第陸話 心、お腹、かさねて
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往診カルテ No.006
患者:御門宗十郎(都立医科大学 精神科教授・日本精神科学会会長/父の弟、私の叔父)
来院目的:偶然(厚労大臣に「家族の仲直りのため」と頼まれて出たレセプション会場にて)
主訴:本人いわく「腸と心は無関係だ」
麗の診察:兄上への嫉妬からくる過敏腸
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「お願いします、麗様。このとおりだ」
フローラのVIP席で、青山厚生労働大臣が、テーブルに額をこすりつけていた。
「来週の『御門医学賞』のレセプション。顔を出すだけでいい。私は来賓として、乾杯の挨拶をすることになっている」
「それと私に、何の関係があるのかしら」
「いや、その……」
青山は、顔を上げた。
「麗様と、御門のご一族が、少しでも歩み寄るきっかけになればと思いましてね。お父上も、彰さんも、いらっしゃるかもしれない。。。。家族は、仲良くするのが一番ですよ」
目が、泳いでいた。
右へ、左へ、そしてシャンデリアのほうへ。
「お父様とお兄様が??あの程度のレセプションにくるかしら??.......大臣、本音はなんなの?」
「ほ、本音も何も。純粋な、善意ですよ。麗様と揉めていて、彰さんがずっとご機嫌ななめで……もう、恐ろしくて……」
青山は、自分のお腹をさすった。
「......彰さんが恐ろしくて.......あれから、また三日、出ていない」
――ぐう。
大臣のお腹が、短く鳴った。
「あなたの腸は、正直ね。今の音、『善意』の音には聞こえなかったわ」
「こ、これは、その、空腹で」
「三日、出ていないお腹の音よ。私には分かるの」
青山は、おしぼりで額の汗をぬぐった。
国の医療をつかさどる男が、キャバ嬢の前で、自分の腸に裏切られている。
この国は、大丈夫なのだろうか。
それでも、断る理由は見つからなかった。
どうせ欠席すれば、一族会議のときと同じように、学会での立場や医師としての身分の剥奪の話を持ち出されるだけだ。
「……分かったわ。行ってあげる」
私は、炭酸水のグラスを置いた。
……面倒な夜になりそうね。
「その代わり、この貸しは、高くつくわよ」
「も、もちろんですとも!」
◇ ◇ ◇
その夜。
フローラを出た黒塗りの車の後部座席で、青山は、ひとり、ほくそ笑んでいた。
「ふふ……ふふふ……」
――これで麗様と御門一族が仲直りしてくれれば、わたしは、ますます御門からの支持を受けられる。
――そうすれば、全国の医師会からのバックアップが……。
――そうなれば、本当に、総理の椅子も夢ではないかも……!
大臣は、窓の外の夜景に向かって、小さくガッツポーズをした。
バックミラー越しに、運転手がちらりと後ろを見た。
後部座席の厚生労働大臣は、遠足の前の晩の小学生のような顔をしていた。
――ぐう。
そのお腹は、三日前から、何も出していなかった。
◇ ◇ ◇
会場の中央に、巨大な脳が鎮座していた。
氷でできた、人間の脳だ。
高さはおよそ二メートル。大脳のしわの一本一本まで、職人の手で丁寧に彫り込まれている。シャンデリアの光を浴びて、それは神々しく輝いていた。
「……チ、趣味が悪いわね」
思わず、声に出ていた。
都内の老舗ホテル、鳳凰の間。
御門一族が主催する「御門医学賞」の授賞記念レセプションだ。製薬会社の役員、大学病院の教授、厚労省の幹部――白い巨塔の住人たちが、シャンパン片手に虚栄を競っている。
私は紺のワンピースを着て、壁際の花のふりをしていた。
――地下のラボで、菊芋を洗っていたほうが、よほど有意義なのに。
演壇では、青山が乾杯の挨拶をしていた。
「えー、本日は、日本の医学の、えー、未来を……」
声が裏返っている。
原稿を持つ手が、小刻みに震えている。
壇上から、青山が私を見つけた。
ほっとしたように、小さくうなずく。
私は、グラスを軽く上げて応えた。
――ちゃんと来たわよ。あとは、自分のお腹と相談しなさい。
「――乾杯!」
グラスの音が響く中、氷の脳の左の側頭葉から、しずくが一滴、ぽたりと落ちた。
◇ ◇ ◇
「――心は、脳に宿るのです」
次に演壇に立ったのは、恰幅のいい初老の男だった。
御門宗十郎。
都立医科大学の精神科教授で、日本精神科学会の会長。そして、父の弟――私の叔父だ。
「うつも、不安も、すべては脳内の神経伝達物質の不均衡にすぎない。我々精神科医が向き合うべきは、ただ一つ。この――」
叔父は、背後の氷像を誇らしげに振り返った。
「人類の至宝、脳であります」
拍手が起きた。
その拍手の中で、氷の脳の左前頭葉から、しずくがまた一滴、ぽたりと落ちた。
――溶けているわよ、叔父様。あなたの至宝。
◇ ◇ ◇
