの先生に、抗生物質を出してもらってる。年に、五回くらい」
シュッ。
四回目。
「……僕、やっぱり、この『無菌室』の外じゃ、生きていけないんだと思う」
カウンターの三毛猫が、大きなあくびをした。
◇ ◇ ◇
「湊」
私は、テーブルの上で指を組んだ。
「医学部三年生に、質問するわ。風邪の原因の、大半は何?」
「……ウイルス」
「抗生物質は、ウイルスに効く?」
「……効かない」
「そうね。効かない。効かない薬を年に五回飲んで、そのたびに、あなたのお腹の中の菌たちが、何の罪もないのに焼き払われている」
湊の顔から、血の気が引いた。
「抗生物質を飲むと、腸の菌の顔ぶれは大きく変わる。しかも、くり返し飲むと、薬をやめても元どおりには戻りきらない人がいる。そういう研究があるのよ」
私は、マスターが運んできたブレンドに口をつけた。
「腸には、体の免疫細胞の大部分が集まっている。そして、その免疫細胞を『教育』しているのが、腸の菌たちなの」
「教育……?」
「たとえば、酪酸菌。食物繊維を食べて、酪酸という物質を作る。その酪酸が、免疫の暴走を止めるブレーキ役の細胞――制御性T細胞を育てるのを助けている」
私は、弟の目を見た。
「先生のいない学校で育った子どもは、何が敵で、何が味方か分からない。だから花粉にも、食べ物にも、ただの空気にも、全力で殴りかかってしまう。それが、あなたの『弱さ』の正体よ」
「……でも、母さんは、菌から守ってくれたんだ」
「ええ。守りすぎたのよ」
シュッ。
五回目。
「医者の卵なら、『衛生仮説』くらい聞いたことがあるでしょう?」
「……子どものころに、いろんな菌にふれる機会が少ないと、アレルギーが増えるっていう……」
「農家で育って、牛小屋や干し草のまわりで、たくさんの種類の微生物にふれてきた子どもたちは、ぜんそくやアレルギーが少なかった。そういう大規模な調査もあるわ」
湊は、ひび割れた自分の手を見下ろした。
「あなたの腸は、きれいすぎるのよ、湊。チリひとつない、真っ白な無菌室。でもね――」
私は、静かに言った。
「生き物の一匹もいない部屋を、人は『清潔』とは呼ばないわ。『廃墟』と呼ぶのよ」
◇ ◇ ◇
そのとき、カウンターの三毛猫が、むくりと起き上がった。
のし、のし、と床を歩き、まっすぐこちらへやってくる。
そして、何のためらいもなく、湊の膝の上に飛び乗った。
「ひっ……!」
湊が、石像のように固まった。
猫は、湊の膝の上でぐるりと一回転し、丸くなった。
満足げに、ごろごろと喉を鳴らしている。
「ね、姉さん、ど、どうしよう、ねこ、ねこが」
「動かないで」
「で、でも、毛が、菌が」
「湊。今あなたは、生まれて初めて、まともな菌と握手しているの。邪魔をしないであげて」
湊の右手が、震えながらポケットのジェルに伸びた。
その手首を、私はつかんだ。
「除菌ジェルを、よこしなさい」
「え」
「よこしなさい」
有無を言わせない声だった。自分でも、少し驚くくらいに。
湊の指から力が抜け、ジェルのボトルが、私の手の中に落ちた。
私はそれをバッグにしまい、代わりに、小さなケースをテーブルに置いた。
「これは、なに……?」
「菊芋のイヌリンを固めた特製プレバイオティクス・タブレットよ」
「き、キクイモ……?」
「薬じゃないわ。あなたのお腹に、追い出された『防衛軍』を呼び戻すための、軍資金。イヌリンは、腸の善玉菌の大好物なの。菌が増えれば、酪酸も増える。酪酸は腸の壁のすき間を締め直して、すぐに漏れる腸を、少しずつ立て直してくれる」
私は、指を一本立てた。
「ただし、いきなり大量にとらないこと。お腹が張ったり、ゆるくなったりすることがあるから。最初は一粒。お腹と相談しながら、少しずつ増やしなさい」
湊は、タブレットを一粒つまみ上げた。
そして、それをじっと見つめたあと――
ウェットティッシュで、丁寧に拭いた。
「……湊」
「ご、ごめん、つい」
「それは、菌のエサよ。エサを除菌してどうするの」
カウンターの奥で、マスターが、ほんの一瞬だけ肩を震わせた。……気がした。
湊は、拭いたタブレットを、おそるおそる口に入れた。
「……ちょっと、甘い」
「でしょう」
猫が、湊の膝の上で、大きく伸びをした。
◇ ◇ ◇
「手洗いは、続けなさい」
店を出る前に、私は言った。
「外から帰ったら、石けんと水で洗う。それは大事なこと。でも、一日に何十回も消毒する必要はないし、お腹の中まで消毒する必要は、もっとないわ。手が荒れたら、ちゃんと保湿すること。皮膚の菌も、あなたを守る住人なんだから」