「麗」
スピーチを終えた叔父は、まっすぐ私のところへやって来た。
「聞いたぞ。麗、お前は、父上の命も聞かず、いまだに腸活だの腸内細菌だのと吹聴しているそうだな」
「お久しぶりです、宗十郎叔父様」
「精神疾患は、脳の病だ。消化器のような下等な器官に、心が左右されるなど、断じてありえん。御門の名で、非科学的な話をするのはやめろ」
私は、叔父の姿をじっと観察した。
仕立てのいいタキシード。
けれど腹部だけが、不自然なほど平らに押さえつけられている。特注の補正下着だろう。
その下の腹が、ぱんぱんに張っているのが、私には分かった。
ワイングラスを持つ手が、小刻みに震えている。
そしてタキシードの右ポケットが、小さな四角い形にふくらんでいた。
――あの形は、知っている。
ガス抜きの薬。消泡剤の箱だ。
御門の男は、どうしてみんな、お腹を何かで締め上げているのだろう。
兄は腹帯。叔父は補正下着。遺伝なのか、家風なのか。
「叔父様。その高名な精神科医の椅子、座り心地はいかが?」
「……何だと」
「患者さんが、なかなか良くならない理由。本当は、気づいているんでしょう?」
叔父の顔に、さっと赤みがさした。
「貴様、誰に向かって――」
――ぐるるる。
低い音が、叔父のタキシードの中から響いた。
叔父は、言葉を飲み込んだ。
◇ ◇ ◇
「叔父様。脳を、外から切り離された独立国家だと思っているの?」
「……脳は、頭蓋骨と血液脳関門に守られた、最も高貴な器官だ」
「その関所は、腸からの手紙を、毎日受け取っているのよ」
私は、一歩近づいた。
「腸の壁が弱って、腸内細菌の毒素が血液に漏れ出すと、体のあちこちで小さな炎症が起きる。うつ病の患者さんでは、腸から毒素が漏れている兆候が強いという研究もあるわ。脳の中の火事の火元は、腸にあるのかもしれないのよ」
「……仮説だ」
「ええ。でも、仮説を検証するのが研究者でしょう?」
叔父は、鼻で笑った。
「腸ごときに、心を左右されてたまるか。脳が上で、腸が下だ」
「違うわ」
私は、叔父の目をまっすぐに見た。
「脳は、腸に恋をしているのよ」
叔父が、絶句した。
「腸からの声を、毎日待っている。腸が泣けば、脳も沈む。叔父様の患者さんは、心が弱いんじゃないわ。腸と脳をつなぐ電話線が、ノイズだらけになっているだけかもしれない」
「た、たわごとを……! 慢性便秘の便のような理屈を――」
「慢性便秘の便より硬い頭ね、叔父様」
――ぐるるるる。
叔父のお腹が、私の代わりに返事をした。
「いいわ。証明してあげる」
私は、近くのテーブルからグラスの水を取り、一口飲んだ。
「叔父様。私のお父様――叔父様の『兄上』は、お元気?」
――ぐるる。
「……な、何の話だ」
「兄上の『神の手』は、今も健在なのかしら」
――ぐるるる。
「兄上、今日はいらっしゃるの?」
――ぐるるるる。
叔父が、腹を押さえた。
周りの客たちが、ちらちらとこちらを見ている。
「ちょっとした実験よ」
私は、声の調子を変えずに続けた。
「アニサキス」
――ぐる。
「……『アニ』だけで、反応するのね」
「き、貴様……っ」
叔父の額に、脂汗がにじんでいた。
「今のが、何よりの証拠よ。叔父様の脳が『兄』という音を聞くたびに、ストレスの信号が腸に届いて、腸がけいれんしている。脳と腸は、同じ根から生えた共犯者なの。お腹が張るのも、ガスがたまるのも、手が震えるのも――全部、一本の線でつながっているのよ」
「……」
「叔父様はずっと、お父様の背中を追いかけてきた。御門の当主になれなかった弟として。その嫉妬と劣等感を、精神科の権威という鎧で塗り固めて」
私は、叔父のポケットを指さした。
「その鎧のいちばん内側で、お腹がずっと、泣いていたのよ」
叔父は、何も言い返さなかった。
ただ、震える手で、ポケットの中の四角い箱を握りしめていた。
◇ ◇ ◇
「……それで」
長い沈黙のあと、叔父が、絞り出すように言った。
「お前は、私にも、例の腸活とやらを施すつもりか」
「いいえ」
「……何?」
「叔父様には、プレバイオティクスは出さないわ」
叔父が、目を瞬かせた。
拍子抜けしたような、それでいて、ほんの少しだけ残念そうな顔だった。
「叔父様のお腹は、今、ちょっとした刺激でもすぐにけいれんして、ガスがたまる状態よ。菊芋のイヌリンは、腸の中で発酵してガスを生む。今の叔父様には、逆効果になりかねないわ」
「では、どうしろと」
「まず、呼吸」
私は、自分のお腹に手を当てた。
「鼻から四秒吸って、お腹をふくらませる。口から八秒かけて、ゆっくり吐く。ゆっくり吐くと、体のブレーキ役の神経が働いて、腸のけいれんが落ち着きやすくなるの」
「……呼吸、だと。精神科医の私に、呼吸を教えるのか」
「教えるわ。叔父様、さっきから一度も、ちゃんと吐いていないもの」
叔父は、黙った。
「それから、食事はゆっくり、よく噛んで。お腹が落ち着いてきたら、発酵しにくいものから、少しずつ腸の味方を増やしていけばいい。オリゴ糖の一種を毎日とった人たちで、朝のストレスホルモンが下がったという研究もあるわ。ただし、叔父様は、順番を守ること」
叔父は、周りを見回した。
そして、誰も見ていないのを確かめてから、小さく目を閉じた。
「……一、二、三、四」
吸った。
「……一、二、三、四、五、六――」
そのとき、会場の入り口がざわめいた。
◇ ◇ ◇
人波が、まるで潮が引くように、左右に分かれていく。
その真ん中を、一人の男が歩いてくる。
白髪まじりの髪。鋭い目。背筋の伸びた、長身の老紳士。
御門厳一郎。
御門一族の総帥。御門総合病院の院長。通称「カイザー」。医師としても「神の手」と呼ばれる外科医。
――私の、父だ。
「――ひっ、に、兄様.......」
叔父の八秒は、六秒で止まった。
――ぐるるるるるるるるる。
今夜いちばんの音だった。
近くにいたボーイが、思わず振り返った。
父は、こちらを見なかった。
叔父にも、私にも、一瞥もくれずに、まっすぐ演壇のほうへ歩いていく。
すれ違いざま、私は父の手元を見た。
シャンパングラスを持つ、外科医の右手。
その指先が、ほんのわずかに、震えていた。
――お父様?
問いかける前に、父の背中は人波の向こうに消えていた。
会場の中央で、氷の脳から、大きなかけらがはがれ落ちた。
前頭葉だった。
隣で、叔父が、もう一度目を閉じた。
「……一、二、三、四」
今度は、八秒、最後まで吐いた。
◇ ◇ ◇
ホテルを出ると、夜風が冷たかった。
スマホに、青山からのメッセージが届いていた。
『麗様、ありがとうございました。おかげで挨拶は無事に終わりました。ところで、お父上や彰さんとは、お話しできましたか? ……それと、さっき、出ました』
「……話していないわ。それと、報告しなくていいのよ、そういうのは」
――いえ、報告させているのは、私だったわね。
それでも、父の手の震えが、まぶたの裏から消えなかった。
あれは、年齢のせいなのか。それとも――。
バックの中で、今度はGENPAKUが震える。
弟の湊からだった。
『姉さん、今日、会場にいたよね。……少しだけ、話せないかな。外で会うのは、ちょっと怖いけど』
あの子は、母の「無菌室」の中で育った。
外の空気を、怖がるように。
「……いいわよ、湊」
私は、返信を打ち始めた。
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麗の腸活ワンポイント
「過敏性腸症候群(IBS)」=ストレスなどで腸が過敏になり、腹痛やお腹の張り、便通の乱れをくり返す状態。
腸の発酵が苦手なタイプの人は、食物繊維やオリゴ糖を一気に増やすと、かえってお腹が張ることがあるわ。少しずつ、自分のお腹と相談しながら増やしなさい。
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――次回、第漆話「清浄なる檻、閉ざされた多様性」。
除菌ジェルを手放せない、私の弟。……その「弱さ」は、無菌室が作ったのよ。
麗のEvidence Log(参考文献)
・Maes M, Kubera M, Leunis JC. (2008) The gut-brain barrier in major depression: intestinal mucosal dysfunction with an increased translocation of LPS from gram negative enterobacteria (leaky gut) plays a role in the inflammatory pathophysiology of depression. Neuro Endocrinology Letters 29(1): 117–124.
・Schmidt K, et al. (2015) Prebiotic intake reduces the waking cortisol response and alters emotional bias in healthy volunteers. Psychopharmacology 232(10): 1793–1801.
・Halmos EP, et al. (2014) A diet low in FODMAPs reduces symptoms of irritable bowel syndrome. Gastroenterology 146(1): 67–75.
※本作はフィクションです。作中の医学的な説明は一般的な研究知見をもとにしていますが、診断や治療の代わりにはなりません。お腹の不調が続く方は医療機関にご相談ください。