「……うん」
「それから、食べ物の種類を増やしなさい。野菜、豆、海藻、きのこ、発酵食品。いろんなエサがあれば、いろんな菌が住める。多様性は、腸の中から始まるのよ」
湊は、膝の上の猫を、ぎこちない手つきでなでていた。
猫が、湊の荒れた指先を、ざらりとなめた。
「――マスター、お会計を」
「はい」
マスターは、伝票を置きながら、湊のほうを一瞥して言った。
「エムが膝に乗るお客さんは、珍しいんですよ」
「え、エム……?」
「この子の名前です。パイエル板にいる、M細胞から。外から来たものを、最初に受け止める細胞だそうで。昔、胃腸科の看護師をしていた家内が付けました」
マスターは、湊の膝の上で置物のように丸まっている三毛猫を見やった。
「見張り番のくせに、一日中寝ていますけどね」
「……そうなんですか」
「ええ。あの子、清潔すぎる人は嫌いですから」
湊が、目を丸くした。
私は、こらえきれずに小さく笑った。
◇ ◇ ◇
商店街の出口で、湊が立ち止まった。
「姉さん。……一つ、言っておかなきゃいけないことがある」
「何?」
「この前、家で、父さんと彰兄さんが話してるのを聞いたんだ。姉さんの研究室の、予算のこと。……詳しくは聞こえなかったけど、いい話じゃなかった」
湊は、うつむいたまま続けた。
「気をつけて。僕、何もできないけど……姉さんが、あの家に潰されるのは、嫌だ」
私は、弟の頭に手を置いた。
昔、こうしてやったのと同じように。
「ありがとう、湊。それと――」
私は、バッグの中のジェルのボトルを軽く叩いた。
「これは、返さないわよ」
「えっ」
「御門という無菌室は、もう、あなたには必要ないの」
湊は、少しだけ泣きそうな顔で、笑った。
弟の背中が改札の向こうに消えたあと、スマホが震えた。
『麗様、先日は本当に助かりました。……すみません、もう一つだけお願いがあります。来週、私の主催する医療系政治資金パーティーに、顔だけでも出していただけませんか。彰さんの監視は、少し緩めていただくよう話をつけますので。 ――青山』
「……ふ、厚労大臣が、キャバ嬢に二週続けて頭を下げるなんて」
私は、夜空を見上げた。
――貸しは、これで二つ目よ。大臣。
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麗の腸活ワンポイント
「衛生仮説」=子どものころに、さまざまな微生物にふれる機会が少ないと、アレルギーなどが起きやすくなるのではないか、という考え方。
清潔は大事。でも、腸の中まで無菌にする必要はないわ。手は石けんで洗って、腸にはいろんな種類のエサを届けなさい。
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――次回、第捌話「視界の混濁、あるいは聖域の崩壊」。
大臣の頼みで出向いたパーティー。そこで待っていたのは、高価なルテインを売る天才眼科医――私のお姉様よ。
麗のEvidence Log(参考文献)
・Dethlefsen L, Relman DA. (2011) Incomplete recovery and individualized responses of the human distal gut microbiota to repeated antibiotic perturbation. Proceedings of the National Academy of Sciences of the USA 108(Suppl 1): 4554–4561.
・Furusawa Y, et al. (2013) Commensal microbe-derived butyrate induces the differentiation of colonic regulatory T cells. Nature 504(7480): 446–450.
・Ege MJ, et al. (2011) Exposure to environmental microorganisms and childhood asthma. New England Journal of Medicine 364(8): 701–709.
※本作はフィクションです。作中の医学的な説明は一般的な研究知見をもとにしていますが、診断や治療の代わりにはなりません。処方されたお薬は自己判断でやめず、医師に相談してください。アレルギーや持病のある方は、食事を変える前に医療機関にご相談ください。




